落下地点
もつれ合うように、犬夜叉と珊瑚は崖の上から落下した。
急な斜面を転がり落ちる間、人間である珊瑚をかばい、犬夜叉は彼女の身体を両腕に抱きしめていた。
珊瑚は退治屋装束だ。
二人は崖の上で、仲間たちとともに雑魚妖怪の群れを相手にしていたが、四方八方から数で襲われ、飛来骨で妖怪たちを蹴散らしていた珊瑚が、すぐそばに闘っている犬夜叉の姿があることに気づいたときにはもう遅かった。
とっさに彼を避けようとして、飛来骨を受け取る軌道がずれ、バランスを崩してしまったのだ。
「──珊瑚!」
ずざざざっ──!
砂埃が舞い、地面に打ち付けられた衝撃とともに落下が止まったとき、珊瑚を抱きしめ、身を固くしていた犬夜叉は、ほっとしたように眼を開けた。
が、即座に、別の意味で固まってしまった。
「!」
娘の華奢な身体を抱きしめたまま、折り重なるように倒れている。
その、まるで相手を押し倒すような体勢に、犬夜叉は早く身を起こして彼女から離れなければと焦ったが、金縛りにあったように動けない。
華奢でやわらかい肢体。
武装して、大きな武器を携えていても、彼女は女だ。
しかも、美しい女だった。
いつもはそのようなことは意識しないが、一旦、意識してしまうと気まずい。──かなり気まずい。
彼の下敷きになっている珊瑚は砂塵に小さく咳き込み、長い睫毛を瞬かせている。
はっとして、混乱のままに、犬夜叉はとにかく抱きしめている珊瑚を解放しなければと、身を起こそうとした。が、手をつく位置を間違えた。
何かやわらかいものに掌が触れたような感触を覚え、下を見遣ると、手をついた場所には豊かなふくらみの片方があった。
「……」
ひやりとして、恐る恐る視線を動かすと、仰向けに倒れたままの珊瑚の眼差しが、胡乱に彼に向けられている。
「わああっ! わざとじゃねえっ!」
思わず力が入り、思い切りその部分を鷲掴みにしてしまった。
犬夜叉は大慌てで珊瑚の胸から手をどけて、尻もちをつく勢いで後ろへ身を引いた。
不可抗力で見てしまったことのある、湯浴みをする彼女の裸体がまざまざと脳裏によみがえる。
掌に残る感触と、落下中に抱きしめていたやわらかな感触が、記憶の中の彼女の瑞々しい裸体と重なり、その生々しさに眩暈を覚える。首を大きく横に振って、犬夜叉は邪念を振り払おうとした。
鼓動が速い。頬も熱い。
気まずいどころの騒ぎではない。
「わっ、わ、わざとじゃねえぞ? 不可抗力だ」
構える犬夜叉に対し、身を起こし、立ち上がった珊瑚は、いともあっさり答えた。
「解ってるよ。法師さまならともかく、あんたに下心があるなんて思わないさ」
気にしている様子は微塵もなく、彼女は淡々と衣についた砂埃を払ったりしているものだから、犬夜叉は逆に拍子抜けしてしまった。
それはそれで釈然としない気がする。
「おい、珊瑚」
「なんだい?」
「お、怒ってもいいんだぞ?」
「なんで?」
崖下にまだ座り込んだままの犬夜叉を、珊瑚は不審そうに顧みた。
「なんでって……弥勒に尻を撫でられたら怒るのに、おれに胸を揉まれるのは構わねえのか?」
「はあ?」
珊瑚は呆れたような表情を作った。
「法師さまでもあんたでも、わざとだったら引っぱたくよ。でも、自分で言ったろ? 不可抗力だったって。それとも」
珊瑚はおもむろに半妖の少年の前に立ち、彼の鼻先にびしっと人差し指を突きつけた。
「おすわり!」
凛とした声に犬夜叉の肩がびくっと揺れる。
「とか、言われたいわけ?」
「……」
これが弥勒なら、珊瑚はどうするのだろう。
事故なのだからと、あっさり許すだろうか。
真っ赤になって狼狽えて、「法師さまの馬鹿!」と平手打ちのひとつや二つ、見舞っていることだろう。
(弥勒は常習犯だが、おれだって男だ)
あまりにもあっけらかんとしている珊瑚に、何故だかもやもやしてしまう。
珊瑚はそんな犬夜叉の逡巡には気づかぬようで、彼に近寄ると、土埃をかぶった彼の頭を払い出した。
「落ちるとき、あたしをかばってくれただろう? ありがとう。犬夜叉は平気?」
「いいよ、自分でやる」
どこかこそばゆい感覚に犬夜叉は珊瑚の手を振り払おうとしたが、一瞬早く、耳を掴まれてしまった。
「雲母のとは、触った感じが違うね」
「たりめえだろーが」
まるで弟と同等の扱いだ。
砂埃を払うため、珊瑚は座っている犬夜叉の耳をはたき、長い髪をはたき、衣の肩をはたいた。
何か納得がいかず、犬夜叉は胸の内で独り言つ。
(──これが弥勒相手でも、こんなに触りまくれるのかよ)
「でも、尻尾はないんだよね」
「はあ?」
「七宝や雲母みたいなやつ」
「何でだよ」
「狐も猫も、年を経た妖怪は尾が分かれるけど、犬妖怪もそうなのかなって」
「けっ、知るか」
弟どころか、七宝や雲母と完全に同等扱いだ。
「尻尾があるか、そんなに知りたけりゃ、自分で確かめろよ」
「え?」
彼の髪や衣から砂埃を払う珊瑚の動きが止まった。
「次に温泉を見つけたら、一緒に入ってやってもいいんだぜ?」
にやりと犬夜叉が珊瑚を見遣った刹那、一瞬、動きのとまった彼女の顔が、見る見るうちに真っ赤になった。
ぱーんっ!
