月光

 しくじった。
 夜陰に紛れて、どうにかここまで来ることができたが、もう一歩も動けない身体を恨めしげに見下ろし、神楽は舌打ちをした。
 月が、点々と続く血のあとを朧に照らしている。
 命じられたままに、奈落に敵対する妖怪を始末しようとして、この様だ。
 奈落には何とでも言いわけができるが、このようなことではとても奈落を裏切るだけの力量はないと宣言されたようで、それが悔しかった。
 自由になるための強大な力が欲しい。
 あの男のような……
 ほんのわずかな間、思惟にふけっていた神楽が、ふと、顔を上げると“彼”がいた。
「殺生丸」
 神楽は赤い眼を見張る。
 血のにおいを追ってきたのだろうか。
 だが、相手が奈落ならいざ知らず、自分程度の妖怪など、殺す価値もないと思っているのだろう。
 屈辱を覚え、神楽は唇を噛んだ。
 彼の顔をまともに見ることもできないでいる。
 こんな惨めな姿で、どんな表情をすればいいのだろう。
 そのとき、不意に殺生丸が彼女の前に膝をつき、彼女ははっとなった。
 身をかがめた彼は、うずくまる神楽の足に、おもむろに舌を這わせた。
「……」
 足に、ではない。正確には傷を、血を舐めている。
 驚いて彼を見遣る神楽を見上げた銀髪の妖怪は、降り注ぐ月光をその髪に受け、わずかに唇に残った鮮血を舌先で舐め取った。
 その仕草は不気味なほど妖艶だった。
 ひどく動揺して神楽は彼から顔を逸らす。
 腕を掴まれた。
 今度は腕の傷に舌を這わされる。
 血を舐め取るという、それは妖怪としての本能なのかもしれない。
 けれど、彼の行為に官能的な疼きを覚え、神楽は小さく身を震わせた。
 震えていることを悟られたくなくて、わざと嘲りの言葉を放つ。
「犬だな」
 殺生丸の動きがぴたりととまった。
「舐めるなんて、犬みたいだ。……は、てめえはもともと犬か」
 そこまで言って、凍りついた。
 冷たい瞳が凍えた月のように、彼女を見ている。
 はっとなった。
「せっ──
 血の味がした。
 唇を奪われたと気づく前に、口中に鉄の味が広がった。
──おまえも犬になれ。犬のように這え」
 低く耳元でささやかれ、次の瞬間、突き飛ばされた。
「……っ!」
 精一杯の勇気を振り絞って神楽は殺生丸を睨みつけるが、力の差は歴然としていた。──手負いであることを言いわけにはしたくない。
 隻腕が器用に彼女の小袖を剥ぐ。

 月に狂わされた?
 血のにおいに妖の本性が暴かれた?

 ──どちらでもよかった。
 この男に抱かれることができるならば。
「あ……う」
 神楽は小さく呻いた。
 嫌悪なのか、恍惚なのか、それすら判断ができない。
 瞳を上げると、降り注ぐ月光が視界を白く染めていた。
 まるで、後ろにいる男の髪のような色だと神楽は思った。

〔了〕

2011.1.13.