ひかりの君

 少しずつ君に近づいて。
 この感情が“愛しい”というものなのだと知った。──


 滝壺までやってきたとき、そこには滝の水音だけが響き、肝心の巫女の姿がなかった。
 わずかばかりの失望を感じ、身を翻そうとした犬夜叉だったが、微かな人の気配を感じて歩みを進めると、樹木の陰に彼女がいた。
 髪を解き、白衣びゃくえだけをまとい、座っていた。
「わっ悪い!」
 慌てて後ろを向く犬夜叉を見て、桔梗はくすりと小さく笑った。
「構わぬ。ちょうど暇を持て余していたところだ」
「う、その、瞑想の邪魔をしたか?」
 少年は一応、気を遣ってみる。
「瞑想していた、と言えば聞こえはいいがな。ただ、ぼんやりしていただけだ」
 禊のあと、髪を乾かしていたのだと桔梗は言った。
「座れ、犬夜叉。少し、話さないか」
「お、おう」
 乱暴な半妖が、桔梗の前では借りてきた猫のようになる。
 それが可笑しくもあり、愛しくもあって、桔梗は口許を綻ばせた。
 そんな桔梗の様子には気づかずに、犬夜叉は彼女のたっぷりとした黒髪に目をやった。まだかなり湿っているが、見事なものだ。
「……」
 犬夜叉は黙ってそれを見つめる。
 妖ではない人間の黒い髪に憧れた。桔梗の、髪に。
「……なんだ?」
「いや」
 犬夜叉の反応を楽しんでいるような桔梗は年相応の娘に見える。
 彼はやや照れたように桔梗から視線を逸らした。
「髪、結ってるときは凛としてるけど、おろしているとやっぱり女なんだなっていうか、その……」
「女、か」
 桔梗はどこか淋しげに眼を伏せた。
「私は巫女である以上、一個の女であることを諦めたつもりだ」
「諦めるも何も、おまえは女だろ?」
 男とか女とか、そういうものは変えようがない。
 それに桔梗は誰が見ても匂い立つような美女だ。
 あるがままを見て犬夜叉は言ったつもりだったが、桔梗はふっと笑った。
「犬夜叉、おまえの髪は美しいな」
「そ、そうか?」
「光を孕んでいるようだ」
 穏やかにこちらを見た桔梗を見て、犬夜叉ははっとした。

 ──ずっと息をひそめて生きてきた。
 人間に、この女に、こんな感情をいだくなんて。

「おれの髪なんか、少しも奇麗じゃねえ。おまえが……おまえのほうが、光の中に住んでるようだ」
 桔梗は軽く眼を見張った。
 四魂の玉を守り、村を守る巫女という立場が、簡単に放棄できるものではないことは理解している。
 それでいてなお、この半妖の少年の前では“女”であり続けたいと彼女は強く願った。
「私は巫女である定めに従うつもりだ。だが……」
 願うだけなら、構わないだろうか。
 桔梗は風にそよぐ犬夜叉の長い銀の髪に手を伸ばした。
「いつか、許されるなら」
 ただの女として、おまえの前に立ちたい。
 目の前の女のまぶしさに息を呑み、犬夜叉は己の髪に触れた彼女の指に触れていいものかと迷い、胸の動悸に戸惑った。
 それが愛しいという感情であることに気づき、新鮮な驚きを覚えた。
 光を求める、そんなささやかな想いは、決して罪ではないはずだった。

〔了〕

2010.11.23.