紫玉
妖怪退治屋の里から程近いところに、山葡萄が実る場所がある。
琥珀に案内され、この日、法師の一家はそこへ足を延ばしていた。
幼い頃の珊瑚と琥珀と雲母、三人だけの秘密の場所だったというが、山の中なので、決して足場がいいとはいえない。
何かあったらすぐに子供たちを運べるよう、雲母も変化した姿で一家につきそっていた。
初めての葡萄摘みに昂揚しているらしい双子の弥弥と珠珠は、叔父の琥珀にぴったりとくっついて山を分け入った。そのあとに、弥勒と珊瑚、そして翡翠を背に乗せた雲母が続く。
「きーらら」
変化した雲母の姿がすっかり気に入ってしまったらしい翡翠は、絶えず、猫又の背を撫でて名を呼び掛けていた。
雲母のほうも、珊瑚や琥珀が幼い頃から一緒にいたせいか、小さな子の扱いは心得たものだった。
「翡翠、雲母好きですか?」
「うん。大好き」
「雲母に浮気しているって、ハチに言っちゃいますよ?」
「うわき?」
眼を大きく見張って、翡翠は首を傾げた。
「弥勒さま! そんな言葉、今から教えないで」
割って入った珊瑚が眉をひそめて法師をたしなめたが、彼は全く取り合おうとはせず、
「見てください。あちらもです」
と前方を示した。
琥珀と一緒にいる双子がいつもより殊勝に見えるのが面白くないらしい。愛娘たちが琥珀に浮気していると言いたいのだろう。
「みんな、ここだよ」
足をとめた琥珀が一同を振り返って言った。
辺り一面、山葡萄が実を実らせている。
「これは見事だな」
収穫にも気合いが入るほどの数だ。子供たちは瞳を輝かせた。
「ちょうど、熟れ頃だね。弥弥も珠珠も、山道は平気だったかい?」
少し息を弾ませていた双子だったが、やさしく問われ、首を振った。
「大丈夫、叔父上」
「まだ頑張れる」
はにかんだようにそう言う二人を見て、弥勒の表情はさらに複雑になった。
「じゃあ、摘んでみようか。無理はしないで。手の届くところだけ摘むんだよ」
地面に籠を置いて、摘み取った山葡萄はそこに入れることにした。
自然の恵み、山葡萄のひとつひとつの粒が宝石なら、まさにここは宝石箱だ。
琥珀の両側で山葡萄を摘み始めた双子を横目に、少し離れた場所で珊瑚と翡翠と一緒に葡萄摘みをする弥勒は、小声で愚痴を洩らした。
「どうして、他の男と楽しそうな娘たちの姿を、どうすることもできずに見ていなければならないんだ」
「やだ、なに言ってんの」
まるで弥弥と珠珠が年頃の娘でもあるかのようにこぼす弥勒に、珊瑚もさすがに苦笑した。
雲母の上にいる翡翠が持っている籠に採った山葡萄の房を入れ、「困った父上だねー」と翡翠と微笑みを交わす。
「母上、葡萄、美味しい?」
「つまんでみる? あ、雲母から降りても母上たちのそばから動かないでね。あーんして」
熟れていそうなところをつまみとって翡翠の口に入れてやり、珊瑚は幼い息子の顔を見守った。
「どう?」
「ちょっと酸っぱい。でも美味しい、母上」
珊瑚から葡萄の房を受け取った翡翠は、それを雲母に食べさせようとしている。
先ほどから際限なくため息をくり返す法師をちらと見遣った珊瑚は、誰も見ていないことを確認すると、彼の腕に手を掛けて、もう片方の手を伸ばした。
「あーん」
口許に差し出された山葡萄と、珊瑚の甘い声。思わず開けた口の中に果実が入れられ、弥勒は目を白黒させた。
「美味しい?」
「ああ。甘酸っぱい味がする」
珊瑚への恋心を自覚し始めた頃を思い出し、表情を和らげる夫に向かって、珊瑚は悪戯っぽく笑んでみせた。
「弥勒さまは欲張りだよ。弥弥も珠珠も翡翠も、みんな自分のほうを向いていないと気がすまないんだから」
「そこまで我が儘じゃありませんよ。しかし弥弥だけでなく、“世界で一番父上が好き”なはずの珠珠まで琥珀に夢中ってどういうことですか」
「浮気なのは確実に弥勒さまの血を引いているからだよ。……それに、弥勒さまにはあたしがいるのに」
拗ねたような最後のひと言に、弥勒の機嫌はたちどころに直った。
「珊瑚」
甘くささやく。
「あーんしてください」
恥ずかしそうに口を開ける珊瑚の口中にそっと山葡萄を入れる。
「恋の味がしますか?」
「……ん、酸っぱい!」
「あ、外れでしたか」
片手で口を押さえた珊瑚が弥勒を軽く睨むと、次いで、二人はくすくすと笑い合った。
「いた……」
葡萄の蔓に指をひっかけ、擦り傷を作ってしまった珠珠が顔をしかめた。
