つい一週間前までは、独りで月を見上げていた。
旅路にある愛しいひとのことを想って──
いざよふ
「何を見ている?」
今、まさに脳裏に想い描いていた男の声がして、珊瑚ははっと振り向いた。
「方士さま」
「月か」
珊瑚の隣に並び立ち、方士の弥勒は夜空を仰いだ。
支那のとある王国の姫君である珊瑚は、ある出来事がきっかけで幼なじみでもある方士の弥勒とともに故国を離れ、西方の国を訪れた。
そして、互いの想いを確かめ合い、結婚の約束をした。
今、帰国の途にある二人は、異国の地で、弥勒の懇意だという長老の家にこの日の宿を借りている。
窓辺に立つ珊瑚の腕に抱かれていた二股の尾を持つ小さな猫が、とん、と床へ飛び降り、気を利かせたのか、続きの間へと姿を消した。
広い部屋を照らすのは小さなランプの光と、天上から降りそそぐ月の光だけ。
珊瑚は、ちらりと隣に立つ青年の様子を窺った。
弥勒は、たった今、沐浴を終えて部屋に戻ってきたところである。
まだ湿っている髪は解かれ、身にまとうは薄い絹の寝衣。
いつもきちんとターバンを巻き、隙のない身なりの彼を見慣れている珊瑚は、このようにくつろいだ方士の姿を目にするのは初めてだった。
髪を下ろした彼はいつも以上に妖艶に見える。
珊瑚の心臓は、どきどきとうるさく鳴り響いていた。
「……なんですか?」
珊瑚の視線に気づいた弥勒が、彼女を振り向き、やさしい笑顔を見せた。
「うっううん、何でも……」
慌てて首を振る珊瑚だが、自分もまた、沐浴後で薄い寝衣だけという姿でいることは念頭にない。
弥勒の目に、自分がどう映っているかなどということも──
そのままじっとこちらを見つめてくる弥勒の視線に耐えられず、珊瑚は頬を染めてうつむいた。
「珊瑚──」
「あっあのさ、ここの長老さまとはどういった知り合いなの?」
艶を帯びた弥勒の声をさえぎるように、ぎゅっと両手を握り合わせ、珊瑚は唐突に声を上げた。
「夢心さまの古くからのお知り合いです。この辺りを訪れたときは、私もいつもお世話になっているんですよ」
托鉢僧の夢心は、弥勒の師であった。
若い頃は諸国を渡り歩いていたというから、そのときの知己であろう。
「ふ、ふうん……」
珊瑚は次の話題を探す。
弥勒は、そんな恋人の緊張を見透かしたようにくすりと笑うと、彼女の背後に立った。
両肩に手を乗せられ、珊瑚はびくりと身を強張らせる。
弥勒のほうは、そんな彼女の様子を楽しむように、片方の手でまだ湿っている珊瑚の長い黒髪をすくいあげ、口づけたり、指に絡ませたりと余裕の表情である。
「あの……方士さま、月が綺麗……」
「ああ、綺麗だな。でも、珊瑚のほうがもっと美しい」
背後に立つ弥勒に両方の腕を肩からなぞるように撫でられ、肌が粟立つのが感じられた。
このままでいると、自分はどうにかなってしまいそうだ。
「……方士、さま?」
気を抜くと震えてしまいそうな声を、珊瑚は下を向いたまま、絞り出す。
「ん?」
「え、と……その、今夜、同じ部屋で──休むの?」
「昨夜だって一緒に眠ったじゃないですか」
「そうじゃなくて、その……」
「あいにく昨日は金曜日でしたからな」
回教徒は金曜日の性行為を禁じられている。
安心しきったように自分の腕に抱かれて眠っていた珊瑚の寝顔を思い出し、弥勒は苦笑した。
今宵もまた、あんな顔で眠られたら手が出せないと思っていたが、珊瑚が意識しているようなので、一安心といったところか。
「そりゃーつらかったですよ? 愛しいおまえが無防備に腕の中で眠っているというのに、私は何もすることができなかったんですから」
「……」
握り合わせた両手で心臓の辺りを押さえ、珊瑚は真っ赤になった顔をさらにうつむかせる。
「あの、でも、まだ父上に報告もしてないし」
「そうですな」
「その、結婚式だってまだだし」
「そうですな」
「えと、ここには雲母もいるし」
弥勒はわざとらしく深いため息をついてみせた。
「……そうですな。国王が私たちの結婚をお許しにならなかった場合、おまえが清い躰のままでいなければまずい」
真摯な低い声音に、珊瑚ははっとなった。
「おまえを傷物にするわけにはいかんからな」
背後から弥勒が離れる気配がする。
この期に及んで拒んだりしたから、弥勒は自分との結婚を諦めるつもりになったのだろうか。
「嫌だ、方士さま。あたしは方士さま以外の人のところに嫁ぐ気なんか──!」
思わず振り返って叫び、珊瑚は眼をぱちくりさせた。
先ほどの沈んだ声とは裏腹な、してやったり、とばかりの意地の悪い笑みを浮かべている弥勒を目にし、珊瑚は、やられた……! と唇を噛んで相手を睨めつける。
「なら、問題ないでしょう」
再び珊瑚に歩み寄った弥勒は、今度は正面から彼女の肩に手を廻す。
「帰国して、誰に反対されようとも、ずっと……あたしの……」
「もちろん、おまえのそばにいますよ」
珊瑚の額にやさしい口づけがおりてきた。
