接吻
“平和”という名の国があった。
“平和”国は、武力をもって周辺諸国を支配下に置き、方々の属国から献上される貢ぎ物で潤い、栄華を極めた。
国王・奈落のもと、“平和”の国の人々は、もう五十年もの間、贅沢な暮らしを享受することに慣れていた。
長く、辺境の国々との戦争が続いていたが、抵抗していた最後の氏族を全滅させた“平和”の国の国王軍は、この日、都への凱旋を果たした。
都の民は凱旋の儀に湧き立ち、通りに花びらを撒き、勝利の美酒に酔いしれる。
凱旋行列はこの上なく勇ましく華やかであった。
戦利品を載せた荷車が長い列をなし、その後ろを、辺境国の将軍や、奴隷として連れてこられた者たちが縄で縛られ、歩いてくる。
行列を眺める群衆の中に、一人の旅の青年がいた。
白い長衣の上に神官であることを示す外衣をまとい、巡礼者の杖を持った青年は、名を弥勒といった。
古い知己と会うためにこの地を訪れ、この凱旋行列に遭遇したのだ。
ふと、弥勒は、捕虜たちの列の中に、馬に乗せられた一人の娘の姿を認めた。
簡素なキトンをまとっているが、馬に乗せられているところを見ると、身分ある娘なのだろう。
うら若く美しく、だが、頬やむき出しの腕には無数の傷があり、他の捕虜たちと同じように、手首と腰を縄で縛られていた。
じっと前を見据える美しい顔は蒼ざめ、それでも誇りを失わず、娘は毅然と頭をもたげていた。
「ほら、あれだよ」
人々のささやきが聞こえた。
「最後まで陛下に逆らっていたという氏族の生き残りだ。その氏族の長の娘だよ」
「噂以上の美姫だな」
「陛下への貢ぎ物というわけか。殺されるか、運が良ければ後宮入りか」
そんな人々の噂話を、弥勒は聞くともなしに聞いていた。
行列がゆるやかに目の前を通り過ぎていく。
群衆に紛れて弥勒が娘を見つめていると、一点を見ていた娘の視線が、ふっと流れ、弥勒のほうへと向けられた。
目が合った。
「……」
それだけのことであった。
すぐに、馬の歩みとともに、一歩一歩遠ざかる。
それだけのことが、強く、弥勒の心に刻み込まれた。
王宮では、何日もかけて、大々的な戦勝の宴が開かれる。
二抱えもある大理石の列柱にぐるりと囲まれた大広間に、国王の側近や重臣たち、手柄を立てた将たちが盃を交わす中、一段高い中央の玉座に、国王・奈落が数人の美女をはべらせ、座っていた。
治世は五十年に及ぶはずだが、白い狒々の毛皮をまとったその姿はとても老人とは思えない。妖の術で若さを保っているのかもしれなかった。
楽師たちが典雅な楽を奏す中、次々と豪華な料理が運ばれる。
辺境国から持ち帰った高価な葡萄酒が惜しげもなく振る舞われ、一同はその美酒に酔い、宴に花を添える舞姫たちの美しい舞姿に酔った。
そんな贅沢を極めた宴の席で、外から入ってきた王の従者が、慌てた様子で王に耳打ちをした。
「なに?」
奈落の表情が険しく動く。
「その者、捕らえたのか」
「は。地下の井戸の中に閉じ込めております」
「ふん。面白い座興ではないか。今すぐ、ここへ連れてこい」
「はっ」
恭しく、従者は下がった。
宴の席に、突然、兵に引き立てられ、現れたのは一人の神官だった。
黒髪を首の後ろで結わえた、端整な顔立ちの長身の青年は弥勒だ。
巡礼の杖は持っていない。
彼の両手は胴ごと縄で縛られ、その縄の先は兵士が握っている。
居合わせた人々は何事かと王と神官に注目した。
玉座にいる奈落は、嘲るような冷たい眼を、若い神官へと向けた。
「おまえは広場で民衆を扇動し、不吉な予言を広めようとしていたそうだな」
王の正面に引き出され、大広間の中を見廻した弥勒は、国王の傍らに、あの辺境国の娘が座っているのを見つけた。
「名を申せ」
「弥勒。巡礼の神官です」
国王・奈落へではなく、娘を意識し、弥勒は答えた。
「異教の神官。その予言とやらを、もう一度、我が前で言ってみよ」
玉座の足許に座る娘は、表情を硬くしたまま、うつむき加減にじっと床を見つめたままだ。
凱旋行列のときの衣ではなく、美しい羅衣をまとい、髪を優雅に編み、いくつもの宝石で身を飾っている。
