木陰の秘密

 木の上に登ると、空が近くなる。
 空が近くなると、悩みが少し軽くなる気がした。
 静かな午後。
 一人で楓の家にいた珊瑚は、ふと思い立って外へ出て、いつも犬夜叉が陣取っている木の下までやってきた。
 小袖姿だったが、難なく登ると、ちょうどいい具合に張り出した枝の上に腰掛けてみた。
(犬夜叉がいつも見ている風景か)
 珊瑚は空を仰ぎ、だが、すぐに眉を曇らせた。
「……法師さまの馬鹿」
 先刻、村の娘と楽しそうに立ち話をしていた彼を思い出し、小さくつぶやいてみる。
 ふと、誰かの気配を感じて視線を下へ向けると、犬夜叉がむすっとそこに立っていた。
 彼のそういう表情は別に珍しいものではないから、怒っているわけではないだろう。
 だが、
「そこはおれの席だ」
 と、犬夜叉が木の下から怒鳴るのを聞いて、珊瑚はふと可笑しくなった。
「たまにはいいじゃないか」
 珊瑚は木に甘えるようにもたれて言う。
「木に登りたければ、他にも木はあるだろーが」
「あんたこそ、たまには違う木にすれば?」
「その場所が好きなんだよ」
 一向に降りてくる気配のない珊瑚に痺れを切らしたように、犬夜叉は樹上に登り、強引に珊瑚の座っている太い枝に座ろうとした。
「おい、もう少し向こうへ寄れ」
「ちょっと、危ないだろ。押さないでよ」
 座る位置を決めるのにひとしきり揉めてから、二人は並んで枝に腰掛け、同じ空を見つめた。
 無言になり、静寂に支配されると、急に居心地が悪くなる。
「どうした? 今日は一人か?」
 ちらと隣の娘を見遣り、取って付けたように言う犬夜叉を、珊瑚のほうもまた、彼の様子を窺うように、声を低くして答えた。
「あんたも一人?」
「ああ。たまには向こうで静かに勉強させてやらねえとな」
「そうか」
 珊瑚は羨ましそうに吐息を洩らす。
 その吐息に惹かれるように犬夜叉は珊瑚の横顔に目を向け、ふと、そのまま彼女を見つめた。
「おまえ、意外と小さいな」
「は?」
 珊瑚の目線が自分より下にあることに、いきなり気づいたのだ。
「いや、でけえ印象があるわけじゃねえけど、そう感じるのは、あれだ。きっと、いつも飛来骨を持っているせいだな」
「あんた、あたしにどんな印象持ってんのさ」
 やや不服そうな珊瑚の、呆れたような、拗ねたような口調と仕草が、どういうわけか心臓に悪い。
「あたしだって、一応、女なのにさ」
 すぐ隣で伏せられた長い睫毛が瞬き、犬夜叉の心臓がどきりと音を立てた。
 闘いに秀でた強い娘、頼もしい仲間である珊瑚が、可憐な一面を持つ普通の娘であることを、急に意識した。
「……でも、喧嘩が強えっていっても、おれよりは弱えしな」
「あたしは手負いであんたと闘ったこともあるんだよ?」
「あれは四魂のかけらの力じゃねえか」
 突っ込まれ、珊瑚は言葉につまる。
「そりゃ、そうかもしれないけど、体調が万全なら、犬夜叉が相手でも、あたしは結構いいところまで闘えると思うな」
「ま、五十年前のおれとなら、珊瑚も互角に闘えたかもな」
「五十年前の犬夜叉? あたしに退治されてもいいの? 手加減しないよ」
「なんで珊瑚に退治されなきゃならねえんだよ」
「犬夜叉が言い出したんだろ?」
 互いに譲らず、強気な視線が絡み合う。
 だが、ふっと珊瑚は遠くへ視線を投げ、眼を伏せた。
「どうした?」
「やっぱり駄目だ」
 珊瑚はぽつりとつぶやいた。
「なんでだよ」
「五十年も前に生まれていたら……法師さまと時間がずれる。法師さまより五十も年上なんて困る」
 強気な視線がやわらかく艶めいたものに変わり、恋する想いが揺らめいて、どうしようもなく犬夜叉の胸をざわつかせた。
「あんたを退治しそこねても、あたしは法師さまと同じ時間を生きたい」
 じっと彼女を見つめる犬夜叉を、ふと顔を上げた珊瑚が照れ臭そうに見つめ返した。
 そのとき、半妖の少年と退治屋の娘が並んで枝に腰掛ける木の下に、辺りを見廻しながらやってくる法師の姿が見えた。
 樹上の二人を見つけ、一瞬、驚いたような顔をした法師は、不機嫌な様子で娘に声をかけた。
「珊瑚、捜しましたよ。犬夜叉とそこで何をしているんです。降りてきなさい」
 いつも穏やかな彼の声が尖っている。
 犬夜叉と珊瑚は思わず瞳を瞬かせた。
「弥勒のやつ、おれが相手でも焼きもちを妬くんだな」
 犬夜叉が小さくつぶやいた言葉に、珊瑚が「えっ」と眼を見開いた。
「本当? 犬夜叉にはそう見える?」
「いつも弥勒が他の女とやっているように、手でも握り合ってみるか? 露骨に怒り出すと思うぜ?」
 ふわりと、珊瑚は綻ぶ花のような表情を見せた。
「法師さま! すぐ降りる」
 通り道を作ろうと、犬夜叉が場を移動しかけると、珊瑚はそれを軽く制した。
「大丈夫。この高さなら、飛び降りられる」
「えっ、おい」
 犬夜叉がとめる間もなかった。
 枝に腰掛けていた珊瑚は、何の躊躇いもない滑らかな動作で、木の上から飛び降りた。

