カジノにて

 きらびやかなフロアに着飾った男女が集う。
 ここ、マイカ公国ではカジノが合法的に認められ、定められたエリアにある国営のカジノには、いくつもの娯楽施設が併設され、一年を通して大勢の人たちで賑わっていた。
 弥勒がディーラーとして勤めるカジノ・トゥーテイルズも、そんなカジノのひとつであった。

 黒のタキシードをさりげなく着こなした背の高い青年が、ゆったりとした足取りで、広いフロア内をあちこち見廻しながら歩いている。
 彼、弥勒はこの日はオフだったが、昨夜、仕事中にナンパした女性客と、この辺りで会う約束になっているのだ。
 しかし、これだけ探しても見つからないということは、
(振られたか)
 所詮、行きずりの間柄である。
 他の男と意気投合したか、ゲームに夢中になっているのかもしれない。
 突然、時間があいてしまった弥勒は、小さくため息を洩らし、ふと、斜め後ろを歩く若い娘の姿に目をとめた。
(ほう、これは)
 彼よりも二、三歳は年下だろう。
 約束していた女性よりもずっと美しい。
 ワインレッドのカクテルドレスに身を包み、同色のハイヒールを履いた二十歳過ぎに見える娘が、優雅にフロアを横切ろうとしている。
 優雅に、というには嫌にゆっくり過ぎる歩き方だったが、歩く速度に合わせてロマンティックチュチュのようなふんわりとしたスカートが可憐に揺れ、それはそれで魅力的な眺めではあった。
 そんな彼女の姿が、かくんと落ちた。
(あっ……)
 じっと彼女を見つめていた弥勒は、こけてしまった彼女のもとへ急いで駆け寄り、さっと片手を差し出した。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
 床にうずくまった娘が、動揺したように顔を上げて、彼を見た。
 ショール・カラーのタキシードを優美に着こなした端整な顔立ちの青年が、腰をかがめ、柔和に彼女を見つめている。
 手を差し伸べて、魅惑的に微笑む様は完璧すぎて逆に胡散臭いほどだと彼女は思ったが、口には出さず、差し出された手を取って、立ち上がろうとした。
「……ありがとう。あたし、こんなところで格好悪い……たっ!」
「失礼」
 よろけた娘を支え、弥勒はそこにひざまずいて、彼女の足首を調べた。
「捻ったようですな。それほどひどくはないようです。ですが、痛みが治まるまで、あちらのバーで飲み物など如何ですか?」
「え……」
「怪しい者ではありません。私はここのスタッフです」
 弥勒は内ポケットから身分証を取り出し、娘に示した。
「弥勒……さん? ここのディーラー? でも、制服じゃないよね」
「今日はオフなので」
 青年の素性が判ったせいか、娘はほっとしたような色を見せた。
「あなたの名前は?」
──珊瑚。でも、飲み物につきあう時間はないんだ。連れが待っているから」
「彼氏、ですか」
 盛大にため息をつきたい落胆を微塵も表に出さず、弥勒が軽い調子で尋ねると、珊瑚は眉根を寄せてつぶやいた。
「ううん、債権者」
 穏やかでない言葉に弥勒の眉が上がる。
「あの、弥勒さん? ルーレットのところで待ち合わせなんだけど、この方向で合ってる?」
「ご案内しますよ。一人では歩けないでしょう。私に掴まってください」
 腕を差し出され、珊瑚は遠慮がちに彼の腕に掴まったが、やはり歩きにくいようだ。
「もっと体重をかけても大丈夫ですよ。こういう場所では、男女が密着しているより、びっこを引いているほうが目立ちます」
 はっと恥ずかしそうに頬を赤らめた娘は、弥勒の腕にしがみつき、できるだけ何でもないふうに歩こうと努めた。
