My Sweet Valentine 2.5

鍵編

 賑やかな大通りでバスを降りた珊瑚は、スマホを取り出し、バス停に着いたことを弥勒にメールで伝えた。
 返事はすぐに来た。

“そこで待っていてください。近くにいるのですぐ行きます。”

 文面を見て、珊瑚の顔が小さく綻ぶ。
 彼女はそのままバス停のベンチに座った。
 欅並木に縁取られたこの通りはオフィス街が近く、お洒落なビルが立ち並ぶ。
 この春から社会人になる弥勒のマンションは、このすぐ近くにあった。
 中学の頃から大学に至る現在まで、ずっと片想いしていた二年先輩の弥勒に、珊瑚は先月のバレンタインデーに告白され、先週のホワイトデーには指輪を贈られた。
 左手の薬指にはめたルビーの指輪に目を落とした珊瑚は、あの日、初めて弥勒が彼女の部屋に泊まったことを思い、頬を染めた。
 電話やメールでのやり取りは毎日しているが、それから直接顔を会わせるのは初めてだ。
 この三月に大学を卒業する弥勒は、就職も決まっており、あとは卒業式を残すのみだった。
 昨夜、話があるからマンションの部屋に来てほしいと珊瑚は弥勒から電話をもらい、今日の夕食を一緒に食べる約束をした。
 おそらく、今夜は彼の部屋に泊まることになるのだろう。
(弥勒先輩の部屋、初めて)
 あの日のように、また手料理を振る舞いたいが、彼の部屋のキッチンを使っては迷惑だろうか。
 ドキドキする胸を抑え、何気なく周囲を見廻したとき、ふと、斜め向こうの横断歩道の向かい側に、弥勒に似た背格好の人物を見つけた。
 先輩に似てるな、と思うでもなく思い、視線を元に戻した珊瑚だが、次の瞬間、すごい勢いで振り向いて、その人物を二度見した。
 遠目にも目立つ背の高い彼は確かに弥勒で、彼の隣にはモデルのような美女がいた。
(……)
 にこやかに笑い合って歩いている姿はどう見ても美男美女カップルで、珊瑚の目にまで、お似合いに見えて唖然となる。
(ちょっと待って。なにあれ、先輩?)
 ひどく混乱して、思考がうまくまとまらない。
(えっ……てことは、まさか、まさか話って……)
 手に持ったスマートフォンをぎゅっと握る。
(わっ、別れ話っ──?)
 弥勒から告白されて、一ヶ月と少し。
 結婚したいとまで言っておいて、落としたらすぐ捨てられるなんて、そんな話があるだろうか。
(……弥勒先輩なら、あり得る)
 珊瑚はふるふると怒りに震えた。
(あたしだけは先輩の特別だなんて自惚れて、馬鹿みたい)
 ホワイトデーにもらったこの指輪は何だったのだろう。
 じわりと視界が滲んだ。
 次に来たバスに乗って、逃げてしまおうか。
 スマートフォンから弥勒のデータを消して、この指輪を投げ捨ててしまおうか。
 何年も片想いし続けて、こんな思いをしたくなかったから、ずっと告白することを避けてきたのに──
(弥勒先輩に捨てられるくらいなら、あたしが先輩を捨ててやるっ!)
 けれど、動くことができなくて、バス停のベンチに座り込んだまま、涙がこぼれそうになった。
 動かなきゃ。
 二人が横断歩道を渡り切って、このバス停に来るまでに。
──待ちましたか、珊瑚?」
 不意に場違いな明るい声がして、珊瑚はびくりと身体を震わせた。
「弥勒くん、この人が彼女?」
「そうです。綺麗でしょ? 何年も口説き続けて、やっと先月、OKもらったんです」
「……」
 何が何だか解らなくて、珊瑚は呆然と顔を上げた。
 そんな珊瑚を見下ろす弥勒が微苦笑を浮かべた。
「何を涙ぐんでいるんですか。私が遅いと拗ねていたんですか?」
 弥勒の隣にいる美女を見ると、彼女は珊瑚ににっこりと笑いかけた。
「初めまして。私、弥勒くんと同じ学部だった──
 慌てて立ち上がった珊瑚は眩暈を覚えてふらつき、その先を聞き取ることができなかった。
「学部が違うから、珊瑚は初めてですよね」