 刹那、はっとした。

 そしてそれは、腕の立つ退治屋としてではなく、ただの娘として、視線が彼女を追ってしまったのだと気がついた。
 犬夜叉は地上の弥勒を見遣る。
 彼の表情から察するに、法師自身も、珊瑚が飛び降りたことに一瞬ひやりとしたようだ。
 珊瑚は危なげなく着地を決めたが、そんな娘に駆け寄り、弥勒はたしなめるような顔で何かささやいている。
(一人で闘えるほど強い女でも、問答無用で守りたくなるんだろうな)
 そのとき、犬夜叉の心の中に何かのイメージがふっと浮かびかけたが、そのイメージは、形になる前に消えてしまった。
「犬夜叉」
 木の下から叫ぶ珊瑚の声に、犬夜叉は視線を下へ向けた。
「また、そこへ登ってもいい?」
「おう。いつでも話を聞いてやるよ」
 すると、警戒の色を濃くした弥勒が犬夜叉を睨み、珊瑚が誰のものであるかを示すように、彼女の肩を抱き寄せた。
 肩を抱かれた珊瑚は驚いた様子だったが、すぐに、はにかんだように瞳を伏せ、頬を染めた。
 ちらと犬夜叉を見上げた法師は何も言わない。けれど、明らかに眼が怒っている。
 珊瑚が犬夜叉と、樹上という隔離された空間に二人きりでいたことを怒っているのだ。
(取られたくねーんなら、ちゃんと捉まえとけよ)
 珊瑚がいなくなった木の上は妙に広い。
 木に背を預け、枝の上に足を伸ばし、そこに犬夜叉は寝そべった。
 地上では大事そうに珊瑚の肩を抱いた弥勒が、見えない敵から彼女をかばうように、珊瑚と一緒に遠ざかっていく。
 何故か、犬夜叉はさっきまですぐそこにいた珊瑚を弥勒に奪われたような気持ちになっていた。
(珊瑚はおれと話していたのに)
 だから、そう感じるのだろう。
 梢を渡る風は穏やかだ。
 けれど、何となく漂う空虚さは、もう少し珊瑚とここで話していたかったからだと気がついて、犬夜叉は不意に後ろめたさを感じ、狼狽えた。

〔了〕

2013.6.23.
サイト収録 2015.10.11.

『犬夜叉×珊瑚同盟』投稿作品。
珊瑚が自分の恋愛対象になり得ると、もしかしたら、もうそうなっているのかもしれないと気づいた、そんな瞬間。