 カジノフロアは大勢の客で賑わっていたが、広々としているため、人の多さはさほど気にはならない。
 足を痛めた娘が同伴者の青年の腕にしがみつくようにして、ゆっくりゆっくり歩いていても、誰も気にとめることはなかった。
 豪華な建物、きらびやかな内装、着飾った人々があふれるこの場の空気に、彼女が気後れしている様子が解る。
 弥勒は珊瑚が歩きやすいようペースを調節しながら、さりげなく彼女を観察した。
 ワインレッドのカクテルドレスがよく似合っている。
 長い髪はふんわりと結い上げ、アクセサリーの類いは付けていないが、華美な女性を見慣れている弥勒には却ってそれが好ましかった。
 ただ、鮮やかな色のドレスに、ベースコートを塗っただけの爪は不釣り合いに見えた。
 彼の視線に気づいたらしい珊瑚は、ばつが悪そうに口を開く。
「ドレスは借り物。靴はサイズを合わせるために買ったけど、こんなに高いヒールは初めてなんだ。だから転んでしまったの。マニキュアまでは気が回らなかった」
「では、カジノも初めてなんですね? 私がエスコートしたいと言ったら、迷惑ですか?」
 珊瑚は驚いたように弥勒の顔を見上げた。
「あんた、プロだろ? 雇うほどの余裕はないよ」
「今日はオフだと言ったでしょう? 仕事抜きでつきあいますよ」
 他意なく言ったのだが、娘の表情がいささか胡乱なものになる。
「もしかして、ナンパされてる……?」
「いいえ? ものすごく好みの女性なので、できればお近づきになって、あわよくば電話番号かメールアドレスを教えていただいて、食事などご一緒できればなーと思っているだけです」
 とっておきの笑顔を向けてみれば、たちまち頬を染め、うつむいてしまう娘の初心な反応に、弥勒のほうが、まるで初めて恋を知った少年のように、胸の高鳴りに戸惑ってしまった。
「……変な人」
 やっとのことで珊瑚がつぶやいたときには、二人はルーレット台の前まで来ていた。
「お嬢さん!」
 正装しているが、あまり人相のよくない男が二人、珊瑚の到着を待っていた。
「遅いので、逃げたのかと思いましたよ」
 珊瑚は弥勒の腕から離れ、痛めた足で用心しながら男たちの前まで進んだが、表情も声も硬い。
「遅れたことは謝ります。でも、逃げたりしません」
「約束の額をここで用意できなければ、今度こそ結婚を承諾してもらいますぞ」
「あなたさえ承知すれば、武田財閥の御曹司は全てを肩代わりするとおっしゃっているんです。あなたにとっても玉の輿でしょう?」
 それ以外にもぼそぼそと交わされる会話の断片から、弥勒はだいたいの事情を察した。
 珊瑚の父が急死し、経営していた小さな会社が倒産。負債を抱えて亡くなった父の代わりに、返済を迫られた珊瑚が、債権者たちに一攫千金も夢ではないとカジノに連れてこられたようだ。
 男たちはカジノで珊瑚を負けさせて、財閥の御曹司との結婚を承諾させたいらしい。
 そして、珊瑚は結婚話に乗り気ではないようだ。
 慣れないハイヒールで、世慣れない娘がそんな事情で一人でこのような場所に来て、さぞ心細いだろうと、弥勒は彼女をいじらしく思った。
 無条件で守ってやりたくなる。
「お嬢さん、そちらの方は?」
 男たちの視線を受けた弥勒は、珊瑚の背後まで歩み寄り、にこやかに挨拶をした。
「弥勒と申します。本日、珊瑚嬢に雇われました。珊瑚嬢のパートナーを務めさせていただきます」
 珊瑚は驚いて弥勒を振り返った。
 話が違うと男たちは慌て出したが、その先は弥勒の領分だ。
 ルーレットのディーラーは彼の後輩だった。
 そちらをちらりと見遣ると、弥勒の姿を認めたディーラーは困ったように苦笑した。
 どうやら、男たちに買収されていたらしい。