彼女の心に届くよう、弥勒はゆっくり、言葉を刻むようにして言った。
「いずれこの王国は滅亡する。その刻は近いと言ったのです」
微かに娘の睫毛が瞬いた。
奈落は鼻で嘲笑う。
「それで予言のつもりか? 異教の神官よ。異国の民であろうと、この国への反逆者は、みな処刑されることを知らぬのか?」
「信じる神が異なれど、世のことわりはひとつです。私は予言ではなく、事実を人々に伝えたのみ」
「事実とは何だ」
「愚かな王を擁する国は、遅かれ早かれ滅びると」
場がざわついた。
囚われの娘の視線が、弥勒へと向けられる。
「この奈落のことを言っているのではなかろうな。我が国はもう五十年も栄えているぞ」
「たかが五十年です。愚か者は己が賢いと思うが、真の賢者は己の愚かさを知るものです。虐げる国がひとつ増えるたび、王を恨む民の数は増え続けるでしょう」
奈落は凄まじい眼光で弥勒を睨んだ。盃を持つ手が怒りに震えている。
「身の程を知らぬ愚か者はおまえのほうだ。それだけ言えば、この世に未練もあるまい」
「ひとつだけ、あります」
弥勒は、王の足許に座る美しい娘をまっすぐに見据え、声高に言った。
「そこにおわす異国の姫の接吻を賜りたい」
どよめきとともに、献上された敵国の娘に一同の視線が集まった。
奈落は高らかに哄笑する。
「この姫・珊瑚も、日をおかずして反逆の罪で処刑されるだろう。接吻はあの世でするがいい」
葡萄酒を満たした盃をかかげ、奈落は臣下たちを見廻した。
「屈強な剣闘士と戦わせるか、獅子に喰わせるか。この異教の神官を殺すに相応しいやり方を思いつく者はないか。わしの心に叶えば、望みのままに褒美をやろう」
奈落の言葉を聞き、居並ぶ人々は口々に、この残虐な王の気に入る処刑方法を提案し合う。
そんな喧騒の中にも、ひっそりと影のように座す娘は、弥勒の不敵な瞳がじっと自分を見ていることに気づき、それに呼応するように立ち上がった。
そして、奈落の正面へひざまずいた。
「陛下」
大ぶりな耳飾りが揺れ、首飾りや腕輪、きらびやかな装飾品に象嵌された数多の宝石が光を撥ねた。
美しい羅をまとい、まばゆいばかりに身を飾られた異国の姫のしなやかな所作を、居合わせた者たちは固唾を呑んで見守った。
「あたしが討ちます。褒美として、その男の首を、あたしに賜りますよう」
艶のある低めの声が、はっきりと告げた。
弥勒が所望した姫自身の申し出に、奈落は満足げに残酷な含み笑いを浮かべた。
「いいだろう。どのように殺す?」
「今この場で、あたしの手で。剣をお与えください」
「そうか。姫は剣の名手だったな。見事な剣舞の舞手と聞く。噂通りの舞を披露すれば、あやつの首を褒美に与え、姫の生命も助けてやろう」
奈落の指示で珊瑚の前に何種類かの剣が運ばれた。
その中から、彫刻が施された柄に紅玉を嵌め込んだ一振りを選ぶと、彼女はすらりと鞘から剣を抜き放った。
「楽を」
水を打ったように座が静まると、奈落が楽師たちに命じた。
トーフが舞のリズムを刻み、キンノルとネベル、二種の竪琴がかき鳴らされる。
珊瑚は刀身が湾曲した剣を重たげに構え、大広間の中央に進み出た。
縦笛・ウガーブの音色が竪琴の音色に重なる。
楽師たちの奏でる楽の音に合わせ、珊瑚は厳かに剣舞を舞い始めた。
人々は息を詰めて、縛られたまま大理石の床に座る神官と、その神官の周りを巡りながら舞う娘の姿に見入った。
珊瑚は打楽器のトーフに合わせて足を踏み出し、剣を構え、流れるように身を回転させる。そのたびに、身を飾る宝石がきらきらと輝き、両方の手首にはめられたいくつもの細い腕輪が快い音を立てた。
時折、威嚇するようにぴたりと剣の切っ先を弥勒へ向け、彼女は彼との距離を次第に縮めていった。
その場にいる誰もが異国の舞に魅せられた。
彼女が振り上げた剣をゆるやかに下ろし、神官の前に片膝をつき、その刃を彼の喉元に当てれば、大広間全体に緊張が走る。
が、たちまち身を翻し、羅をなびかせ、宝石をきらめかせ、優美な舞がくり返される。
