揺れる微熱

 奈落の操る妖怪の群れに囲まれた。
 大きな森の中で、戦況は不明だが、あらかたの雑魚は倒したはずだ。
 古びたお堂を見つけた犬夜叉たち一行は、かごめと七宝をそこに待機させ、残る三人と一匹で、辺りの様子を探りに行った。
 犬夜叉と法師と珊瑚は、それぞれ、別の方角に分かれて見廻ることにする。
 深い森は意外に静かだ。
 静けさは不気味ではあるが、少なくとも禍々しい妖気に類するものは、犬夜叉は感じなかった。
「……」
 当面は大丈夫だろうと判断し、来た道を戻る。
 だが、そのとき、ふと何かに気づいたように、彼は来たときとは別の方角へ道を逸れた。
 森は薄暗い。
 ほどなく、大樹に片手をついて立つ珊瑚の姿が視界に入った。
「珊瑚」
 犬夜叉は彼女に駆け寄り、急くように声をかけた。
 珊瑚の呼吸は荒く、顔色もひどく悪い。
「どうした、珊瑚。雑魚妖怪がまだいたのか?」
 彼女は頼りなく首を振る。
「いや、もう妖怪の気配は感じられない。これはさっきの戦闘で、ちょっと」
「怪我をしていたのか?」
「かすり傷だよ。でも、毒を持った妖怪だったらしくて、傷口から毒が入ったみたいだ」
 珊瑚の額には汗がにじみ、苦しげに小さな呼吸を繰り返している。
「負ぶされ。すぐ、お堂まで運んでやる」
「待って。眩暈がひどいんだ。動くと毒の回りが早くなる。この手の毒は熱さえ治まれば平気だから、少し、休ませて」
 その場に座り込む珊瑚に合わせて、身をかがめた犬夜叉は、心配げに彼女の顔を覗き込んだ。
「休んでいれば、治まりそうか?」
「雲母に法師さまを探しに行かせた。法師さまが、中和作用のある薬を持っている」
「そうか」
 彼女に付き添い、犬夜叉も一緒にそこに腰を下ろした。
「辛そうだな。おれに寄りかかっていいぞ」
「……悪いね」
 少し躊躇いはしたものの、珊瑚は、遠慮がちに犬夜叉の肩に頭を預けた。
 森は静かだ。
 不気味なだけだった静けさが、どこか居心地の悪いものに変わる。
 いつも凛然としている退治屋の娘の苦しげな様子。
 彼にもたれて呼吸を繰り返す唇。
「……っ」
 思わず犬夜叉は、珊瑚から眼を逸らしてうつむいた。
 じっと見ていると、こちらにまで熱が伝染してしまいそうだ。
 ぐったりしている珊瑚をかばうように彼女の肩に手を廻そうとしてやめ、犬夜叉はできるだけ彼女を見ないようにした。
(雲母はまだか)
 己の鼓動が妙に速い。
 唇が渇く。
(そうだ、水を)
 水の入った竹筒を持っているのは珊瑚だったか、それとも弥勒だったか。
 彼女を振り返ると、彼の肩にもたれて朦朧と眼を閉じていた。
 意識を失ったようだ。
 犬夜叉は、汗ばむ珊瑚の額の前髪をそっと払ってやる。
 刹那、
「ほう……」
 小さな声で珊瑚はつぶやいた。
 法師さま、と呼びかけようとしたのだと、すぐに解った。
 無意識に弥勒だと思ったらしい。
(こんなことをするのは弥勒だけだと思っているのかよ)
 犬夜叉は胸の奥が妖しくざわめくのを感じた。
 と、そのときにはもう、犬夜叉の唇が珊瑚の唇を塞いでいた。
 一瞬の静寂。
 ──死者の唇は冷たい。
 が、珊瑚の唇は熱を持って熱かった。
 その熱に気づき、初めて己の行動に気づいて、犬夜叉は珊瑚からはっと顔を離した。
 一瞬の熱、そして、罪悪感と後ろめたさ。
 この気持ちは何だろう?
 法師さま、というつぶやきを聞きたくなかった。それだけだ。
