子供がいてもラブラブな夫婦に10題
05:新婚気分
「だから、言っているでしょう? 急いで用事をすませて、できるだけ早く帰ってきますから──」
「いや!」
小さな息子に目の高さを合わせて、どうにかなだめすかそうとしている弥勒の言葉を大声で遮り、翡翠は目の前に立つ母の珊瑚の足に抱きついた。
「弥勒さま、珊瑚ちゃん、遅くなってごめんね」
「ああ、かごめさま」
巫女姿のかごめが、犬夜叉と一緒に弥勒の家にやってきたとき、弥勒と珊瑚はすでに旅の支度を整えていた。
「お忙しいのに、すみません」
「いいのよ、気にしないで。そろそろ出かけるんでしょ?」
かごめが弥勒と珊瑚を交互に見遣ると、
「そうなんだけど、翡翠が……」
困り果てたように珊瑚が答えた。
翡翠ばかりか、その横では双子の弥弥と珠珠も、ふくれっ面で足許を睨んでいる。
「翡翠も一緒に行く! いつも一緒に行ってるもん!」
「お空をごらん? すぐに雨になるよ。翡翠や姉上たちも一緒に行くのは、今日は無理だよ」
珊瑚は辛抱強く言い聞かせるが、翡翠は強情に首を横に振った。
「ハチに迎えに来てもらう。いつもそうしてるもん」
「ですから、何度も言ったように、今回はハチにも用があって、こちらへ来られないんですよ」
翡翠はうるっと涙目になった。
「……何があるの?」
かごめがこそっと犬夜叉にささやく。
「化け狸の集会だってよ」
犬夜叉はやれやれというようにため息交じりに答えた。
まだ午前中だというのに、空はどんよりと曇っている。
夢心の寺へ行かなければならない用事ができた法師と珊瑚だが、この空模様では、いつも寺へ遊びに行くように子供たち三人を連れて山道を行くというのは、どう考えても無理であった。
仕方なく、幼い子供たちは置いていくことにした。
しかし、狭い楓の家にやんちゃな子供を三人も預けるとなると、さぞ迷惑だろうと躊躇っていたら、かごめが助け舟を出してくれた。
彼女が弥勒の家へ泊まりにきてくれるという。
「でも、かごめちゃん。かなり迷惑かけると思うよ」
天候によっては、帰宅は明後日になるか明々後日になるか判らない。
今や楓の片腕として、巫女の仕事が忙しいかごめに甘えてもいいのだろうかと珊瑚は最後まで迷っていたが、
「何とかなるわよ。本当に大変なときはりんちゃんにも応援を頼むから」
持ち前の面倒見のよさで、かごめは快く子守りを引き受けてくれた。
犬夜叉も、女子供だけの夜は物騒だというので、法師宅に一緒に泊まることになった。彼は子供たちが生まれたときからの付き合いなのだ。
そのようなわけで、出かける準備はすっかり整っているのだが、当の子供たちが、どうしても留守番を納得してくれない。
「……ねえ、弥勒さま。翡翠だけでも連れていく?」
「そうですなあ……」
困り果てた弥勒と珊瑚はひそひそと言葉を交わす。
だが、ふと弥勒が視線を上げると、弥弥と珠珠が思いきり眉をひそめて、むうっと父を睨みつけた。
焼きもちを妬いたときの珊瑚そっくりの表情である。
こんな場合でなければ、喜んでなだめてやって、何でも二人の言うことを聞いてしまいそうな弥勒だが、わざとらしく咳払いをして、その気持ちを誤魔化した。
「そうだ、土産を買ってきてあげましょう。かごめさまを困らせず、三人仲よく留守番をしたら、どこかの町で何か珍しいものを──」
「……寄り道したら、帰ってくるの遅くなるよ」
ぼそっと弥弥に突っ込まれ、弥勒は言葉に詰まった。
双子の姉妹は、珊瑚に似てますます可愛らしく、そして、弥勒に似てどんどん口が達者になる。
留守番が不満なのは弥弥と珠珠も同じであり、二人がはっきり不平を言わないのは、翡翠に対して、かろうじて姉としての矜持を保っているというだけのことだ。
翡翠はぐすぐすと鼻をすすり上げ、駄々をこねて珊瑚から離れようとしなかった。