そのうち、少しずつ、彼女が神官の前に膝をつく時間が長くなっていった。
流血の瞬間を待つ者たちを焦らしているのだろうと、誰もがそう考えた。
何度目かの対峙で、水平にした刀身を喉元に押しつけられ、弥勒ははっとなる。
(これは片刃の剣──)
そして、彼女が彼の喉に当てているのは、刃ではなく峰のほうだ。
(では、この姫は)
「……神官さま、よく聞いて」
剣を彼の首に押し当てながら、低い声で珊瑚が彼にささやいた。
「次に楽の調が変わるとき、神官さまの縄を切る。そしたら、すぐに逃げて」
「なぜ、私を助ける?」
表情は険しかったが、娘のその黒珠のような瞳は深い哀しみを映していた。
「神官さまはこの国が滅ぶと言ってくれたから。それに、あたしに剣を必要とする口実をくれた」
弥勒は珊瑚をじっと見つめた。
「珊瑚といったな。死ぬ気か?」
「あたしは辱めを受けるのも、奈落に処刑されるのも嫌だ。ありがとう。神官さまは、無事に逃げ延びて」
リズムに合わせ、一旦剣を引き、珊瑚は身を翻した。
そしてまた、獲物を追いつめていくように、剣を構えて弥勒に近づき、その喉元に峰のほうを当てた。
「神官さま、もうすぐ転調する」
「待て。もう少し時間を稼いでほしい。私の相棒が動く手筈になっている」
「どういうこと?」
珊瑚は驚いて弥勒を見た。
「私は凱旋行列でおまえを見た。おまえを口説きたいと思った。だから、そのために、わざと騒ぎを起こしてここへ来た」
「何を言ってる?」
「一度捨てようと思った生命なら、死んだと思って、私と一緒に生きてはくれんか?」
あまり長くじっとしていては不自然だ。
時間を稼ぐため、弥勒は珊瑚を促した。
「接吻を」
「……」
眼を見張り、珊瑚は躊躇う。
湾曲した刀身の峰の部分を彼の首に押し当てたまま、彼女は力が抜けたように、その場に膝をついて、そろそろと彼の顔に自らの顔を近づけていった。
弥勒は縛られている。
自分から動くことはできなかったが、剣が首に食い込むのも構わずに、彼は目の前に膝をついた珊瑚のほうへと身を乗り出した。
「おお……!」
珊瑚自身が、唇を奪われたことに気づくより前に、大きなどよめきが起こる。
彼女は降伏の証として、敵国より献上された姫なのだ。
美しく飾りたてているのも戦勝の品であるからで、彼女を賜りたいと願っている将は多い。
そんな生きた宝石のような娘の唇を、どこの馬の骨とも知れぬ異教の神官がやすやすと奪ってしまったことへの、それは嫉みと憤りの声だった。
そのとき、突然、地の底から湧き起こるような震動が大広間を震わせ、たちまちのうちに、一同の関心は神官と姫からそれてしまった。
「なんだ、この揺れは!」
「地震か?」
宴に興じていた人々は、盃を置き、我先にと大広間から回廊へと雪崩を打って逃げ出した。あちこちで女たちの悲鳴が上がる。
「珊瑚、縄を!」
弥勒の声に我に返った珊瑚は、彼を戒める縄を一瞬で切った。
「私の相棒の仕業です。王宮の要となる柱を破壊するようにと頼みました」
「でも、どうやって」
「古い知り合いでね。人間ではなく、魔物なんですよ」
唖然となる珊瑚の手を、立ち上がった弥勒が強く握った。
「王宮が完全に崩れる前に、混乱に乗じて逃げます。私から離れないように。剣は捨てないでください。役に立つでしょうし、おまえの装身具も含め、売れば相当の額になる。貧しい人々に分け与える分を差し引いても、二人で五年は食べていけますよ」
「う、うん」
「だが、その前に」
まだ状況が把握しきれない珊瑚の顎に片手をかけて、弥勒は、素早く彼女に熱を込めた接吻を与えた。
王宮は完全に崩壊し、偽りの平和は終焉を告げた。
その出来事は、虐げられてきた属国の民ばかりでなく、奈落のやり方に不満を抱いていた人々が反旗を翻す切っ掛けとなった。
あのとき、王宮から姿を消した神官と姫の行方は、誰も知らない。
それから約一年後に、“平和”の国は滅亡した。
Fin.
2014.3.6.
桔梗の科白にマクベスの魔女の「きれいは汚い〜」があったので、同じオクシモロンで。