眠り姫の泡沫
障子越しの朝の光が室内を満たしている。
寝床で眼を覚ました珊瑚は、己を包むぬくもりにもう少し揺蕩っていたいと思い、心地好さそうに寝返りを打ち、夜具の中に身をうずめた。
途端にはっとする。
「……!」
目の前には眠る弥勒の顔。
彼女が枕にしているのは彼の腕。
(法師さま──)
珊瑚の脳は完全に覚醒した。
昨日、法師と祝言をあげた。
皆に祝われて、固めの盃を交わし、夫婦としての初めての契りを交わした。
法師とひとつの夜具に身を横たえ、至近距離で彼の寝顔を見つめるうち、知らず知らず、珊瑚は指先で己の唇に触れていた。
昨夜、この唇に受けた口づけを思い出す。
ずっと焦がれていた人に抱きしめられ、口づけを受け、肌を合わせ、まるで花嵐のような一夜を過ごした。
(あたしはもう、法師さまの妻……)
愛しい人の寝息を聞きながら、うっとりと眼を細めた珊瑚だが、突然、自分が何もまとっていないことに気づき、不意に慌てた。
弥勒はかろうじて白帷子に手を通していたが、彼女自身は裸だ。
周囲を見廻すと、打ち捨てられた彼女の白帷子がある。
彼が寝入っていることを確認し、そっと彼女は帷子に手を伸ばした。
二人の身体に掛けられた一枚の衾の下から上半身を乗り出そうとすると、突然、後ろから音もなく伸し掛かられた。
「っ!」
「おはよう、珊瑚。よく眠れましたか?」
「やっ、待って……あたし、何もまとってない」
「知っていますよ。私が脱がせたんですから」
うつ伏せの珊瑚の背に覆いかぶさる弥勒は、解かれた彼女の長い髪を肩から前へ流し、その裸の背中に唇を押し当てた。
珊瑚の鼓動が速い。
「待って、法師さま。何かまとわせて」
「このままでいいじゃないですか。夕べのおまえは最高だった。ようやく夫婦になれたのですから、明るいところでおまえを見たい」
「……もう」
夫の手で身体を仰向けにされ、赫くなって身体を隠そうとする珊瑚の唇に、弥勒が唇を重ねた。
二人の中に愛しさが満ちていく。
そんなふうに、弥勒と珊瑚は夫婦としての最初の朝を迎えた。
夫婦となった二人が、その日、最初にしたことは、村の住人たちへの挨拶回りであった。
村人たちとはすでに顔見知りであり、二人が許婚であったことも知られている。
だが、正式に夫婦となり、自分たちがこの村に住むことを改めて告げるため、二人は一緒に連れ立って、村の家を一軒ずつ訪れて回った。
村人たちは畑仕事や家事に忙しい。
それゆえ、二人は祝言をあげたことを簡単に報告するだけのつもりだったが、あちこちで祝福されたり話し込んだり、思ったより長く時間がかかってしまった。
帰宅した弥勒と珊瑚は、この日の家事は最小限にとどめ、夕餉も残り物ですませることにした。
残り物といっても、祝言の宴の残りの鯛や野菜を雑炊にしたので、普段の食事より内容は豪華だ。
二人きりでゆっくり膳を囲み、互いの気配に幸せを覚える。
ときどき訪れる沈黙が、甘く新鮮だった。
食べ終えると珊瑚が膳を片付け、弥勒が寝間へ夜具の支度をしに行った。
台所の珊瑚が最後の椀を拭いて棚に載せ、鍋を所定の位置に戻したとき、後ろから出し抜けに抱きすくめられて、息がとまりそうになった。
「法師さま……」
「疲れましたか?」
腕の中に彼女を閉じ込め、耳元でささやく愛しい気配に胸がざわめく。
「少し。でも、平気」
「夜具を延べ終わりました」
「うん。……ありがと」
後ろから珊瑚を抱きしめる弥勒の力が強くなった。
「夕べは素晴らしかった。すぐにでもおまえが欲しいのだが、構いませんか?」
珊瑚の頬が熱を持ち、胸が早鐘を打つ。
彼女は弥勒の腕の中で身を硬くした。
「あ、あの、でも」
脳裏に夕べの法師がよみがえる。
途方もなくやさしくて、同時に飢えているような激しさで、それでいて、ひとつひとつの動きや息遣いが別人のように艶めかしくて──
