瀑布

「こんにちは、和尚様!」
 久しぶりに寺を訪れた三人の幼子の姿に、夢心は目を細めた。
 彼らは弟子の弥勒の愛児たちだ。
「よう来たな。ゆっくりしていきなさい」
 礼儀正しく挨拶を述べてしまうと、子供たちはにこっとくつろいだ表情になる。
 弥勒の里帰りを兼ねてこの寺に一泊で遊びに来ることはもう恒例となっており、血のつながった祖父母を持たない子供たちにとって、夢心和尚は「おじいさま」そのものだった。
 あてがわれた部屋に荷物を置きに行っていた弥勒と珊瑚が夢心と子供たちのいる本堂へと戻ってきた。
 幼子の前だというのに相変わらず傍らに置かれた大きな徳利に弥勒は胡乱な眼つきになるが、夢心も子供たちも大して気に留めていない。
 夫婦が本堂へ入ってきたとき、翡翠は夢心の膝に乗り、双子の弥弥と珠珠は行儀よく並んで夢心の前に座り、機嫌よくおしゃべりに興じていた。
「でね、和尚様。大きくなったら珠珠は犬になるの」
「犬?」
 双子の一人が両手を頭に持っていき、熱心に夢心に説明している。
「こんな耳つけるの」
「ほう、犬の耳をかね?」
 不思議そうにうなずく夢心だったが、珠珠は嬉しそうににっこりした。そんな珠珠の背後に座った弥勒が娘の頭を慈しむように撫で、ため息とともに言う。
「珠珠は大人になったら、髪を白くして、頭に犬の耳を生やして、紅い衣を着るんですよね……」
「どこかで見たような姿じゃな」
「変なもんに憧れて困ってます」
 双子のもう一人、弥弥の後ろに座った珊瑚がくすくす笑った。
「弥弥は何になるんだね?」
 夢心の問いに、弥弥は少し考えるふうな表情をした。
「弥弥は巫女になる」
「ほう?」
「あたしたちが住んでいる村をまとめていらっしゃるのが、凛々しい巫女様なんです」
 やさしい手つきで弥弥の髪を撫でる珊瑚が、娘の言葉を補足する。
「しかし、弥弥も珠珠も、父上のお嫁さんになるとは言わんのか?」
 何気ない夢心の言葉に双子は顔を見合わせた。
「なってもいいけど、母上が駄目って言うもん」
「やっ、弥弥!」
 珊瑚は弥弥の身体を抱きすくめ、その口を封じようとするが、続きを珠珠が言った。
「父上は母上のだから、取っちゃ駄目って」
 ねーっと双子は声をそろえた。珊瑚は慌てる。
「弥弥! 珠珠! 父上には内緒って言ったじゃない」
 真っ赤になって狼狽える珊瑚はまるで少女のようだ。
「そんな話は初めて聞きましたが」
 弥勒が興味津々のていで身を乗り出した。
「珠珠、父上大好きでしょう? 母上がなんて言ってたか、もっと詳しく教えてくれませんか?」
「弥勒さまっ!」
 押しとどめようとする珊瑚の手を避けて珠珠を抱き寄せる弥勒を、夢心が苦笑まじりにたしなめた。
「これ、弥勒。そう珊瑚を困らせるものではない。全く、おまえはいくつになっても変わらんのう。さっさと滝にでも打たれて来い」
「滝?」
 その言葉に子供たちが反応した。
「滝ってお水が落ちてくるやつ? ここ、滝があるの?」
「そういえば、おまえたちはまだこの寺の滝を見たことがなかったな」
「滝、行きたい!」
 珊瑚は少し不安そうに眉をひそめた。
「危なくないかな」
「私が子供の頃から知っている場所ですし、我々が充分気をつければ大丈夫でしょう」