 その日、弥勒は珊瑚に付き添って、ルーレット、バカラと場を移動しながら、彼女にゲームのルールやコツなどを教え、負債の額も聞き出した。
 立場上、不正行為はできないが、それでも自分の腕だけで、弥勒は珊瑚に必要な最低限の金額をわずか数時間で作ってしまった。
 鮮やかな手並みに舌を巻く男たちを尻目に、弥勒はカジノ側の事務的な手続きを取る。
 これだけ用意すれば文句はないだろう。
 珊瑚は彼らと手短に話し合い、そのあと、クロークに預けていたスマートフォンで、必要な相手に連絡を入れていた。

 問題が一段落し、男たちと別れてから、珊瑚は彼女を待つ弥勒のもとへやってきた。
 辺りはすっかり夜の闇に包まれている。
「ありがとう」
 印象的にライトアップされたカジノのトピアリーガーデンで、彼女は弥勒に丁寧に礼を述べた。
「あたし一人じゃどうにもならなかった。本当に感謝してる」
「無茶なお嬢さんですな。素人がどうにかできる額ではありませんよ」
 弥勒はトピアリーの間の小径へ彼女を誘い、カジノの喧騒から離れた静かな場所で、二人は並んで石のベンチに腰を下ろした。
「本気でカジノで一攫千金を期待してたわけじゃないよ。ただ、自分の気持ちに区切りをつける切っ掛けが欲しかったんだ」
「では、例の御曹司との結婚を?」
 珊瑚はうなずいた。
「とってもいい人なんだ。でも、お金のためなんて、政略結婚みたいだろう? 結婚は好きな人とするものだって思ってたし」
 庭園のトピアリーは巨大なチェスの駒の形に刈り込まれている。
 いくつものチェスの駒が絶妙に配置されたライトに照らされて、夜の闇に幻想的に浮かびあがる様を、珊瑚はじっと見つめた。
「現実から逃げることができないのは解ってた。でも、それと同時に、カジノに行けば何か特別なことが起こるかもしれないって夢見てた。まさか、本当にこんな夢みたいなことが起こるなんて……」
 ふわりとベンチから立ち上がった珊瑚の姿を目で追いかけ、弥勒は、彼女がこのまま帰ってしまうことを思い、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
 だが、珊瑚のほうにも、このまま弥勒と別れがたい気持ちがあるらしく、彼女は立ち上がっただけでいつまでも動こうとせず、ずいぶん長く躊躇っていた。
「あの、きちんとお礼はするつもり。でも、今のあたしは一文なしだから、何年もかかるけど。……連絡先、教えてもらってもいい?」
 こちらに背を向けたまま躊躇いがちに言う彼女の声音に、ふと感じるものがあり、弥勒も立ち上がって、うつむく珊瑚の顔を覗き込むようにした。
「では、これから夕食を一緒にどうです? それがお礼ということで。このカジノ・トゥーテイルズのフレンチは絶品ですよ」
 一緒にいる口実を得て、弥勒はにっこりと珊瑚に微笑みかけた。
「え、でも」
「そうだ、疲れているでしょうから、いっそ私の部屋でルームサービスを取りましょうか」
「……部屋?」
 ナンパされていたことを思い出し、珊瑚の表情がやや険しくなった。
「なんかやらしいこと考えてない?」
 警戒を露に猫のような眼で睨まれ、弥勒は慌てて言い直す。
「何もしませんよ。隣のホテルのスイートに住んでいるんです。そのほうが便利かと思っただけで」
「隣……って、あの高級ホテル? って、スイートって、あんた何者?」
「ホテル王の覚えがよくて」
 屈託なく笑む弥勒を、珊瑚は唖然と見つめている。
 この娘とは、一日だけの行きずりの関係で終わらせたくはない。
 少しでも長く一緒にいるため、弥勒は慎重に言葉を選んだ。
「珊瑚嬢さえよければ、私の部屋で一晩中語り明かしませんか。窓からの夜景がとても綺麗ですよ」
「珊瑚でいいよ。あたし、そんなふうに呼ばれる立場じゃないから」
 眼を逸らす珊瑚の手を取った弥勒は、小さな手を自分の腕に組ませ、それからゆっくり歩き出した。
「では、珊瑚。珊瑚が今後どうするのか、教えてください。スマホや、それ以外の連絡先も」
「家はすでに処分したから、早々に出なければならない。住むところも仕事もこれから探す」
「えっ、じゃあ……」
 はっとした弥勒が娘を見た。
「では、この街へ、私のところへ来ませんか?」
 言ってしまってから、早計かと後悔したが、眼を大きく見張った珊瑚の表情に不快の色はなく、純粋な驚きに彩られていた。
「必要な荷物だけ持って、住むところが見つかるまで、私の部屋にいればいい。ベッドは二つあります。ベッドルームが二つあるスイートに移れば、プライバシーも守れる。そうしたら、そのまま居続けてくれても構いません。仕事を探すのも手伝います」
「でも、あたしはあんたのこと、何も知らないし」
「だから今夜、互いのことを語り合いませんか。心配せずとも紳士的に振る舞いますよ。でも、いつかは特別な関係になりたいと、それくらいの下心があってもいいでしょう?」
「……」
 “特別”。
 それこそが、今日、出逢ったばかりの彼に自分が望んでいたものだと気づき、珊瑚はいきなり彼の腕から離れ、動揺を抑えるために、熱を持つ頬を両手で押さえて顔を伏せた。
「どうしよう」
「どうしました?」
 弥勒の声は微笑を含んでいる。
 両の掌で包む頬は信じられないほど熱く、胸が苦しく、涙までこぼれそうだ。
「そんなこと言われたら、普通は騙されてるって思うはずなのに。……どうしよう、もっと、夢を見せてほしくなる」
「私も珊瑚と同じ夢が見たいと言ったら、おまえは私に夢を見せてくれますか?」
 高鳴る鼓動を抑え、顔を上げた珊瑚の瞳に、ライトアップされたルーレットの形のトピアリーが映った。
 覚悟を決めたように息を吸い込むと、彼女は弥勒に向き合い、まっすぐに端整な彼の顔を見上げて言った。
「黒」
「え?」
 珊瑚の指が黒のタキシードの襟をつつく。
「あたしは珊瑚だから35。今後の人生を、黒の35に賭けてみる」
「では、私は弥勒なので36。私たちを出逢わせてくれたおまえのハイヒールの色、赤の36に賭けます」
 赤いドレスの腰におもむろに弥勒が手を伸ばそうとすると、はっとなった珊瑚は反射的に後退さった。
 だが、幸か不幸か、庭園の小径はハイヒールには適さない。
 思わずよろめいた珊瑚の身体を弥勒が抱きとめ、次の瞬間には力強く引き寄せられていた。
 抱き寄せられたとき、一瞬、弥勒の顔が珊瑚の顔にかぶさり、彼女の唇を何かがかすめた。
 唇を奪われたと珊瑚が気づいたのは、何事もなかったように弥勒が珊瑚に腕を貸した、その数秒あとのことだった。
 真っ赤になって睨む珊瑚の視線を受けて、弥勒は悪戯っぽく微笑した。
「夢から醒めないおまじないですよ」
 夜が明けて、非日常の世界が色あせても、二人はまた、新たな夢を作る。

Fin.

2013.6.23.
サイト収録 2014.5.29.

『弥珊パラレル企画-xxx-』投稿作品。