さまよえる胡蝶
道端で泣いている女の子がいた。
「……どうした、道に迷ったのか?」
不意に声をかけられ、少女は驚いたように声の主を見上げた。
静かな微笑を湛えた巫女姿のうら若い女性がそこにいる。
少女は涙に濡れた瞳を瞬かせ、不安そうにしていたが、相手が巫女装束をまとっていることで幾ばくか安堵したようだ。
「帰り道が判らないの」
と、ぽつりと言った。
「この近辺に村はひとつしかない。おそらくそこがおまえの村だろう。さ、行こう。私が送っていく」
やさしく促し、巫女──桔梗は少女に手を差し出した。
少女は急いで目許をこすり、嬉しそうに、清げな巫女の白すぎる手を取る。
二人は手を繋いで歩き出した。
果たして、その村では少女の母が娘の行方を捜していた。
「ありがとうございます、巫女様」
そろそろ日も暮れようという頃、娘の手を引いて村にやってきた巫女に彼女は何度も頭を下げた。
「巫女様、ありがとう!」
せめて今宵の宿をという申し出を丁重に辞退し、手を振る少女に笑顔を向けて、桔梗は踵を返した。
刹那、何かが心をかすめた。
郷愁?
──あたたかな場所への憧れ。
かつて、自分にもこのような場所があった。
それを失ったのは、自分が一度死したからなのか。
ふと、足をとめて吐息を洩らすと、向こうを猫と一緒に駆けていく子供の姿が目に入った。
「……」
どこかで見たような。
あれは犬夜叉の仲間の仔狐と猫又ではないか?
はっとして振り返ると、すぐそこの樹の上に、よく知る緋色の水干姿があった。
「やっと気がついたか」
「犬夜叉……」
半妖の少年は地面に飛び降りて、ゆっくり桔梗に近づいてきた。
「おまえらしくねえな、ぼんやりして」
「そうだな。そこにいたのが奈落なら、私は死んでいた」
「いや、殺気には気づかねえはずねえだろ。おまえが無防備だったのは、ここが平和な村だからだ」
人恋しいのか、と。
そんなことを問うことはできない。
問う代わりに、そっと手を伸ばして犬夜叉は桔梗に触れようとした。
「私に構うな、犬夜叉」
一歩、身を引き、桔梗は彼から視線を逸らせた。
「手を差し伸べるな。でないと、期待してしまう」
身を翻して、犬夜叉に背を向け、歩を進めようとした桔梗の背後に素早く追いつくと、犬夜叉は彼女の腕を掴んだ。
「おまえが迷子を放っておけねえように、おれはおまえを放っておけねえんだよ」
「おまえが気にかける私は五十年前の私だ。死人としての私とは、別の私だ」
「桔梗……?」
彼女が何を言っているのか解らなくて、犬夜叉は軽く眼を見張った。
「胡蝶の夢を知っているか?」
桔梗は淡々と言う。
「五十年という歳月を思うと、あの頃の自分の生活が、夢の中の出来事だったのかもしれないと感じることがある。逆に、今の私のほうが、五十年前の私が見ている夢なのかもしれない」
「……」
「どちらの私も、四魂の玉という因縁に囚われ……」
彼に背を向ける桔梗の瞳が、ふ、と流れて犬夜叉を映した。
「どちらの私のそばにも、おまえはいない」
「……!」
たまらず、犬夜叉は愛しい女を後ろから夢中で抱きしめていた。
「四魂の玉が消えて、おれがそばにいれば、おまえは幸せか?」
「どうだろうな。また別のしがらみに囚われるのかもしれない。だが、私は」
おまえがともにいてくれれば、それだけで──
それは言葉にしてはいけないような気がして、瞳を伏せ、桔梗は口をつぐむ。
桔梗を抱きしめる犬夜叉の力が強くなった。
「……犬夜叉。私はもう行かなければ」
これほど惹き合っているのに、どうして、別々に歩むことになってしまったのだろう。
五十年前、最後まで信じ合えなかったから?
桔梗が死したから?
けれど、今ここに彼女の精神は確かに在り、彼女という人間は生者と同様にはっきりと存在している。少なくとも、そう見える。
(だったら、やり直すことも不可能じゃねえはずだ)
いつか、おまえの歩みをとめさせる。
そしておれが、おまえの安息の地となる。
落日に向かって歩む気高い巫女の後ろ姿を、犬夜叉はやるせない気持ちでじっと見つめた。
すぐにでも追いかけていって、この腕に閉じ込めてしまいたい。
そんな気持ちを押し殺し、遠ざかっていく愛しい姿を、今はただ見送るしか術はなかった。
〔了〕
2011.10.26.