君を待つ、君を恋ふ

 何刻頃だろうか。
 夜の帳が下りてから、だいぶ経つ。
 ゆっくりと雲が流れ、いつの間にか月を隠してしまった。
 闇に沈む、そんな静まり返った村の、或る民家の玄関の戸が、かたん、と開く音がした。
「……」
 しんとした家の中は、ぱちぱちと囲炉裏の炎の音だけが大きく聞こえる。
「ただいま帰りました」
 玄関から入ってきた法衣姿の人物が、錫杖を置いて、そっと居間に入ってみると、囲炉裏の前に彼の妻がきちんと座っていて、その首だけがゆらゆらと舟をこいでいる。
「珊瑚」
 弥勒はそっとささやいた。
 珊瑚の背後に膝をついて、後ろから彼女の両肩をふんわりと抱きしめる。
「……っ!」
 途端にびくっとなった珊瑚が眼を開けた。
「法師さま……! びっくりした──
 囲炉裏の火が赤々と燃えている。
 驚く彼女の顔を見て、弥勒はふっと微笑んだ。
「おまえらしくもない、不用心だな。私の気配に気づかないなんて」
「法師さまの気配だから安心しちゃったんだよ。知らない人が入ってきたら、すぐ気づく」
 やや照れたように言う珊瑚の顎を捉え、弥勒は後ろから覆いかぶさるように、熱を込めて彼女に口づけた。絡まる舌が熱い。
「ん……」
 唇が離れ、視線が合うと、珊瑚ははにかんだような表情を見せた。
「……身体、冷えてるね。唇も冷たい」
 暦ではもう春だが、まだまだ朝夕は冷える。この時刻の外気は冷たい。
 珊瑚は両手で弥勒の頬を愛しむように包んだ。
「こんな時間だし、夕餉はすませてきたんだろう? 白湯でも飲む?」
「いや、珊瑚がいればそれでいい」
 もう一度唇を合わせ、なおも彼女を抱きしめてくる夫を彼女もやさしく抱きしめ返す。
「ごめん、まだ床を延べてない。寝床に温石おんじゃくを入れておけばよかったね」
 特に寒い夜などは、温石を布に包んであらかじめ寝床に入れて温めておくこともある。
「そんなものは要りません。珊瑚がいればいいと言ったでしょう?」
「こんなに遅くなるなら、向こうで泊まらせてもらえばよかったのに」
「でも、起きて待っていてくれたではないですか」
 弥勒の唇が珊瑚の首筋に押し付けられ、珊瑚の唇から甘い吐息がこぼれた。
「それは、法師さまが遅くなっても絶対帰るって言ったから──
「おまえがいるのに独り寝は嫌です」
「あ……」
 小袖の衿元から手を差し込まれ、珊瑚は赫くなって小さく身をよじった。
「や、ここで……?」
「駄目か?」
「駄目っていうか……」
「もう待てん」
 流れるように珊瑚を床に押し倒し、彼女の衿元をくつろげ、唇に、首筋に、胸元に、弥勒は性急に唇と舌を這わせていった。瑞々しい肌は果実のように甘い。
 すがるように愛撫を加えていく彼の仕草が愛しくて、珊瑚は小さく笑った。
 夢心の代理で、この日は早朝から大きな寺へ赴いていた弥勒だったが、それだけだ。夕べも肌を合わせているのに、まるで何日も逢えなかった恋人に対するようだ。
「法師さま、もしかして甘えてる?」
「そんなつもりはないが」
「ふふ、まだ言ってなかった。お帰りなさい」
 炉端に仰向けに倒された珊瑚は、そのまま両手を弥勒の首に伸ばして彼を抱き寄せた。
 そして、彼女から軽く口づけを贈る。
「法師さまが帰ってくるのを心配しながらずっと待ってた。あたしだって、夜、家に法師さまがいないと寂しい」
「珊瑚」
 彼の指が愛おしげに彼女の頬の輪郭をなぞった。
 帰る家がある。
 待っている人がいる。
 そんな幸せが実現した証として、珊瑚が腕の中にいる。
 彼女が自分を待っていたことが、弥勒は単純に嬉しかった。
「……おまえが愛しい」
「あたしもだよ、法師さま」
 弥勒は心のままに愛しい人の唇を貪った。
 幸せを享受するかのように、その存在を確かめる。
 感触で。
 体温で。
 甘い営みはいつ果てるともなく続く。
 ──夜は長い。

〔了〕

2025.3.6.