 白衣びゃくえ姿になった弥勒と、翡翠を抱いた珊瑚は、双子の弥弥と珠珠を連れて、寺の裏にある滝のところまでやってきた。
「わあ」
 滝を目にして、子供たちは瞳を輝かせる。
 高い位置から一筋の軌跡を作り、一直線に滝壺へ落ちる、その水の流れの迫力に圧倒される。
「誰がお水、流しているの?」
「ああ、それは……」
 答えようとした弥勒より早く、弥弥が口を開いた。
「父上の父上?」
 ふと、言葉をとめて、弥勒は滝を仰ぐ。
「父上の父上。……そう、かもな」
 懐かしそうに上を見上げる。彼の父もまた、ここで滝行をしたはずだ。
「父上はあの滝の水をかぶるの?」
「かぶるという言い方はちょっと違うような気がしますが、そうですよ。父上はずっと、あの滝に打たれて修行してきたんです」
「すごーい!」
 滝がすごいのか、父上がすごいのか、よく解らない感嘆詞だったが、子供たちが興奮している様子に弥勒と珊瑚は顔を見合わせて微笑んだ。
「滝行っていうんだよ」
 子供たちの高さに身をかがめて珊瑚が言った。
「弥弥、滝行する!」
「珠珠も!」
「するー」
 小さな翡翠まで手を上げたので、珊瑚は面白そうに弥勒を見上げた。
「この勢いじゃ、次は三人とも法師になりたいって言い出すんじゃない?」
 弥勒は困ったように笑みを返した。
「おまえたちにはまだ無理です。もう少し大きくなったら、体験させてあげますよ。精神修行にもいいですしね」
「今日はしちゃ駄目?」
「弥弥も珠珠も翡翠も小さいから、滝の水に押しつぶされてしまいますよ。今日は足だけ水に入りなさい。でも、急に深くなっている場所もありますから、岸から離れてはいけませんよ」
「はい」
 弥弥と珠珠は草鞋を脱いで、翡翠は珊瑚に脱がせてもらって、子供たちは裸足になった。
 村にいるより、山の中のこの寺のほうがはるかに涼しいが、それでも夏の暑さはじわじわと身に迫ってくる。水遊びは願ってもない。
 だが、山の水は子供たちが思った以上に冷たかった。
「つべたいー!」
 はしゃぐ子供たちを、弥勒と珊瑚は滝壺に足を入れ、岸に腰掛けて見守った。
「あたしも、一度、滝に打たれようかな」
「おまえが?」
 うん、と珊瑚は真面目な顔でうなずく。
「あたしは法師の妻だし、妖怪を退治するのが生業だし、時々身を清めることも必要かもしれない」
「おまえは駄目です」
「どうして?」
「そばにいるのが私だけなら構いません。だが、夢心さまも子供たちもいるんですよ」
「だから?」
白衣びゃくえを着て、ずぶぬれになったら、当然、肌が透けます」
 並んで座る珊瑚のほうに身を乗り出し、弥勒は彼女の胸元にぴたりと人差し指を当てた。
「そんなおいしい、いえ、危うい珊瑚の姿を人目にさらすわけにはいきません」
「!」
 珊瑚は弥勒から身を引き、両手で胸元を隠した。
「下に、さらし巻くから!」
「胸だけ巻いたって、腰から下、緋のものが透けて見えちゃいますよ?」
 さらに珊瑚に身を寄せた弥勒の指先が彼女の太腿を、つ、となぞった。
「み、弥勒さまのスケベ!」
「だって事実です」
 艶めいた眼差しをよこす夫を珊瑚は真っ赤になって睨み返した。
 そのとき、不意に派手な水飛沫が上がった。
「翡翠!」
 双子の娘が弟を呼ぶ声が聞こえる。
 弥勒と珊瑚が驚いて子供たちのほうを振り向くと、足を滑らせた翡翠が水の中で転倒し、頭から水をかぶって呆然としていた。
「ふ……」
 今にも泣き出しそうな翡翠を、両親より先に姉たちが助け起こした。
 滝壺に入った弥勒が翡翠の小さな身体を確認したが、特に怪我はないようだ。そのまま彼を抱き上げ、岸の珊瑚のもとまで運んだ。
「母上、ふっく……」
「びっくりしたね。でも、痛くないよ。翡翠は男の子でしょ? 泣かない」
 珊瑚に抱かれ、小さな手で母親にしがみつく翡翠を双子の姉たちも口々になぐさめる。翡翠も健気に嗚咽をこらえていた。
 そうこうしていると、夢心が皆を呼びに来た。
 たくさんの鮎を土産にハチがやってきたから、珊瑚に庫裏を手伝ってほしいと。
「ハチ、来たの?」
 瞳に涙をいっぱい溜めながら、翡翠が顔を上げる。
「ハチは母上の料理を手伝ってくれるんだよ。その間、弥弥と珠珠と翡翠は三人で、夢心さまのお相手をしてくれる?」
「はあい!」
 役目を与えられ、三人は嬉しそうに返事をした。
「父上は? 滝行するの?」
「ああ」
「頑張って、父上」
「頑張れー」
 双子は父親に元気よく手を振り、ゆったりと寺へ戻る夢心についていく。そのあとに翡翠を抱いた珊瑚も続こうとしたが、不意に弥勒に呼びとめられた。
「なに?」
「頑張れって言ってくれないんですか?」
「頑張れ」
「そうではなくて」
 弥勒の人差し指が彼自身の唇を指し示してみせた。
 珊瑚ははっとなる。
「弥勒さまってば、そんな心構えで修行になるの?」
「おまえのために耐えてみせます」
「なんか違うと思うけど……頑張ってね、弥勒さま」
 弥勒は珊瑚が抱いている翡翠の視界をさりげなくふさぎ、軽く妻と唇を合わせた。
「父上、頑張って」
 視界をふさがれた翡翠が珊瑚を真似て言ったので、二人は照れたように顔を見合わせた。
「料理を楽しみにしていますよ」
「うん」
「母上、早くー!」
 珊瑚が踵を返し、弥勒が滝に向かって一礼したとき、先に行った弥弥と珠珠の声が遠くから母を呼んだ。

 滴る水流は筒姫からの贈り物。
 天から降る水飛沫が彼らを軽やかに見守っていた。

〔了〕

2011.1.2.