緑樹の砦

1:故意じゃない、恋なんかじゃない

 猿に似た醜い数匹の妖怪が、巫女に襲いかかったとき、隠れていた場所から飛び出した犬夜叉は、考えるよりも先に爪を振るっていた。
 あっという間にかたが付く。
 倒された妖怪たちを見廻し、犬夜叉は弓を持つ巫女を振り返った。
「大丈夫か、桔梗」
 村から少し離れたひと気のない街道だ。
 桔梗は顔色ひとつ変えず、半妖へと答えた。
「私が弓を構えるより早かったな」
「おまえが狙われたんだぞ。もっと他に言うことはねえのか」
「私は生命を狙われることに慣れている。今さら小娘のように悲鳴を上げることもない」
「……可愛くねえな」
 ぼそりと犬夜叉はつぶやいた。
「そんなことより、おまえは何をしていたのだ? 犬夜叉」
「……え゛」
「私をつけてきたのか?」
 犬夜叉は思わず桔梗から眼を逸らし、視線を彷徨わせた。
「か、勘違いすんな。こいつらはおれの縄張りを荒らしていた奴らだから、それで……」
 決して彼女を追っていたわけでも、彼女を救おうとしたわけでもない。そのはずだと、自分へ言い聞かせようとした。
 桔梗は見逃しそうなほど微かに微笑んだ。
「助かった。ありがとう、犬夜叉」
「礼を言われるほどのことじゃねえよ」
 だが、桔梗のほうも、犬夜叉がついてきていたことを知っていた。
 だから、とっさの瞬間、弓を取る手が遅れたのだ。
(私は、犬夜叉に助けてほしかったのだろうか……)
 何故?
 自分で自分の身を守ることができたはずなのに。

2:敵情視察中

 先日、桔梗を襲った妖怪たちを退治して、彼女をつけていたことを指摘され、ばつの悪い思いをした犬夜叉だったが、それでも、桔梗から目を離すことができなかった。
 生命を狙われることに慣れていると言った彼女の言葉が、なんとなく気にかかった。
(そうだよな。玉を守る巫女だもんな)
 彼自身、はっきりと自覚していたわけではないが、危険な毎日を過ごしている彼女を、せめて陰から守ってやりたいと、思うでもなくそう思った。
 毎日、早朝から桔梗の家をこっそり訪れ、そのあと、社へ向かったり、外出したりする桔梗をそっと見守ることが、いつの間にか彼の習慣になってしまっている。
(きっと、おれの行動なんか、全部お見通しなんだろうな)
 何かいい言いわけはないだろうか。
 どんな小さなことでも、桔梗の姿を追いかけ、彼女を見守る理由が。
 見つかったとき、また、ばつの悪い思いをしないように、いろいろと思考を巡らせていると、桔梗の住む小屋の中から一人の少女が出てきた。
 顔は知っている。
 桔梗の妹の楓だ。
 少女はしばらく周囲を見廻していたが、やがて樹上に犬夜叉が潜む木の下へとまっすぐに歩いてきた。
「お姉さまはもう行ったよ」
「!」
 少女とまともに目が合ってしまい、犬夜叉はややたじろぐ。
(何やってんだ、おれ)
 完全に油断していたが、こんな幼い少女に見つかるなんて、かなり間抜けではないだろうか。
「あちらの山の麓へ、薬草摘みに。そう伝えるようにって」
「……」
 桔梗の差し金か、と犬夜叉はため息をついた。
 楓はそれほど半妖の彼を恐れてはいないようだったが、いくらかは警戒もしているようで、振り返り振り返り、小屋の中へと戻っていった。
(遊ばれてねえか?)
 桔梗のほうが、一枚も二枚もうわてのようだ。
 彼女の目には己はどう映っているのだろうと、犬夜叉はもう一度大きなため息をついた。

