子供がいてもラブラブな夫婦に10題
07:叱るときには
仕事から帰宅した弥勒が玄関をくぐると、中から聞こえてきたのは、子供たちの泣き声だった。
何かしでかしたなと、むしろ微笑ましく思い、そっと居間に入ると、父親に気づいた翡翠が泣きながら駆けてきた。
「父上ー!」
「どうした、翡翠? 何があったんです?」
「母上がお尻ぶったー!」
小さな翡翠はすすり上げながら父に訴えた。
居間には、珊瑚はもちろん、弥弥と珠珠もいた。
双子の姉妹も半べそをかきながらお尻をさすっているので、皆、公平にぶたれたのだろう。
「何事ですか、珊瑚?」
囲炉裏のそばに厳しい顔で正座する珊瑚は、「お帰り」と、眦をきつくしたまま、夫へ目を向けた。
怒った顔もまた格別に美しい、などと惚気たことを考えながら、一応、弥勒もしかつめらしい顔をする。
「子供たちが悪戯したの。けじめはつけないとね」
「でも、暴力はいけませんよ、珊瑚。おまえの平手は結構効くんですから」
「暴力ってなにさ。弥勒さま相手のときと同じ調子で引っぱたくわけがないだろ。こんなもんだよ」
珊瑚は立ち上がり、弥勒の腕を軽くぱしっと打ってみせた。
「だけど、半分はあたしのせいでもあるんだ。ごめん、弥勒さま。ちょっと目を離したすきに……」
「ごめんなさい、父上」
「もう、絶対しない」
「……ない」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、三人の子供たちは神妙に謝った。
その裏には、母より父のほうが自分たちに甘いという計算がないでもない。
「何故、叱られたのか、解っているか? それを理解して反省しているのであれば、もういいですよ。いい子だから、泣きやみなさい」
「もう怒ってない?」
「父上は初めから怒ってなどいないでしょう?」
「あのさ、弥勒さま」
双子の頭を撫で、囲炉裏の前に腰を下ろして幼い息子を膝に乗せようとする法師に、珊瑚が勿体ぶった様子で声をかけた。
「その科白は、現場を見てからにしてくれない?」
「え゛……?」
嫌な予感に弥勒は固まる。
「なんですか、これは!」
寝間を見た弥勒の第一声がそれだった。
文机が置かれ、弥勒の書院も兼ねた寝間は、床一面に破魔札や巻き物が散乱し、たっぷりと墨を含んだ三本の筆が転がっていた。
破魔札にも巻き物にも、解読不能な文字らしきものがびっしりと書き込まれている。
唯一の救いは、床に墨をこぼしていないことくらいか。
「破魔札に触ってはいけないと、いつも言っているでしょう! それに、その経典は、夕べ、ようやく写し終えたものですよ? かなりよい値がつくというのに──」
惨状を目の当たりにして、弥勒は愕然とする。
最近、双子の弥弥と珠珠は手習いを教わり始めたところで、墨で文字を書きたくて仕方がない。父の写経の真似をするのが目下のお気に入りだった。
普段は弥勒の書き損じや、使い古した紙をもらって練習するのだが、この日は、束ねた破魔札が文机の上に置かれ、その隣には手本にちょうどいい巻き物まであるのを見つけてしまった。
さっそく墨をすり、筆をとり、さらさら、さらさら、と、難しい文字を書いている気分で札や巻き物の余白に筆を走らせる。翡翠はお絵描きである。
「弥弥、珠珠、翡翠。ちょっとそこへ座りなさい」
大抵のことには動じない弥勒だが、こと破魔札や妖怪退治の道具のこととなると、厳しい。
珊瑚の使う武器など、うっかりおもちゃにしたら大怪我をしかねないし、落書きされた破魔札を気づかずに使おうものなら、妖怪退治を仕損じるどころか、下手をすると生命にかかわる。
「三人とも。お札がどういうものか、解っているな?」
弥勒と向かい合って座った三人は、緊張した面持ちでこくんとうなずく。
普段は自分たちに甘い父上でも、やはり、怒ると母よりずっと怖いのだ。
厳しい父の声音にしゅんとなる子供たちを見て、珊瑚はさりげなく立ち上がり、台所から薬湯の入った茶碗をもってきた。
この日、珊瑚は台所で薬草の煎じ方をいろいろと試していたのだが、子供たちの悪戯に気を取られ、煎じすぎて失敗してしまった。
「弥弥、珠珠、翡翠。今日、煎じすぎたお薬だよ。どんな味になったか飲んでごらん」
それを子供たちに、一口ずつ飲ませる。
「に、にが……」
子供たちは顔をしかめた。
「父上の気持ちは、もっと苦いんだよ?」
「……はい」
三人はしゅんとしてうなだれた。
弥勒は大きなため息をついた。
「もういいでしょう。ただし、部屋は夕餉までに三人で片付けるように」
「ええー?」
「だって、夕餉までに終わらないよ」
「今日、ご飯、ないの?」
翡翠がまた泣きそうになる。
「夕餉は待っていてあげますから、自分たちでしたことの後片付けは自分たちでしなさい。当然でしょう?」
「……はい」
しぶしぶ動き出す子供たちを横目に見遣り、弥勒は立ち上がった。
「弥勒さま」
寝間を出る法師を追いかけ、珊瑚が彼の腕に手をかける。
「本当にごめん。薬草についての覚え書きを探していて、うっかり子供たちの手が届く位置に破魔札とかいろんなものを置きっ放しにしてたんだ。そのあとはずっと台所にいて、気づくの遅れて……これからはもっと気をつける」
夢心の寺から借りてきた虫食いだらけの色褪せた経典を、一文字一文字、念を込め、夕べやっと写経し終えた弥勒の苦労を知る珊瑚は、労わるように彼に寄り添い、ささやいた。
法師自身の修行も兼ねているが、むろん、完成品は高く買い取ってくれそうな裕福な客に売りつける予定だ。
「まあ、経典はな。これも修行だと思って、最初から写しなおします。だが、札一枚で米一俵になるということを、子供たちにも徹底させなければならんな」
「言いつけを守らなかったから、怒ったんじゃなかったの?」
弥勒の洩らす愚痴を聞き、珊瑚は苦笑した。
「大事な仕事道具だとは、いつも言い聞かせているんだけどね」
二人は寝間を覗き、派手に散らかしたあとをしょんぼりと片付けている子供たちの様子をそっと窺う。
室内からは見えない板戸の陰で、弥勒が珊瑚の耳に唇を寄せた。
「珊瑚。申し訳ないと思うなら、今宵、私を慰めてくれるか?」
耳朶を食まれ、くすぐったそうに、珊瑚は吐息のようなささやきを返した。
「いいよ」
「一晩中?」
「それで弥勒さまの気がすむなら」
「一晩ではすまんかもしれんぞ?」
「欲張りだね」
困ったように珊瑚は笑い、二人は軽く口づけを交わす。
その晩、子供たちは「罰として」早く寝かされた。
〔了〕
2015.5.10.