宵を行く人

 野宿している仲間たちが寝入ったのを確認してから、犬夜叉はその場を立ち上がった。
 雲母が赤い瞳を上げて、問うように犬夜叉を見たが、困ったような視線が返されると、無言のまま再び眠りの体勢に入った。
 そっと仲間たちのもとを離れ、半妖の少年は夜の闇の中を進む。
 月のない静寂の下、桔梗への想いとある予感に導かれて。
 かごめに対して悪いという気持ちがよぎるが、心の中に、どうしても譲れない領域があるのだ。
 しばらく行くと、せせらぎの音が聞こえてきた。
 川だ。
 水の匂いに誘われるようにここに来た彼は、川面に漂う朧な光を見て、物憂げに足をとめた。
 予感していたもの──蛍だ。
 犬夜叉は川辺に立ち止まって、無数の小さな光を眺めた。
 幻のように光が乱舞するそこだけが、まるで別世界のようにも思えた。

 五十年前、桔梗とともに蛍を見たことがある。
 愛する人と一緒だったからこそ、こんなに美しい蛍を見たのは初めてだと思った。
 だが、来年も、再来年も、ずっとともにこの光を見ようと桔梗と交わした約束は、それ自体が美しい幻だったのかもしれない。
 ──桔梗は死に、己は封印された。

 感慨にふけっていた犬夜叉ははっとした。
 振り向くと、背後の闇の中に、仄白く浮かび上がる桔梗の姿があった。
「桔梗──!」
 桔梗のほうも、少し驚いたように犬夜叉を見つめていた。
 そして、ゆっくり彼のほうへ歩を進めた。
「犬夜叉。何故、おまえがここにいる」
 これは偶然か?
「蛍を……見に、来た」
 桔梗の問いに彼が硬い声音で答えると、彼女は小さく息を呑み、感情を押し殺すように唇を引き結んで眼を伏せた。
「……私もだ」
 低い声でつぶやくように言葉を繋ぐ。
「五十年前、来年も一緒にという約束が果たせなかったからな」
「……!」
 眼を見張った犬夜叉は、次の瞬間、桔梗の頼りなげな身体を抱きしめていた。
 たとえ相手が覚えていなくても、自分だけはこの約束を守りたいと思った。その想いは、桔梗の想いでもあったのだ。
 約束は五十年という歳月を経て果たされた。
 じっと抱き合う二人の姿を、朧げな蛍明が照らしていた。
「……明日、どうなるかも判らない身だ」
 ぽつりと桔梗が言う。
「それはおれも同じだ」
「だから、今日、会えてよかった」
 犬夜叉は真摯に桔梗を見つめた。
「おまえはおれが守る。絶対にだ。だから、来年も蛍を見よう」
「無理だ。奈落を倒そうが、倒せまいが、来年はもう約束を守れそうにない」
 彼を見上げて淋しげに首を振る桔梗の口許に漂う笑みが、心許なくて、切なくて、犬夜叉は何も言えなくなる。
 再び強く彼女を抱きしめると、彼女も彼を抱きしめ返した。
「犬夜叉」
「なんだ?」
「もし、ここで私がおまえを誘惑したら、どうする?」
 抱きしめる腕を解き、細い肩に手を置いて、犬夜叉は彼女の瞳をじっと見つめた。
「……おまえが本当にそれを望むなら」
 探るように見つめ合う。
 が、やがて、桔梗はふっと吐息をついて彼から眼を逸らした。
「安心しろ。冗談だ」
「おれの眼を見て言え」
 桔梗の本心が知りたくて、犬夜叉は彼女の顎に手をかけ、彼女の顔を自分のほうへと向けさせた。
 いつも本心を覆い隠すうつほのような瞳。
 では、こちらから求めたらどんな色を見せるのだろうか。
「今もし、おれが……」
 口づけを求めたら。
 瞳の色を窺うまでもなかった。
 二人は引き合うように顔を寄せ、眼を閉じて、ごく自然に唇を重ねた。
 触れ合った唇だけが確かな現実のように思われて、それにすがるように、何度も求め合い、互いの心を確認した。
 二人がそれぞれの心に見たものは何だったのか。
 長い口づけのあと、ぐったりと身を寄せる桔梗を抱きとめて、犬夜叉はけだるげに川へ目をやった。
 川面で蛍が乱舞している。

 奈落との闘いにおいて生き残ったとしても、死人が生きているのは自然の理に反するとして、桔梗はおそらく自ら骨と墓土に戻るだろう。
 蛍より儚い女だと犬夜叉は思った。
 無力感にやるせなくなる。
(抱きしめることしかできねえのか)
 もどかしい、だからこそ、桔梗と見たこの光景を、この先、決して忘れないと犬夜叉は無言で彼女に誓った。
 そして来年もきっと蛍を見る。
 たとえ、桔梗がいなくても。

〔了〕

2011.7.22.