「……珊瑚です。あの、弥勒先輩の彼女ですか?」
 美女は眼をまるくして弥勒と顔を見合わせた。
「あはは。なに言ってるの。私と弥勒くんはただの友達。あなたが彼女なんでしょう?」
 そして、思わせぶりに弥勒を見遣る。
「彼女いるって本当だったんだ」
「信じてなかったんですか?」
「女の子の誘いを断る口実かと思ってた」
 固まる珊瑚をよそに、二人は楽しそうに話を続けた。
「さっき、偶然そこで会ったんです。私の彼女を見たいと言うので」
「知ってるでしょうけど、弥勒くん、モテるの。私も、弥勒くんを紹介してって友達に頼まれることが多くて」
「……」
「でも、こんなに可愛い彼女ができたんじゃ、もう浮気できないわね」
「だから、最初から珊瑚が本命なんですってば」
 話についていけなくて、珊瑚はくらくらしてきた。
 気がつくと、弥勒の同級生だという美女が手を振って去っていくところだった。
 一気に力が抜けた珊瑚は、崩れるようにベンチに座り込む。
「どうしたんです? 今日の珊瑚は変ですよ」
「……よかった。あの人が先輩の新しい彼女じゃなくて」
「は?」
「てっきり、別れ話を切り出されるんだろうって思った」
「はあ?」
 弥勒は思い切り呆れた顔をした。
 そうして、やれやれと珊瑚の隣に腰を下ろした。
「どこまでも信用ないんですな」
「だって、今までの先輩の恋愛遍歴見てきたらさ」
 大きなため息をついて、弥勒は珊瑚の頭を軽くたたく。
 バス停に人はいないが、通りを歩く人の波は絶えない。
 珊瑚は赫くなって立ち上がった。
「場所、変えよ?」
「あ、ちょっと待って」
 弥勒はポケットから桃色珊瑚のキーホルダーが付いた鍵を取り出し、彼女に差し出した。
「これで、おまえを安心させることができるか?」
「鍵?」
「私の部屋の合い鍵です」
 珊瑚は驚いて弥勒を見た。
「もしかして、これを渡すためにあたしを呼んだの?」
 微笑して弥勒も立ち上がり、鍵を彼女の手に握らせた。
「いえ、それはそれ。私が社会人になっても、珊瑚とすれ違ったりしないように、渡しておきたかったんです。言っておきますが、恋人に合い鍵を渡すのは珊瑚が初めてですよ」
「じゃあ、話って」
 弥勒は悪戯っぽく笑った。
「近場ですけど、宿が取れたんです。四月からは何かと忙しくなりそうなので、次の週末、一泊旅行しませんか?」
 そして、鍵を握らせた珊瑚の手を握りしめる。
「そのことについて、夕食を食べながら相談したいなって」
 刹那、珊瑚は頬に熱さを覚えた。
「や、やだ。あたしったら、先輩にひどいこと思ったのに」
 珊瑚は慌てたように彼の手から自分の手を引き抜き、恐る恐る弥勒を見上げた。
「合い鍵、もらっちゃって、本当にいいの?」
「珊瑚に持っていてほしい」
 甘い彼の視線を避けるように眼を伏せ、頬を染めた珊瑚は、大事そうに鍵をスマートフォンと一緒にバッグの中にしまった。
 そんな彼女の右手をすかさず弥勒の左手が掴む。
「珊瑚は何が食べたい?」
「先輩は?」
「おまえの手料理なら何でも」
「……」
「なんて」
 そよ風のように、弥勒は笑う。
 その笑顔に、珊瑚は安心させられる。
 指を絡ませ、つないだ手を引き、弥勒が歩き出すと、珊瑚も一緒に歩を進めた。
「これから先輩の部屋へ行くの?」
「ああ」
「部屋の鍵、あたしが開けてもいい?」
「喜んで」
 欅並木をゆっくり歩きながら、珊瑚はちらりと左手の指輪を見る。
「……捨てなくてよかった」
 元より、捨てられるはずがない。
「何をです?」
「ううん。こっちの話。疑ってごめんね、弥勒先輩」
「珊瑚」
「ん?」
「おまえはまだ解っていないようだが、ようやく恋人になれたおまえを、絶対に手放したりはしない」
「……うん」
 つないでいる手をぎゅっと握られる。
 どうやら、最初から珊瑚の不安は杞憂だったようだ。

Fin.

2017.9.20.