動揺して、はにかむ珊瑚の様子に、くす、と弥勒は笑った。
「私たちはもう夫婦ですよ。それに、緊張しているのは珊瑚だけではありません。祝言をあげて、二度目で拒まれたのでは、私もちょっと傷つきます」
悪戯っぽい口調で法師は言ったが、振り向いた珊瑚が彼を見上げると、熱を帯びた瞳が切なげに珊瑚を見つめていた。
「拒むなんて……」
「夕べ、無理をさせてしまったか?」
珊瑚は首を横に振った。
「幸せだったよ。だって、法師さまに初めて──」
そこまで言って、ふと、口をつぐみ、珊瑚はじっと弥勒を見た。
「──あたし、本当は初めてじゃなかったんだっけ……?」
「え? 初めてでしょう? 珊瑚が自分でそう言ってましたし、確かにおまえは生娘でした」
「でも、以前、法師さまに……」
眼を伏せ、拳を口許に当てて、珊瑚は少し考えるような仕草をした。
「ねえ、覚えてない? 急流に流されたあたしを法師さまが助けてくれて……直接、肌で温めてくれたことがあっただろう?」
「ええ、覚えていますよ」
「あのとき、あたし、法師さまと特別な関係になったんじゃないの……?」
そう思い込んでいるらしい珊瑚を見て、弥勒はやや慌てたふうに狼狽えた。
「ちょっと待て、珊瑚。確かに、あのときは欲望に逆らえず、必要以上におまえに触れてしまったが、断じて、最後までいっていません」
「最後って?」
「いえ、つまり。際どいところまで進んでしまったが、最後の一線は越えていません。誓います」
「際どい?」
「あああ……」
弥勒は頭を抱え、長い嘆息を洩らした。
台所の土間の横の板の間の部分に、脱力したように腰掛けると、弥勒は片手で額を押さえた。
珊瑚も弥勒の隣に腰を下ろす。
「怒ってないよ、法師さま。法師さまと契りを結ぶことは、あたしにとって、すごく嬉しいことなんだから」
「いや、だから、あのときは契りを結んでいません」
「本当に? 怒らないから、本当のことを教えて」
「本っ当に。最後の一線は越えていません」
信用ねえなあ……と、法師は心の奥でため息をついた。
「最初は体温でおまえを温めようとしただけです。だが、おまえの意識が戻っても、もっと触れたいと思う気持ちを抑えることができなかった。私がしたことを正直に話せば、おまえは、明日、私と口を利いてくれんかもしれん」
「そんなひどいことされたの、あたし?」
珊瑚にとっては甘い記憶として残っていたのだろう。にわかに不安そうになる可憐な様子が弥勒の欲をかきたてた。
「愛しさゆえです。何なら、もう一度、同じことをしてみるか?」
弥勒の手が隣に座る妻の肩を抱き寄せる。
「同じこと?」
「あのとき、私が眠る珊瑚にしたことを、もう一度、意識のあるおまえで再現しよう」
「え……? って、あの、法師さま」
弥勒は板の間に上がり、戸惑う珊瑚の身体を横抱きに抱き上げた。
「なんで抱き上げるの?」
「川に流された珊瑚を浅瀬で見つけ、抱き上げて移動するところから始めます」
踵を返そうとして、ふと、弥勒は珊瑚を見下ろした。
「冷えたおまえの身体を温めて、そのあとは、あのとき私がしたかったことをしてもいいですか?」
至近距離で見つめ合う。
弥勒の眼差しに、珊瑚は酔ったような気分になる。
「……いいよ。あたしは祝言をあげるもっとずっと前から、法師さまのものだから」
「その言葉、後悔するなよ」
いきなり素の口調でささやかれ、抱かれた珊瑚は真っ赤になった。
「おまえと私の契りを、うたかたの幻ではなく、現実のものとして、珊瑚の記憶に刻み込んであげます」
「……」
高鳴る胸が苦しいほどで、珊瑚はそっと弥勒の胸に頭を寄せた。
珊瑚を抱いた弥勒が寝間へ向かって歩き出す。
夢を見ているような心地だった。
だが、これは夢ではない。
幸せになるための長いまどろみの中から、これから二人で覚めようとしている。
〔了〕
2014.3.25.
ありがとうございました。