「傷を見せて」
琥珀は持っていた竹筒の水を傷口にかけて、懐から取り出した手拭いを歯で裂いた。それを怪我をした珠珠の指に巻いてやる。
「しばらくして、もし、まだ痛いようだったら……」
「ありがとう、叔父上。もう痛くない」
嬉しそうな珠珠の隣で、弥弥が布を巻いた珠珠の指を見て、自分の指をじーっと見つめた。
それに気づいた琥珀は可笑しそうに笑いをこらえた。
「双子なんだし、同じにしないとね」
と、弥弥の指にも同様に裂いた布を巻いてやる。
“手当て”をしてもらって、弥弥はぽっと頬を染めた。
「見ましたか、珊瑚?」
またしても少し離れたところから見ていた弥勒が珊瑚にさも重大そうにささやいた。
「珠珠だけでなく、おとなしい弥弥が頬を染めているんですよ? 私にではなく琥珀にですよ?」
珊瑚は呆れたように吐息した。
「父親に頬染めてどうするのさ」
「だって、ああいうの、おまえの仕草にそっくりで」
弥勒にとって、娘たちは珊瑚の分身で、珊瑚の分身は自分のもの、という論理が成り立つらしい。たとえ相手が琥珀であろうと、何というのか、珊瑚を取られたような気持ちになってしまうのだ。
「ああいう表情とか仕草は、おまえは私にしか見せなかったのに……」
「琥珀とは普段、あまり会えないからね。たまに会う人にときめく気持ちも解るな」
「珊瑚──まさか、そんな経験が? 相手は年上の男か?」
何気なく言った言葉に食いつかれ、山葡萄を籠に入れる珊瑚の長い睫毛がやれやれというように瞬いた。
「いやに突っかかってくるね、弥勒さま。弥弥も珠珠も琥珀に会うのは久しぶりだから嬉しいだけだよ。それに心配しなくても、二人が嫁に行くのは何年も先だよ」
「五歳で嫁に行かれてたまりますか。まあ、琥珀に関しては、ちゃんといい人がいるのではないかと私は睨んでいるんですがね」
「えっ」
山葡萄を摘む手がとまり、珊瑚は大きく眼を見張って法師を振り返った。
「琥珀がそう言ったの?」
「いいえ。でも、真面目な琥珀にしては、今の村に長く滞在しすぎだと思うんですよ。気になる娘がいて、その村を去りたくないのだと考えるのが自然でしょう?」
いずれ、退治屋の里に身を落ち着けることを考えている琥珀だが、今はあちこちを巡りながら妖怪退治屋としての経験を積んでいる。
現在、身を寄せている村には、面倒な妖怪退治を頼まれたわけでもないのに、もう半年近く滞在しているというのだ。
「琥珀にそういう人がいるなら、会いたいな」
「そうと決まったわけではありませんよ。どちらにしても、琥珀から話してくれるまでそっとしておきましょう」
ふと振り返った琥珀の瞳に、二人寄り添い、熱心に話し込む姉夫婦の姿が映った。
その様子はまるで、恋を語らう恋人同士のように見える。
「相変わらず、仲いいね」
少し羨ましそうにつぶやく琥珀を弥弥と珠珠はにっこりと見上げた。
「いつも“二人の世界”作っちゃうんだよ。父上と母上は」
「弥弥たち、いつも置いてきぼりなの」
「あ、いつもなんだ」
子供たちの訴えになんとなくその様が想像できてしまい、琥珀はくすりと笑った。
琥珀は雲母を呼び、摘んだ山葡萄の籠をまとめた。これは里まで雲母に運んでもらうことになる。
「翡翠もたくさん摘んだかい?」
雲母についてきた翡翠に問うと、翡翠は嬉しそうにこっくりとした。
実際には珊瑚が摘んだものを持たせてもらって籠へ移しただけだが、雰囲気は満喫したようだ。
「さて。どうしよう。そろそろ帰ろうかと思うんだけど、どう?」
「父上と母上、声かけにくいよねー」
「“二人の世界”だし、先に帰っちゃおう? 叔父上」
「雲母と帰るー」
雲母に寄り添う翡翠が微笑ましく、琥珀はその小さな身体を抱き上げて、雲母の背に乗せた。
山葡萄を摘む手をとめて楽しそうに談笑している琥珀と子供たちにようやく気づいた弥勒と珊瑚がこちらへやってきた。
「ごめんね、弥弥と珠珠がまとわりついちゃって。あ、翡翠まで」
「子供たちの相手は大変でしょう?」
「いえ、姉上や義兄上の相手をするより、ずっと楽です」
叔父の言葉の意味を理解したらしい弥弥と珠珠がくすくす笑った。
共犯者めいた視線を交わし合う琥珀と双子に、弥勒と珊瑚は、不思議そうに顔を見合わせた。
あふれる実りは竜田姫からの贈り物。
籠いっぱいの山葡萄の実が、甘酸っぱい香りを放っていた。
〔了〕
2011.3.20.