頬をくっつける
つきあい始めて一ヶ月。
その日、二人は一緒に小さなアンティークショップを訪れた。
弥勒、二十一歳。
珊瑚、十九歳。
同じ大学の学生だが、学部が違う。
共通の友人の紹介で知り合い、惹かれ合い、恋人としてつきあうことになるまで、それほど時間はかからなかった。
そして、ひと月が経ち、その記念に珊瑚から手料理を振る舞われた弥勒が、お礼という形で珊瑚へのプレゼントを選ぼうということになったのだ。
この店の主な商品は家具や雑貨だが、奥のほうに少しだけアクセサリーが置いてあり、この日の二人の目当てはそれである。
店内はひっそりとしていた。
アンティーク家具がディスプレイされた表のほうに客はいるが、細長い店の奥にほとんど人影はなく、弥勒と珊瑚は、ほとんど二人きりで、大小の家具が置かれた狭い店内を見て廻った。
あれが好き、これが好き、目についた商品を指差して、そんなことを言い合いながら、アクセサリーの棚を探した。
「あ、珊瑚。あそこですよ」
弥勒は歩調を早め、棚に辿り着く。
目をつけていたブレスレットはまだあった。
「珊瑚……?」
ついてくる気配のない彼女を振り返ると、珊瑚は少し手前のキャビネットの前で立ちつくしていた。
弥勒は通路を引き返す。
「何かありましたか?」
「弥勒先輩、これ、見て」
「オルゴール……ですか? 大きいな」
他の雑貨とともにキャビネットの上に置かれた艶のある木の箱は、幅四十センチはありそうだ。
「珊瑚はこういうの好きですか?」
「何となく気になって。いいなって」
オルゴールの前にたたずむ珊瑚の左隣へ移動した弥勒が、さりげない動作で彼女の右肩に手を置き、彼女の顔の高さにまで長身をかがめた。
頬をくっつけ、顔を並べるように。
「!」
珊瑚は息が止まりそうになる。
キスはした。
でも、こんなに近くに彼の顔を感じるのはまた何か違う。吐息が耳元でさざめくようだ。
「珊瑚、ゼンマイを巻いて。音を聴いてみましょう」
「う、うん」
その体勢のまま、うるさい鼓動に呑まれそうになりながら、珊瑚は手を伸ばしてオルゴールの蓋を開けた。
蓋を開けると、存在感のある大きな円盤が現れる。
彼女はネジに指をかけた。
「いい?」
「ああ」
注意深く、少しだけゼンマイを巻くと、大きな円盤が廻り、やさしい旋律が流れ出した。
「弥勒先輩、この曲、知ってる?」
「いや。でも、いい音色だな」
徐々にテンポが遅くなり、完全に音が止まるまで、二人は頬を寄せたまま、古いオルゴールのあたたかくてやわらかな音色にじっと聴き入っていた。
静寂が戻る。
珊瑚がまだ緊張して身を固くしていると、弥勒は彼女の肩から手を外し、まっすぐ立った。
「これがいいですか?」
珊瑚は少し考えた。
まだ胸がドキドキしている。──弥勒との距離に。
「じゃあ、これを……」
「って、ちょっと待った、珊瑚!」
いきなり、それまでとは異なる語調で言葉をさえぎられ、珊瑚は驚いて顔を上げた。
「どうしたの、先輩?」
「ここを見てください」
「え?」
小さな値札が目に入った。
「……えっ、嘘!」
「すまん、予算オーバーだ。ひと桁違う」
珊瑚は絶句する。
こんなに高いなんて。
「えっと、じゃあ、アクセサリー……」
互いに互いを探るように見遣り、目が合った二人は照れくさそうに笑った。
弥勒に先導されてアクセサリーの棚に移るとき、珊瑚はなおも胸をときめかせながら彼の背中を見つめた。
頬を寄せられ、息が止まりそうだった一瞬。
一緒にオルゴールを聴いたあの短い時間が、彼からの何よりのプレゼントに感じられた。
「この中で、珊瑚はどれが好みですか?」
弥勒の声で我に返った珊瑚は、棚に並べられた煌らかなアクセサリーの群れを眺めた。
どれも繊細で美しい。
「全部綺麗……そうだな、これが好き。これだったら、カジュアルな格好でも身に付けられそうだし」
銀の台座に琥珀色の石が嵌め込まれたシンプルなブレスレットを珊瑚が選ぶと、
「私も珊瑚はそれを選ぶだろうと思っていました」
と、弥勒は嬉しげに応じた。
「確か、おそろいのピアスもあったはずですよ。ほら、そこに」
「ほんとだ」
ピアスを手に取った珊瑚が、ブレスレットの横に並べた。
「これは石? ガラス?」
「ボヘミアンガラスです」
珊瑚の耳元までピアスを持ち上げ、顔映りを見ながら、弥勒は満足そうに微笑んだ。
深みのある色合いのガラスにきらりと光が撥ねた。
「似合いますよ。両方買いましょうか」
「え、でも、いいの?」
弥勒は珊瑚の耳に悪戯っぽくささやく。
「ブレスレットとピアスを併せても、さっきのオルゴールの半分以下の値段ですから」
珊瑚はくすりと笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
嬉しそうに微笑む彼女を、弥勒は愛しげに見つめていた。
ボヘミアンガラスのブレスレットとピアスを持って、二人は店の入り口のほうへと歩みを進めた。
途中、オルゴールの前で立ち止まる。
名残惜しそうにそちらを眺める珊瑚の隣で、また弥勒が身をかがめて彼女の頬に頬を寄せた。
ドキッとなって、珊瑚は身を固くする。
(先輩、無意識……?)
「珊瑚はよっぽどこれが気に入ったんだな」
「う、うん。でも、買ってほしいって意味じゃないよ」
「また、見に来ましょうか」
「うん」
仲睦まじげに寄り添って、弥勒と珊瑚は表のレジへと向かった。
二人が去ったあとの空間は、ひっそりと静まり返っている。
Fin.
2012.11.9.
サイト収録 2014.6.1.
「頬をくっつける」というお題で。