「ほんと……?」
「忘れたんですか? もし、国王に反対されても、おまえを攫ってでも一緒になるつもりだと私は言いましたよ?」
しかし、弥勒の手が珊瑚の衣にかかろうとすると、彼女はわずかに身をよじり、反射的に男の手から逃れようとする。
弥勒は小さく吐息をつき、珊瑚の唇に軽く自らの唇を触れさせた。
「珊瑚。おまえが嫌なら、これ以上のことはせん」
「い、嫌ってわけじゃ……」
「そういえば、以前、ここにご厄介になったとき、長老に孫娘をもらってくれと頼まれましたっけ」
「へっ?」
「おまえが嫌なら仕方ない。今夜は、その娘の部屋で休むことにします」
「やだっ! 行かないで、ここにいて、方士さま!」
今にも自分から離れ、部屋を出ていきそうな弥勒に、思わず珊瑚はすがりつく。
そんな彼女をすかさず抱き寄せると、弥勒はするりとその寝衣を肩から滑らせ、床へ落とした。そして裸形の彼女を抱き上げて、寝台へ運び、横たわらせる。
方士の早業になす術もなくされるがままの珊瑚は、横たわった自分を見つめる黒い瞳が躍るような光を湛えているのを見て、はっと我に返り、彼を睨んだ。
「策士」
「今さら」
拗ねたような珊瑚の声にも、弥勒は軽く応ずるだけだった。
「灯り、消して……」
消え入るような珊瑚の懇願に、弥勒は無言でランプの灯を消す。
寝台に横たえられた珊瑚の裸身は、月明かりに染められて、深海に眠る一粒の真珠のようであった。
恥ずかしげに両腕で乳房を覆い、しっかりと足を閉じあわせ、少し腰をよじるようにして秘部を男の目から隠そうとしている。
「珊瑚、おまえは本当に美しい」
その肢体の美しさに弥勒は感嘆の吐息を洩らし、自らも寝衣を脱ぎ捨てた。横たわる彼女に覆いかぶさると、そっと頬を撫でて唇を重ねる。
「ん……」
ゆっくりと、深く彼女の口腔を味わい、舌を絡めながら、弥勒は力の緩んだ彼女の両の手首を取って腕を広げさせた。
そして、露になった豊かなふくらみにも丹念に唇と舌を這わせていった。
ゆったりとしたやさしい愛撫に、珊瑚も吐息を洩らしながら身を震わせる。
弥勒の手が、珊瑚の手首から腕を伝って胸へと移動し、やわらかな双丘を撫した。
「あ……ほう、し、さま──」
微かに喘ぐ珊瑚の口を唇でふさいだ方士の手が徐々に下へとおりていく。
そうと察して羞恥に身をよじる珊瑚のささやかな抵抗を口づけでおとなしくさせ、下肢への愛撫を開始する。
「や……」
「そんなに力を入れるな」
珊瑚はむずがるように首を振る。
すると弥勒の唇が胸の飾りを咥え込み、軽く歯をあてながら舌で転がすようにした。
「あっ──」
強く吸われ、思わず全身の力が抜けてしまった珊瑚の膝を割り、弥勒の指がゆるゆると内腿を撫で上げるようにして秘められた場所へと到達した。
そこはしっとりと湿り気を帯びていた。
「感じているんですね」
「やっ……はぁっ」
愛しい男の手指が、敏感な部分をまさぐっている。珊瑚はびくんと身を震わせた。
「珊瑚、力を抜いて。全て、私に委ねてください」
「やあっ、あっ」
やさしく花弁をまさぐっていた指は、やがて、ゆるやかに秘泉を探るような動きを見せ始め、少しずつあふれてくる蜜をすくいとってはかきまぜた。
甘い疼きに思考が奪われる。
珊瑚は、もう何も考えられなかった。
* * *
朝の訪れとともに珊瑚が目覚めたとき、目の前に眠る方士の顔があった。
生まれたままの姿で、彼とひとつの臥所に身を横たえている。
「方士さま……」
夕べ、自分はこの男と結ばれたのだ。
昨夜の記憶が鮮明に脳裏によみがえり、珊瑚は一人で赤面した。
おずおずと手を伸ばした珊瑚は、愛しい青年の頬をそろ、と撫でてみる。
「綺麗な顔」
見惚れるほど秀麗な顔がそこにある。
自分などがこのひとの妻になって、本当にいいのだろうか。
「好き……」
ぽつりとつぶやくと、
「私もですよ」
甘いささやきが返ってきて、珊瑚は仰天した。
「ほっ、方士さま! 起きて、たの……?」
「はい」
眼を開き、悪戯っぽく笑った弥勒の腕に引き寄せられ、唇を合わせられた。珊瑚は方士にすがりつく。
「方士さま、もう、どこへも行かない?」
「おまえのそばにいると言ったでしょう?」
「この家の娘さんのところへも?」
「この家に娘などおりませんが」
しれっと答える方士に珊瑚は唖然となる。──騙された。
「珊瑚」
ふくれる珊瑚をなだめるように髪を撫でながら、くす、と弥勒は笑みをこぼす。
「なに? 方士さま」
「その、方士さまっての、やめません?」
「え?」
「おまえはもう、私の妻なんですから」
彼からはっきりと告げられたその言葉に、珊瑚は再び羞恥を覚え、幸福そうに頬を染めた。
微かに笑むそんな珊瑚を愛しげに見つめる弥勒の微笑みも、次第に深くなる。
「国に帰り着く頃には、名で呼んでくださいね」
恥ずかしげにうなずいた珊瑚は、表情を隠すように弥勒の胸に顔を埋めた。
Fin.
2007.8.1.