「父上と母上は、雨になる前にできるだけ歩きたいから、弥弥も珠珠も翡翠もいい子にしてて? そうだ、弥弥も珠珠も、かごめちゃんのお話が好きだろう? 一緒にいてもらったら、お話いっぱい聞かせてもらえるよ」
かごめが知る話は、この村の誰もが知らない話ばかりで、母の珊瑚とは全く趣の異なる彼女の話を、双子は不思議でロマンチックな話だと感じ、好んでいた。
それに、忙しいかごめにずっと一緒にいて構ってもらえるというのは滅多にないことでもある。
「そうね。どうせ、今日は午後から降り出すだろうから、いい子にして、お手伝いもしてくれたら、とっておきの話をしてあげるわよ」
双子は少し心が動いたらしい。
だが、翡翠はまだ渋っている。
腕組みをして傍観していた犬夜叉が、思い出したように言った。
「なあ、翡翠は狸が好きなんだろ? 狸が出てくる話とかねえのか?」
「……狸のお話?」
興味をひかれた様子の翡翠が、涙でいっぱいの眼で、ちらとかごめを見上げる。
「狸……狸の話ねぇ。……あ、あるわ! 悪い狸が利口な兎にコテンパンにやっつけられる話。面白いわよ」
「狸、やっつけられるの……?」
翡翠の瞳は先刻にも増してうるるっとなる。
かごめは大慌てで話題を変えた。
「そうだ、七宝ちゃんから翡翠ちゃんにって、独楽を預かってたんだ。うまく回せるように、みんなで練習しない?」
「もう持ってるもん」
「もっと難しいやつよ。狐妖怪の独楽だから、大人だって、そう簡単には回せないわ」
「……くれるの?」
「上手に回せるようになったら翡翠ちゃんのものよ。父上と母上を見送ったら、すぐに取ってきてあげる」
子供たちは、三人ともようやく気が紛れたようだ。
「すみません、かごめさま」
小声で言う弥勒を安心させるように、かごめはにっこりした。
「大丈夫よ。弥勒さまも珊瑚ちゃんも、二人きりで出かけるなんて滅多にない機会でしょう? こっちのことは気にせず、寄り道してきたって構わないわよ」
「では、お言葉に甘えて……」
途端に満面の笑みを浮かべる弥勒の後頭部を、すかさず珊瑚が軽くはたいた。
「かごめちゃん、犬夜叉も、本当に悪いね。できるだけ早く帰ってくるつもりだから」
「気にすんな。子供らの気が変わらねえうちに早く行けよ」
弥勒と珊瑚は、子供たちの頭を一人ずつ撫で、「いい子でね」とささやいて、出発した。
雨雲に覆われ、空はもうだいぶ暗い。
雨笠などの雨具を用意しているほか、珊瑚は飛来骨こそ携えていないが、二人は、奈落を追って皆で旅をしていた頃と同じ格好だ。
二人の後ろ姿に懐かしさを覚えたかごめは、ふと、その頃とは異なる印象を抱いた。
並んで歩く弥勒と珊瑚の距離が、あの頃よりずっと近くなっているのだ。
「こうして見ると、なんか新婚さんみたいね」
「新婚さんって?」
翡翠が問うと、かごめはその場にしゃがみ、幼い彼の顔を楽しげに見つめた。
「あんたたちの父上と母上は、夫婦になって何年も経つのに、まだ夫婦になったばかりみたいねって思ったの」
「ふうん」
「でも、父上と母上は、いつもあんな感じだよ?」
「──確かにな」
不思議そうにかごめを見遣る珠珠の言葉に、犬夜叉が可笑しそうに苦笑を洩らした。
「……降ってきたね」
小雨がぱらついてきた。
山道にさしかかった弥勒と珊瑚は雨笠をかぶり、足を速める。
「子供たち、犬夜叉とかごめちゃんを困らせてなければいいけど」
「大丈夫ですよ。一人ではなく、三人一緒なんですから。次に近くに市が立ったら、子供たちに、何か喜ぶものを買ってやりましょう」
「そうだね」
足場のよくない場所では、弥勒が珊瑚の手を取り、誘導する。
「だが、珊瑚。折角ですから、家に帰るまでは二人きりを満喫しましょう」
意味ありげに微笑む法師を見て、祝言をあげたばかりの頃に戻ったように、珊瑚は胸をときめかせ、頬を染めた。
今では子供たちがいない生活など考えられないが、たまにこうして二人きりになるのも、悪くはなかった。
〔了〕
2015.2.7.