風の花びら

 深い山中であった。
 その山を流れる渓流の、大小の石や岩ばかりがごろごろと目立つ灰色の河原に、空から舞い降りてきた風使いが降り立った。
「……ふう」
 大きく息をつく。
 奈落から厄介な仕事を命じられ、体力も妖力も、かなり消耗している。
 捨て駒になってもいいというような扱いをされ、それを隠さない奈落に、神楽は警戒心を強くしていた。
 渓谷は、澄んだ冷たい空気に満たされている。
 空は淡く蒼く、ふと、見上げると、はらはらと舞い落ちてくるものがあった。
 白く小さな。
──花びら?)
 風花だ。
 舞い散る風花に瞳を向けたまま、神楽は河原の大きな岩にもたれ、その場に座り込んだ。
(静かだな)
 広い河原の中央を流れる渓流の音、あとは風の音しか聞こえない。
 疲労困憊だった。
 奈落に従うこと、奈落を裏切ること、そんな策謀の日々に疲れたのかもしれない。
 風花に淡く霞むこの美しい景色を、何も考えず、ただ眺めていたかった。
(寒い)
 と、ふと思った。
 春は──自由に空を翔けることのできる春は、いつか、己に訪れるのだろうか。

 いつしか、彼女は眠っていた。
 雪よりも軽く、花びらよりも冷ややかに、眠る神楽の上に、風花はふわふわと舞うように降りしきる。
 岩ばかりの河原も、岩に寄りかかって眠る彼女の姿も、渓流も、山も、風に漂う無数の小さな白い花びらが、淡く儚げに包むようだ。

 ふと、眼を覚ました神楽がはっとする。
 彼女の身体は、見覚えのある大きな毛皮に包まれていた。
「……っ!」
 驚いて身を起こし、振り向くと、視線の先に銀髪をなびかせて立つ彼の姿があった。
「殺生丸」
 岩場に立ち、渓流へ降る風花を眺めていた殺生丸は、唖然と眼を見張る神楽をちらと一瞥し、
「隙だらけだな」
 と言って、視線を戻した。
「無防備すぎる。そんな様では、奈落の寝首を掻くことはできまい」
「て、てめえこそ、ここで何してんだよ。あたしは寒いとか毛皮が欲しいとか言った覚えは──
 神楽は口をつぐんだ。
 寒いと、確かに思ったのだ。
「風花に誘われた」
 神楽の勢いなどどこ吹く風で、殺生丸は淡々と答えた。
 舞い降りてくる雪の花びらに包まれ、ひっそりとたたずむ彼の様子は厳粛で、思わず神楽は目を奪われる。
 殺生丸が、ふと、神楽を振り返った。
「いらなければ、返してもらおうか」
「あ、ああ」
 立ち上がった神楽は、くるまっていた毛皮を手に取って、それを殺生丸へと手渡した。
 受け取り、彼はそれをふわりとまとう。
 一刹那だけ、見つめ合ったような気がした。
「雪の上に、花を散らした」
「え?」
 ぽつりと殺生丸がつぶやいた言葉に、神楽は問うような眼差しを向けたが、そのときにはもう、彼は踵を返し、歩き出していた。
「……」
 呆気ない。
 ため息を洩らし、神楽は彼が去ったほうへ背を向けた。
 と、そのとき、小袖の衿の合わせが緩んでいることに気づき、神楽はそれを直そうと衿に手をかけた。
 何かしら違和感を覚えて、衿元をはだけて確認すると、ふくよかな胸乳の上部に、赤い跡が複数、くっきりと残されている。
(これは……)
 唇の跡だ。
 強く吸った──殺生丸の──

 “雪の上に、花を散らした”

 全身がかっと熱を帯び、真っ赤な顔で、神楽は彼の去ったほうを思いきり睨んだ。
「あっ……あの野郎……!」
 と同時に、このようなことをされても眼を覚まさなかった己自身に呆れもする。
 神楽はもう一度、己の白い肌に散らされた赤い印へ、そっと視線を落とした。
 次に出会ったときには、どんな顔をすればいいのだろう。
(あいつはきっと、何事もなかったように涼しい顔をしているんだろうけどな)
 許されるならば、同じ印をあの男に返してやりたい。
 もっとたくさんの花びらを、あの男の肌に降らせてやりたい。

 神楽は扇を開き、一閃させた。
 深い山の渓谷を一陣の風が吹き渡り、無数の風花が、花吹雪のように大きく舞った。
 まだそう遠くへは行っていないだろう殺生丸に、風が運ぶ花は届いただろうか。

〔了〕

2014.2.14.