 ふと目線を上げると、森の奥から、法師を乗せて雲母がやってくるのが見えた。
 雲母から降りた弥勒が、大樹のもとに座る犬夜叉と珊瑚のところへ足早に駆け寄る。
 すぐに険しい眼で犬夜叉を見て、弥勒は低い声で圧するように言った。
「何をしていた?」
「何って……」
 半妖の少年が珊瑚の唇を盗む様子が、遠くから見えたようだ。
「犬夜叉。おまえ、珊瑚に何をしていた?」
「何もしてねえよ」
「そんなふうには見えなかったが」
 犬夜叉は不貞腐れたように弥勒から視線を外した。
 こんな小さな横恋慕は誰かに知られるわけにはいかない。
「う──
 珊瑚が呻き、弥勒ははっとして彼女を見た。
「珊瑚は怪我を? まだ、妖怪の残りがいたのか?」
「この森にもう妖怪はいねえ。珊瑚はさっきの戦闘で傷を負ったらしい。妖怪の毒で熱が……」
 犬夜叉が支える珊瑚の様子をじっと見て、弥勒はおもむろに水の入った竹筒と、懐から紙に包んだ丸薬を取り出した。
「それが薬か?」
「ありきたりな毒なら中和できる。退治屋の里の調合だそうだ。珊瑚が、ときどき私に持たせてくれる」
 それは牽制の言葉だったのだろうか。
「犬夜叉、珊瑚をこちらへ」
「あ、ああ」
 意識のない娘の身体を犬夜叉が弥勒へ預けると、固い表情のまま、弥勒は丸薬を口に含み、竹筒の水を口に含んだ。
 そして、それを口移しで抱きかかえた珊瑚に飲ませる。
「……」
 たったそれだけの光景から、犬夜叉は目を逸らすことができなかった。
 ゆっくりと唇を離し、濡れた珊瑚の唇を指先でぬぐい、やはり濡れた己の唇を指でぬぐう弥勒の仕草がひどく艶めいて見えて、息がつまる。
「これで大丈夫だろう。汗で毒を排出できれば問題はない」
「ああ」
「毒が抜けるまで、お堂で休ませましょう」
「珊瑚は、あまり動かないほうがいいと言っていたが」
「そうですな。では、揺らさぬよう、私が気をつけて負ぶっていこう」
 眼を伏せたまま、弥勒は淡々と言った。
「じゃあ、飛来骨と錫杖はおれが持つ」
「すまん、頼む」
 犬夜叉に手伝ってもらい、法師は珊瑚をそっと背負った。
 そして、錫杖と飛来骨を持ち上げる犬夜叉に、さり気なく声をかけた。
「犬夜叉」
「なんだ?」
「珊瑚は、おれの女だ」
 犬夜叉の身体がぎくりと強張った。
 振り返ると、強い意志を孕んだ瞳がまっすぐに犬夜叉を見ていた。
「みろ……」
 言いかけて、口をつぐむ。
 何を言おうとしたのだろう。
 熱に浮かされたように、彼の意識は、どこか上の空だ。
 それでいて肌に感じる現実は、はっきりと罪悪感を刻んでいる。
(おれは……何をした?)
 あのほんの一瞬、珊瑚の言葉を封じたかった。
 それがどういう意味を持つのか解らず、彼はその感覚にひどく狼狽した。
 視線を戻すと、珊瑚を負ぶった弥勒と雲母が犬夜叉が歩き出すのを待っていた。
 全身が重く、眩暈がする。
 犬夜叉は無理やり一歩を踏み出した。
 互いに無言だ。
 何事もなかったように、だが、確実に隔たりを持って、錫杖と飛来骨を持った犬夜叉は弥勒と並んで歩を進めた。
 珊瑚を背負う弥勒の警戒心を強く感じる。
 そして、それはあながち的外れではないのだ。
 唇から、珊瑚の熱がうつってしまったのかもしれない。
 唇に残るその熱を意識し、犬夜叉は自分に言い聞かせた。

 白い静寂と熱に浮かされて、幻を見た。
 幻日のような、その幻が、ただ熱を持っただけだと──

〔了〕

2017.11.5.