無音の言霊

 背後の気配の、二つの足取りが重いことに気づき、殺生丸は立ち止まって後ろを振り返った。
 連れの邪見とりんが物言いたげに、もじもじしている。
「どうした」
「殺生丸さま、りんが腹が減ったと申しておりますが」
 おずおずと申し出た邪見の言葉に、それで? というように、殺生丸が微かにうなずく。
「向こうに川がありまして。少しばかり、魚を採ってきても……」
「行け」
 と殺生丸は短く答えた。
「ええと……では、殺生丸さまは……」
 問うような眼をする従者に、殺生丸は周囲を見渡し、丘の上にそびえる大樹を見遣った。
「あそこで待っておられるのですな」
 邪見はりんを振り返る。
「行くぞ、りん。お許しが出た」
「行ってきます」
 りんが嬉しそうに殺生丸に言い、二人は川へ向かって毬のように駆けていった。
「邪見さま、すごーい。殺生丸さまの言いたいことが、全部解るんだね」
「長くお仕えしていれば、当然のことだ」
 そんな二人を見送ってから、殺生丸は大樹のほうへとゆっくりと歩を進めた。

(ふーん……)
 高くそびえる樹の枝の上に、身を休ませる者がいる。
 一行のやり取りは風に乗ってここまで聞こえていた。
 他人事とばかり、足をぶらぶらさせて高みの見物を決め込んでいた神楽の動きが、ふと止まった。
(ってことは)
 はっとしてわずかばかり身を起こす。
 樹上でひと休みしていた行為に、それ以上の意味はない。が、
(待て……ちょっと待て)
 近づいてくる。
 さらに彼が。
 今さら動くことは、却ってはっきりと自分の気配を教えることになる。それに彼女がここにいることに、彼が気づいていないはずがない。
(なるようになれ、だ)
 神楽はそのまま、再び大樹に身をもたせかけた。
 そうこうしているうちに樹の下までやってきた殺生丸が樹の根元に腰を下ろした。
「……」
 動くに動けない。
 神楽はそっと下の様子を窺った。
 地上には、いつもと変わらぬ、涼しい様子の彼がいた。

 何となく扇を揺らし、地上へ風を送った。
 その風に煽られて、長い銀髪がゆるやかにそよぐ。
 煽られるままに少し顔を上に向けた彼を見て、神楽は胸がざわめくのを覚えた。
 思い切って、木の葉をちぎり、下へ落とした。

 ふうわり ふうわり

 ゆっくりと舞いながら落ちてきた木の葉を、待ち構えていたように、殺生丸は掌で受け取った。
 それを大事そうにそっと握りしめてから、ふっと息を吹きかけて上へと返す。
 葉はうまく神楽の風に乗せられて、ゆらゆらと空中を漂い、樹上の彼女のもとまで運ばれてきた。
 故意なのだろうか。それとも、偶然?
 神楽は木の葉を握りしめ、じっと上から樹の根元にいる殺生丸を見つめる。

 ──あいつが立ち上がったら──

 不意打ちのように、殺生丸が樹上を仰いだ。

 ──あの女が何かを仕掛けてきたら──

 何かが起こるかもしれない。


「殺生丸さまー」
 呼ばれて、顔を上げると、食事を終えたらしいりんが駆けてきた。
 そのあとを邪見がせわしなさげについてくる。
「見て、殺生丸さま。きれいな花が咲いていたの」
 りんが掲げた花を見て、ふと、殺生丸の瞳の表情が動いた。
「どこに咲いていた?」
「川のそばに。でも、花はどこにでも咲いてるよ」
 周囲を見廻すと、この辺りにも控えめな野の花がまばらに咲いていた。
 立ち上がった殺生丸は腕を伸ばして花を一輪摘み取ると、先程まで座っていた大樹の根元にそれを置いた。
「邪見さま。殺生丸さまはせっかく摘んだ花をどうしてあそこに置いたのかな」
「あー、そうだな……おお、そうだ、きっと、場所を貸してくれた木の神への礼なのだ」
「そうなんだー」
「行くぞ、邪見、りん」
 さりげなく樹上を一瞥して、殺生丸が身を翻すと、邪見とりんも彼を追いかけていった。

 辺りには静けさが戻り、花は、風の訪れを待っている。

〔了〕

2011.9.16.