花筏
桔梗を探して、山へ来た。
用はない。
ただ、何となく顔を見たかった。
山笑う季節。
犬夜叉は、彼女が薬草を採りに行ったという山へ入った。
山の色も大気の色も、穏やかだ。
匂いを追えば、桔梗の居場所を知ることができるだろうが、山の木々の美しい色彩に、歩をとめて、彼は見入った。
緩やかな谷川の際に連なる淡い彩り。
山の桜は花の盛りを過ぎたようで、はらはらと、その可憐な花びらを散らせていた。
犬夜叉は渓流の中に突き出た大きな岩の上に立ち、対岸の低い崖の上に、その山桜の群れは在る。
花びらは無数に降りしきり、風に流れ、渓流に舞い落ちていた。
次から次へと、とめどなく。
(桔梗……)
何故か、心に秘めた想い人の名が浮かんだ。
かの人が、無言でひっそり、どこかで同じ光景を見ているような気がした。
降りそそぐ花びらは谷川の水に落ち、踊るように緩やかに流れゆく。
揺らめきながら流されて、里に下り、どこまで漂っていくのだろう。
犬夜叉は足場にしている岩を蹴り、対岸へと跳躍した。
ざっと風が吹き、降りかかる花びらの中を抜ける。
崖の上へ着地した犬夜叉が振り返ると、眼下を横切る渓流が、花びらを受けて桜色に染まり、ほんのりと紅をさした佳人のように見えた。
見上げると、際限なく花びらを散らせる太い桜の枝がある。
全てが淡い桜色だ。
彼はその木の下に座り込んだ。
(桔梗もここを通ったかもしれねえな)
その感覚が愛おしかった。
己の眼に映る美しい景色。
それを分け合いたいと思うひと。
彼には特別な感覚だった。
やわらかな風が流れる。
淡い花びらが揺れる。
いつしか、犬夜叉は、山桜の幹に身を預け、心地好い眠りに漂っていた。
「……」
先程とは異なる空気を感じ、犬夜叉はふっと眼を覚ました。
「よく眠れたか? 犬夜叉」
「!」
はっとして振り向くと、巫女姿の佳人が座っていた。
「桔梗!」
「私の気配にも、しばらく眼を覚まさなかった。以前なら考えられなかったことだな」
山桜の精のように、淡い雰囲気を漂わせる巫女は、犬夜叉を見て、やはり淡く微笑した。
「今、来たんじゃなさそうだな。起こしてくれればよかったのに」
「おまえの寝顔を見ていたかった」
「ばッ……!」
頬に熱さを感じ、犬夜叉は桔梗から顔を逸らす。
「私はそろそろ村へ帰らなければならないが、おまえはどうする?」
「おれは、もう少しこの桜を見ている」
「そうか」
犬夜叉のそばに腰を下ろしていた桔梗は、摘んだ薬草を入れた籠を持ち、立ち上がった。
「桔梗」
「何だ?」
「……いや、何でもねえ」
名残惜しい。でも、引き止めるための言葉を知らない。
ふっと笑み、桔梗は静かに山を下りていく。
その姿を見送った犬夜叉は、変わらず、はらはらと散る花びらへと視線を向けた。
ふと、違和感を覚え、左手の袖をまくってみると、手首より少し下、腕の内側に仄かに赤い跡がある。
「何だ、これ?」
渓流を流るる花びらがひとつ、間違ってここへ舞い込んで、貼りついたような。
「!」
これは唇で強く吸った跡だ。
そして、そんなことができたのは、一人しかいない。
(桔梗──!)
たちまち犬夜叉の全身が熱を持つ。
(おれがうたた寝をしている間に、何てことしやがる)
速まる鼓動を抑え、腕に残された花びらのような跡に、犬夜叉はそっと口づけを返した。
彼はおもむろに立ち上がる。
桔梗は、今、どの辺まで山を下りているだろうか。
追いかけて、つかまえて、仕返しをしてやりたい。
淡い色で山を染める山桜はおまえのようだと、渓流に舞うその花びらはおまえの唇のようだと、そう思ったことを、自分の口で伝えたい。
〔了〕
2014.2.14.