迂闊なひと言のせいで、犬夜叉は頬に珊瑚の強烈な平手の一撃をお見舞いされた。
「しっ信じられない! 犬夜叉がそんなこと言うなんて……! ほっ、法師さまの影響だね? 全く、法師さまは周りにろくな影響を与えないんだからっ」
しかし、そのときの犬夜叉は、頬の痛みも忘れ、珊瑚の可憐な狼狽を、一種の驚きをもって眺めていた。
(へえ……弥勒以外の男にも、そんな顔するんだな)
朱に染まった頬、いつもはきつめの光を宿す瞳が、頼りなげに視線を彷徨わせている。
困惑したような表情も、勝ち気で男勝りな普段の彼女のイメージとは一転し、この上なく可憐で愛らしい。
(確かに、可愛い女だよな)
こんな顔を向けられると、弥勒でなくとも、惹きつけられずにはいられないだろう。
思わず見惚れていると、二人の頭上から仲間たちの声が降ってきた。
「犬夜叉ー! 珊瑚ちゃーん!」
崖の上から、変化した七宝に乗ったかごめと、同じく変化した雲母に乗った法師が緩やかに下降し、地面に降り立った。
弥勒は錫杖と一緒に珊瑚の飛来骨も持っている。
変化を解いた七宝が、崖の下にいた二人に駆け寄った。
「大丈夫か、犬夜叉、珊瑚。上は片付いたぞ」
「二人とも、怪我はない?」
口々に心配の言葉をかける仲間たちに、珊瑚は頬を染めたまま、顔をうつむかせている。
「どうしました、珊瑚?」
「な、何でもないよ。行こう」
ぎこちなく身を翻しかけた珊瑚だが、法師にそんな誤魔化しは通用しない。
そして、法師とかごめと七宝は、しっかり目撃してしまった。
犬夜叉の頬にくっきりと残る紅い手形を。
「犬夜叉っ! なんじゃ、それは!」
「えっ?」
訝しげに聞き返す犬夜叉に向かって、弥勒は自分の頬を指差してみせた。
「いつも私がつけてる、アレです」
「犬夜叉、あんた、珊瑚ちゃんに何かしたの?」
「おっ、大人は不潔じゃ」
一斉に詰め寄られ、かごめの険しい視線と、冷え冷えとした弥勒と七宝の視線が犬夜叉を刺す。
「なっ、なんにもしてねえだろーが! おい! 珊瑚、説明しろ」
この状況でセクハラの濡れ衣を着せられるのは、どう考えても納得がいかない。
珊瑚も慌てて少し上擦った声で否定した。
「あのっ、何もされてないよ。落ちるとき、犬夜叉はあたしをかばってくれただけ」
「大方、どさくさに紛れて、珊瑚の胸とか尻とか触ったんじゃないですか?」
ぎくり。
とした犬夜叉と珊瑚が、同時に法師を振り返り、
「あれは不可抗力だったんだっ!」
叫んだ二人の声が見事に重なった。
「……なるほど」
なんとなく状況を把握した三人は、わりとあっさり納得してくれた。
「そういえば、麓の村で聞いたんですが、この先、温泉が湧いているそうですよ」
「へえ、楽しみ」
「じゃあ、おらがみんなの背中を流してやるぞ」
「みう」
ここのところ、戦闘続き、野宿続きで、疲れを癒したい仲間たちは、温泉に入れることを無邪気に喜んだ。
だが、温泉という言葉を聞いて、居心地の悪さを感じた珊瑚がちらと犬夜叉を見遣ると、犬夜叉のほうも珊瑚を盗み見ていたらしく、目が合い、二人は真っ赤になって、気まずそうに視線を逸らせた。
〔了〕
2015.10.11.
"fall in love" の fall で、「落ちる」話。