刹那の願い
独り、奈落の妖気をまとった妖怪を追ってきた犬夜叉は、見慣れない植物に囲まれた場所で足をとめた。
むせ返るようなにおいはこの植物のにおいだろうか。
息がつまりそうになる。
その瞬間、追っていた妖怪の姿が目の前で煙のように消え、彼は舌打ちをした。
(陽動か)
仲間たちには分散するなと言ってある。きっと大丈夫だろう。
それより、自分自身の意識が遠く感じられた。
こんなところで気を失うわけにはいかないのに、嫌なにおいがどんどん強くなり、息苦しさが増していく。
犬夜叉は、身を翻して走り出そうとしたが、足に力が入らなかった。
がくんと膝が折れたとき、霞みつつある視界の端に紅い色彩を見たように思った。
眼が覚めたとき、犬夜叉は廃屋のような荒れ果てた小屋の中に寝かされていた。
額だけがひんやりとしていた。
はっとして、額に当てられていた冷たい手を掴む。
「桔梗……」
見たと思った姿の主はそこにいた。
「どうして、おまえが……」
「おまえと同じ妖気を追ってここまで来た」
彼女はほっとしたように意識を取り戻した犬夜叉の瞳を見返した。
「あの茂みの植物は妖の一種だ。感覚を麻痺させるにおいをまき散らしている。おまえのように嗅覚の鋭い者には特に危険だ。放っておくと呼吸器官をやられてしまう」
「……」
記憶をたぐりよせようとする犬夜叉を見て、彼を安心させるように、桔梗は言った。
「もう大丈夫だ。中和剤を飲ませた」
彼女の傍らには薬草の包みがあった。
「おまえが助けてくれたのか」
桔梗は横たわったままこちらを見つめる犬夜叉をじっと見た。
彼女の片方の手は、最初、彼に掴まれたまま、彼の手の中にある。
「犬夜叉、手を」
「放さねえ。って言ったら?」
「放したくないなら、このままでいい」
そのまま桔梗を見つめていた犬夜叉は、おもむろに身を起こし、握っている彼女の手を自分のほうへ引き寄せた。
そうして、彼女を引き寄せるのと同時に、彼女の顔へ己の顔を近づける。
彼が望むままに、桔梗も眼を閉じ、自分からも顔を寄せた。
吐息が混じり、唇が触れる。
──冷たい。
そう感じた唇は、どちらのものだっただろう。
冷たいと感じるのは、桔梗が死人であることを強調されたようで、無性に悔しくて、犬夜叉は彼女の唇を食む動作に熱を込めた。
陶器のような彼女の頬に手を添えて、ありったけの「生」を注ぎ込むように。
「……行くな」
熱っぽくささやく犬夜叉の声はかすれていた。
「どこへも行くな。おれのそばにいろ」
答えを待たず、再び桔梗の吐息を奪う。
たとえ、それが熱に浮かされた刹那的な言葉だったとしても、桔梗は心の奥底にあたたかな灯を点されたような気がした。
犬夜叉のそばにいたい。
けれど、現実には自分は死者で、犬夜叉は生者だ。
犬夜叉は未来に向かって生き、自分は過去にしか存在することができない。
でも、“今”という接点があるならば、今だけは互いを見ていたいと思った。
「“今”が永遠に続けばいい」
桔梗の小さなつぶやきに犬夜叉が眼を見張った。
どちらからともなくすがりつくように抱きしめ合う。
すれ違う“今”を確かめるために。
今この瞬間はすぐに流れ、過去になり、今日という日が終わり、夜が明ける前に、犬夜叉は仲間たちのもとへ戻るのだろう。
だから、もう少し。
もう少しだけ。
互いに離れがたく、惜しむように唇を求め、ただ抱きしめ合った。
刹那の想いを、永遠に留める術を探して。
〔了〕
2012.2.3.