3:動悸息切れの理由

 村の出口で、追いかけてくるだろう犬夜叉を何となく待っていた桔梗は、次第に強くなる鼓動と動揺に戸惑い、身体を丸くして心臓の辺りを押さえた。
 射抜かれた──
 まさにそんな感じだった。
(私は巫女だ。恋など禁じられている身だ)
 そこで、はたと気がついた。
(これは、恋なのか……)
 いつも後をつけてくる犬夜叉の気配が当たり前になり、いつの間にか、彼女のほうも半妖の彼の気配を探すようになった。
 気配がないと寂しい。
(恋なら、どうすればいい?)
 見かけほど乱暴ではない彼とは、友人として接することも可能だろう。
 第一、彼のほうも彼女と同じ気持ちとは限らないのだ。
(犬夜叉にとって、私はただの巫女……? 四魂の玉を守る巫女だから、気になっているだけか?)
 巫女ではない、一個の人間として、一人の女として見てほしい。そうしたら、二人の係わり方は別のものへと変わるだろうか。
 今日、一日だけでもいい。

4:深層回転

 こちらへやってくる半妖の少年の姿を認め、桔梗は緊張を押し隠し、何気ないふうを装った。
「来たか、犬夜叉」
「よう」
 まるで、初めから約束をしていたようなやり取りだ。
 犬夜叉はどこか面映ゆい。
「あちらの山の麓の森まで、薬草を摘みに行く。村を離れるから、私の護衛を頼めるか?」
 犬夜叉はわずかに眼を見張った。
 矢筒を背負い、弓を肩に掛け、薬草を入れるための小さな籠を持った桔梗は、ここで彼を待っていたのだ。
「お、おう」
 短く答えると、桔梗は軽くうなずき、表情を緩めた。
 歩き出す彼女のあとに続く犬夜叉は、何故か心が軽く浮いたように感じられ、そわそわと落ち着かない。
 素直に嬉しいとは認めにくいが、心の深層で何かが動いたのは確かだ。
 巫女に認められたことが嬉しいのか、それとも何か別の感情か。
 どちらでもよかった。
 今日は堂々と桔梗といられる。
 歩く桔梗の横へ並ぶと、犬夜叉はそっと横目で彼女の横顔を窺った。
 白く、人形のように整った横顔だった。

5:(なんだこの甘酸っぱさは!)

「犬夜叉」
 振り返ると、桔梗の歩みは彼より少し遅れていた。
「おまえと私では歩調が違うのだ。おまえのほうがかなり速い」
「あ……悪い」
「いや、別に構わないのだが、どうしても私が遅れてしまう」
 少し伏し目になる桔梗が、やけにしおらしく、可愛く見えて、犬夜叉の胸がざわついた。
(何ていうか、これは)
 想い合っている男女が、逢瀬を楽しむ、とか、
 好き合っている男女が、逢い引きしている、とか、
 恋仲の男女が、人目を忍んでこっそり会う、とか、
 そういう雰囲気ではないのか。
「犬夜叉」
「なっ、何だ?」
「恋仲なら、こういうとき、手を繋ぐのだろうか」
「えっ?」
 犬夜叉の声がいやが上にも緊張に強張る。
「村の仲のいい恋人たちの、そうした姿をときどき見かける。以前は何とも思わなかったが、最近、少し羨ましいと思うようになった」
「……」
「おまえはどう思う?」
「したことねえから解らねえよ!」
 無愛想に吐き捨てる犬夜叉を、桔梗は少し表情を曇らせて見つめた。
「……」
「……犬夜叉、手を繋いでも?」
「か、勝手にしろ」
 ぶっきら棒に手を手を差し出すと、己の鋭い爪が目に入った。
 自分は人ではないのだと、もしかしたら、これは彼女に相応しくない手かもしれないと、犬夜叉の胸がちくりと痛んだ。
 だが、桔梗は躊躇いがちに、彼のその手をそっと掴んだ。
「こうして手を繋ぐのは、子供みたいだろうか」
「……」
 確かに彼は半妖だが、少なくとも彼女は気にしてはいない。
「誰も見てねえよ」
 犬夜叉は桔梗の手を強く握り返し、彼女の視線をさけるようにして歩き出した。

