よこしまな約束
「情報買わねえか?」
不意に挑発するような声を背後から投げつけられ、殺生丸は振り向いた。
崖の上に立つ彼の後ろに、どこからともなく現れた風使いの女がいる。
「興味はない」
「妖怪たちが争う様を見に来たんだろう? てめえは平気でも、連れの二人が巻き込まれねえとも限らねえしな」
崖から見渡せる眼下の岩場では、奈落の瘴気に追われた巨大な妖怪が二匹、縄張りを争って殺し合いをしている。
殺生丸は単身、その様子を見に来ていた。
「気になるんじゃねえか? 奈落の動向」
「言ったはずだ。奈落の動向などに興味はない」
そのとき、神楽のものではない風が走り、二人が立つ崖が一瞬にして崩れた。
あっという間もない。
しかし、そんなことで動じる二人ではないのも事実だった。
「あーあ」
神楽が他人事のように吐息をつく。
争う妖怪たちの妖気が大気を切り裂き、その直撃を受けて崩れ落ちた崖の下で、殺生丸と神楽は砕かれた大小の岩の間に閉じ込められてしまった。
崖下に落下した二人は、神楽が操る風が防壁となり、かすり傷ひとつ負っていない。
だが、四方も頭上も岩。
どうにか立てるだけの空間はある。
「どーすんだよ。閉じ込められちまって。ま、あんたなら簡単に抜け出せるだろうけど」
「抜け出したければ、自分の風で岩を斬れ」
そっけない彼の言葉に、神楽はやれやれといった表情で岩の隙間から外の様子を窺った。
「あたしはあいつらのどちらが勝つのか、見極めてこいとの命令を受けてるからね。ここだと奴らの殺し合いのとばっちりを受けることもなく、決着を待てるだろうさ」
二匹の妖怪を闘わせて、勝ったほうをまた奈落が何かの道具にするのだろう。
「おまえは、いつ奈落から自由になる?」
ふと殺生丸が言った言葉に唖然として、神楽は彼を顧みた。
「今すぐ解放されてえよ!」
そのために情報を売ろうとし、殺生丸を動かそうとしたのだ。
「では、待とう」
岩に閉ざされた薄闇の中、殺生丸がゆっくり神楽に近づきながら言った。
「待つって、何を」
「奈落から心臓を奪い返すのだろう?」
神楽は軽く眼を見張る。
この男が、そんなことに興味を持つなんて。
だが、彼女の驚きに構うことなく、すぐ目の前にある彼の指が彼女の頬をすっと撫でた。
「次は奈落から解放されたという情報を持って来い。それなら、買ってやらないこともない」
「あ……」
暗い岩室の中で、外からわずかに洩れてくる陽の光が、彼の銀色の髪に淡く光を点らせたように見えた。
殺生丸がさらに彼女に身を寄せる。
神楽は動くことができなかった。
追いつめられ、思わず眼を瞑ったとき、彼の唇が彼女の唇を捉えた。
女の身体を岩に押しつけ、彼は彼女の唇を、ひたすら貪ることに専念した。
ゆっくりと静かに、だが、何かの果実を味わうような執拗さをもって。
この男は、涼しい顔をして、このように官能的な口づけをどこで覚えてきたのだろうと、他人事のように神楽は考えた。
こんな陶酔感を覚えてしまったら、ますます彼から離れることが難しくなる。
全身が甘く痺れたようになって、指一本動かせず、けれど神楽は熱に浮かされたように、ただ殺生丸が求めるままに、それに応えることに夢中になった。
「──待つ。それも悪くない」
長い、熱っぽい口づけを交わしたあと、そのような状況にしては冷静すぎる声で、殺生丸は神楽の耳元にささやいた。
神楽のほうは、息が乱れて返事もできないというのに。
ぐったりと背後の岩に身をもたせかけようとすると、いきなり殺生丸に腕を掴まれ、引き寄せられた。
驚いて眼を見張ると、その岩が外部からの力で粉々に破砕され、飛び散った。
二人の頭上に太陽がよみがえる。
「決着がついたようだな」
争っていた二匹の妖怪のうちの一匹が倒され、その振動で二人を閉じ込めていた岩が崩れたようだ。
呼吸を整える神楽を無視するように、殺生丸はその場から歩き出した。
「おい、殺生丸!」
足をとめて殺生丸は彼女を振り向き、だが、そうなると、神楽のほうが言葉を見つけられずにたじろぎを覚えた。
どう確かめればいいのだろうか。
先刻の出来事と、彼が提示した約束を。
「……買うんだろうな、本当に」
「何のことだ?」
「ふざけんな! あたしは──」
「続きをしてほしければ、情報を持ってくることだ」
先程の濃厚すぎる口づけがよみがえり、かっと神楽の頬が熱を持つ。
自由になってみせる。必ず。
そして、殺生丸に自分という存在を認めさせる。
彼女は髪に挿した羽根を抜き、風を操って空中へ浮かび上がった。
「約束したからな。そのときになって、尻込みするなよ」
精一杯の憎まれ口を叩いて、空へと舞い上がる。
縄張り争いで勝利した妖怪へは一瞥もくれず、彼から逃げるように去っていく風使いを、殺生丸はじっと地上から見送っていた。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、殺生丸の口許が、微かに綻んだ。
〔了〕
2011.12.12.