眠りの国の…
旅の合い間にぽっかり空いた時間。
大樹の根元に法師と並んで腰を下ろした珊瑚は、変化した雲母に寄りかかり、弥勒の口から出てくる流れるような説法に耳を傾けていた。
(ふあぁあ……眠い)
ちょっと眼を放せば綺麗な娘にふらふらとついていきそうな法師を引き止めるため、「説法が聞きたい」と口から出まかせに言ってしまった。
怪訝な顔を見せたものの、弥勒は快く珊瑚につきあってくれた。
しかし、最初は解りやすく話を進めていた弥勒も、次第に熱が入ってくるとかなり高度で専門的な内容を語り出し、もう珊瑚はついていけない。
雲母にもたれ、珊瑚は必死に欠伸を噛み殺していた。
すると、すこし離れた位置を、ひょこひょこと七宝が横切っていく姿が見えた。
(七宝だ。どこ行くんだろう)
見るともなしに仔狐の姿を眺めていた珊瑚は、その姿にふと違和感を覚えた。
(あれ? 七宝じゃない……?)
思わず寄りかかっていた雲母から身を起こす。
七宝の姿をした子供は、確かに七宝だったが、耳と尻尾がいつもと違っていた。
(う、兎?)
珊瑚はぱちぱちとまばたきを繰り返す。
軽い足取りでとことこ歩いている七宝の頭には白くて細長い耳が生え、尻尾は狐のものではなく、白くて丸い、兎のそれである。
「七宝? なに、化けそこねたの? それとも、七宝そっくりの兎の妖怪?」
傍らの弥勒の存在も忘れ、珊瑚はすっと立ち上がると兎の耳を付けた七宝のあとを追いかけた。
「七宝! ねえ、ちょっと待ってよ。どこ行くんだい」
「忙しい忙しい」
だが、兎の七宝はそんな珊瑚の呼びかけなど全く聞こえていないかのように、首から紐でぶらさげた砂時計を両手で持って睨みつけている。
「ああ、もう間に合わんかもしれん。急がねばっ」
「ねえ、七宝、どこ行くのってば。それに、なんで兎の格好してるのさ?」
七宝はついてくる珊瑚を完全に無視し、速足で歩き続け、井戸のところまで来ると何の躊躇もなく、その井戸の中にぴょーんと飛び込んだ。
「って、ちょっと、七宝!」
慌てた珊瑚が井戸を覗き込んだが、真っ暗で中は見えない。
「どうしよう」
こんなところに落ちては溺れてしまうではないか。
万が一涸れ井戸であったとしても、大怪我をするのではないか。
何にしても、小さな彼が一人で井戸を登ってくるのは無理なのでは?
あたふたとなった珊瑚はえいっとばかりに自分も七宝と同じように井戸の中に飛び込んだ。
(え? 何だかゆっくり落ちている)
ふわふわとした浮遊感がしばらく続くと、とん、と足が地面に着いた。
「涸れ井戸だったんだ。七宝はどこだろう」
井戸の底と思しい真っ暗な場所で珊瑚が眼を凝らすと、不意に、辺りがぽうっと明るくなった。
「あ、あれ──?」
ここは井戸の底ではないのか?
行灯が光を放つそこは、四畳半ほどの畳敷きの部屋だった。
一ヶ所、小さな出入り口があるから、七宝はそこから出て行ったのだろう。
それより、珊瑚の注意を引いたのは、部屋の真ん中に、でんっ!と置かれている硝子の瓶だった。
初めて見るものだったが、かごめが持っている“ぺっとぼとる”に形が似ている。
その瓶には札が掛けられ、こう記されていた。
飲んで!
「……これ、飲むの?」
律儀にそれを手に取った珊瑚は、ふたを開け、恐る恐る中の液体を口に含んでみた。
(あ、結構美味しいかも。かごめちゃんが持ってくる“じゅーす”みたいな味がする)
その味を気に入った珊瑚は、ぐびぐびーっと瓶の中身を一気に飲み干してしまった。
と。
「え、えええーっ!?」
珊瑚の身体がみるみるうちに縮んでいく。
「しまった、妖怪の罠かっ?」
さっきの七宝の姿をした奴も、彼女をおびきよせる囮だったのか。
飲んで! と書かれた札とほとんど変わらない大きさになった珊瑚は、警戒心を強めて、辺りの様子を窺った。
そのとき、突然、全身を押しつぶされるような圧迫感に襲われ、うっと珊瑚は呻き声を上げた。
振り返ってみるが、何も見えない。
しかし、眼に見えない何者かが、小さな珊瑚の上に伸しかかるように体重をかけているのが感じられる。
(──っ! 妖怪・子泣き爺っ!?)
珊瑚は必死にその重みに耐え、それから逃れようと身をよじった。
「……ご。珊瑚」
「!」
不意にまぶしい陽光が目に飛び込んできた。
行灯の光ではない。自然の太陽の光だ。
「ひどいじゃないですか。私がおまえのために一生懸命話をしている最中に、眠ってしまうなんて」
「え? あ? 法師さま……?」
気がつくと、珊瑚は変化した雲母の背にうつぶせに身を預けていて、そんな彼女の上に弥勒が覆いかぶさるように抱きつき、ぐいぐいと体重をかけている。
──道理で重いはずだ──
いつの間にか眠っていて、夢を見ていたのだと悟り、珊瑚は小さくため息をついた。
「……全部、夢だったんだ。それにしても、おかしな夢だったなあ」
「夢? どんな夢です?」
「法師さま、重い。退いてくれない?」
「教えてくれないとこのままです」
珊瑚の背に抱きついた弥勒は、彼女の髪にすりすりと頬ずりをする。
「七宝がね、兎の格好をして出てきたの。それで、時間を気にしながら井戸の中に飛び込んで──」
くす、と小さく思い出し笑いを洩らす珊瑚の様子を見て、弥勒は不満げな表情を浮かべた。
「私は? 私はおまえの夢に出てこなかったのか?」
「え──あの、出てきたことは出てきたんだけど……」
「で、夢の中の私はどうでした? おまえとはどんな?」
無駄に期待に満ちた法師の表情を見る限り、何やら色っぽいことを想像しているらしい。
思わず珊瑚は言葉につまり、きまり悪げに法師から眼をそらすと、雲母の背に突っ伏した。
(い、言えない……夢に出てきた法師さまが子泣き爺だったなんて……)
〔了〕
2007.12.30.