6:踏み外せば別世界

 二人は森の入り口に到着した。
「雨の匂いがする」
 ふと、犬夜叉がつぶやく。
「森に入って降られたら、動けなくなるぞ。今日は薬草摘みをやめて、戻ったほうがいいんじゃねえか?」
「やはり、雨になるか」
 犬夜叉の言葉に、桔梗は物憂げに空を仰いだ。
「知ってたのか?」
「雲の様子から、あるいはと。心配はいらぬ。妹には、帰りは明日になるかもしれないと言ってある」
 驚く犬夜叉を桔梗はさりげなく見遣った。
「少し息抜きがしたい。雨なら、言いわけも立つだろう」
「そうか」
 その息抜きに、桔梗が己を同行させた意味は何だろう?
 頬が熱くなるようで、犬夜叉は視線を横へ向けた。
「だが、おれと一緒だとバレたら、おまえの立場が悪くなるんじゃねえか?」
「バレなければいい」
 あっさりと告げられた桔梗らしからぬ言葉に、犬夜叉は軽い眩暈を覚えた。
 何かが起こりそうで、にわかに鼓動が騒がしくなった。
「どっちにしろ、薬草摘みは無理だな。森の奥に洞窟があるから、そこへ行くぞ」
 まっすぐ、雨宿りのための洞窟へ向かった二人が、そこへ到着する頃には、空もだいぶん暗くなっていた。
 程なく、降ってきた雨は、やがて土砂降りとなった。
 犬夜叉と桔梗は、洞窟の中から、しばらく無言で雨を眺めていた。
 よく知っている森の風景が、雨に閉じ込められ、全く別の世界に感じる。
 この世界では、半妖も巫女もなく、そのままの二人だけが存在した。

7:知らないふりはもうできない

 会話は途切れがちだ。
 けれど、犬夜叉も桔梗も、互いといるだけで、ときめきと安らぎの両方を感じていた。
 洞窟の中に座り込み、雨音だけが響く静かな午後を過ごし、辺りが仄暗くなってきたとき、犬夜叉はもう一度、帰らなくていいのかと尋ねた。
「おれも一応男だぞ」
「解っている」
「いや、解ってねえだろ」
 並んで座る二人は、相手の意図を探り合うような言葉と眼差しを交わした。
「おまえは乱暴なことなどしない。でも、私はそれを望んでいるのかもしれない」
──おれを惑わせるな」
 掠れたような犬夜叉の声に、桔梗ははっとして彼のほうを見た。
「何を考えているのか知らねえが、今日のおまえは、おれを惑わせるようなことばかり言う」
 胡坐をかいた膝の上にのせられた彼の拳がぎゅっと握られた。
「おれをからかって、惑わせて」
「からかってなど……」
 切なげな小さな声が、犬夜叉の心を苦しくさせた。
 衝動的に、犬夜叉は桔梗の肩を抱き寄せ、彼女の身体を自分のほうへと引き寄せた。
「嫌なら、抵抗しろ」
「……嫌ではない」
 顔を寄せると、彼女は少し躊躇う色を見せたが、しばらく見つめ合ったのち、小さく息を呑み、ゆっくりと眼を閉じた。
 唇が触れる。
 一旦、触れてしまうと、犬夜叉の口づけは荒々しかった。
 桔梗は息苦しそうに眉をひそめていたが、激しく求められるうち、自分からも彼の唇を吸い、大胆に口づけを返した。
 森の樹木と雨に守られた砦の中で、犬夜叉と桔梗は二人だけの時間を過ごす。
 雨はまだやみそうもない。
 無言で寄り添い、思い出したように口づけを交わした。あとは密やかに眠って夜へと逃げよう。
 それからのことは、明日が来たら考える。
 明日など来なければいいと、ぼんやりと思った。

〔了〕

2013.1.27.

「隠れ甘々なふたりに7つのお題2」
お題は「TV」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)