徒花
あれから一年以上が経つ。
ふと、一人で歩いていると、頭上の揺れる木立に、足許でなびく草に、無意識に心を奪われている。
目に見えないのに肌で感じる。
“風”の存在を。
この厄介な感情は何だ。
不意に鋭く吹いた風に煽られ、足許の小さな花が花びらを散らせた。
名もない花が散るのを目にし、あの女もこんなふうに消えていったと、殺生丸は胸に鈍い痛みを感じてわずかに眼を細めた。
あの女とはたった一度だけ、関係を結んだ。
激しい渇きを覚えた。それが発端だ。
発情期か、と、殺生丸はわずらわしげに考えた。
女が欲しい。
人間の女はそこいらにあふれているが、食指が動かない。
適当な妖怪の女を探し出すのも面倒だ。
だが、ひとり、思い浮かぶ女がいた。
よく彼の周りに現れる、風使いの女。
あの女に決めた──
囮は自分自身。
殺生丸は辺りに毛皮や鎧を脱ぎすて、上空から発見されやすいように分散して置いた。
風を読むのは何も神楽だけの専売特許ではない。
妖犬の武器のひとつである嗅覚から、殺生丸は神楽までの距離を測り、風の流れで彼女の妖気が移動する方向を予測した。
この空の上を通りかかりさえすれば、神楽は罠にかかるだろう。
そうして、木立の陰に身を潜め、彼は獲物を──神楽を待ち伏せた。
羽根に乗って上空を移動していた神楽は、地上に見慣れたものが落ちているのを見て、すっと空から降りてきた。
(鎧……と、毛皮……? 殺生丸のものだ)
何故このようなものが落ちているのか、腑に落ちず、彼女は彼の姿を探して周辺を歩く。
果たして、彼はいた。
少し離れた木立の陰に。
木の根元に座り、幹にもたれて眼を閉じている、そのあり得ないほど無防備な姿に、神楽の胸の奥が微かにざわめいた。
眠っているのだろうか。
そっと距離をつめ、様子を窺う。
鎧をまとっていない彼の姿が珍しく、艶めかしくも感じられて、神楽は引き寄せられるように彼の傍らに膝をついた。
静かに閉じられた瞼に魅せられて、無意識のままにそっと手を伸ばした。──頬に触れようと。
だが、次の瞬間、素早く腕を押さえられ、神楽は驚愕に眼を見張った。
「……っ!」
掴まれた腕はびくともしない。
言い訳をする時間も、その必要もないようだった。
乱暴なほどの力で腕を引かれ、神楽の躰は殺生丸の腕の中に倒れ込んだ。
「あ……」
「奈落の分身が、こうも簡単に捕まるとはな」
こちらを見据えた殺生丸の口調は淡々としていたが、そこに侮蔑を感じ、神楽は唇を噛んで、己の軽率さを恨んだ。
「しばらく付き合ってもらうぞ」
何を、と問い返す暇もなく、その場に押し倒され、乱暴に小袖の合わせを開かれた。
こぼれ出た豊かなふくらみをなぶられる。
「つっ!」
噛みつくように乳房を食まれ、神楽は小さく呻いてのけ反った。軽く牙を立てられたようだ。
だが、抵抗など無意味だと解っていた。
喉元を這う熱い唇と舌を感じながら、しばらく身を任せていた神楽は、
「殺生丸」
ふと男の名を呼んだ。
彼の動きが止まる。
「口吸いは、しねえのか?」
殺生丸の眼が神楽の視線を捕らえた。
「必要か?」
しごく冷静に問われ、かっと頬が熱くなり、神楽は殺生丸から顔を背けた。
この男に限って、女を抱く行為に甘い感情が伴うはずがない。
「……聞いてみただけさ」
こっちだって、気まぐれで付き合ってやっているのだと神楽は苛立たしげに考えた。
密かに恋う男から道具のように扱われる絶望、だが、そんな行為でも、快楽は神楽の身を満たした。
導かれ、激しく乱れると、神楽はそのまま意識を手放した。
ぐったりと動かない女の衣を形だけ整えてやり、殺生丸は立ち上がった。
「気が向いたら、また抱こう」
去り際に一瞥し、気を失っている神楽にそれだけを告げた。
そこに感情が伴うのか、躰だけの関係が続くのか、これからどうなるかは判らない。
けれど、熱を分け合ったことだけは確かな事実だ。
風が身を包む。
風の感覚に、あの女の肌がよみがえり、殺生丸は眼を閉じた。
あれが発情期などではなかったことは彼自身が知っている。
事実、神楽が風になって以降、女を欲する気持ちは消えた。
代わりに得体の知れない喪失感を得た。
神楽は気づいていないだろうが、あのとき、殺生丸は気を失った彼女の唇を盗んでいた。
彼にとっては気まぐれ以外のなにものでもない、彼女が望んだ、ただ一度の接吻。
失ったものを想うたび、あの接吻を思い出す。
そして、それが答えなのかもしれないと殺生丸は思った。
〔了〕
2011.6.30.