紫陽花の章
「弥勒が見初められたあ──?」
思わずかごめをまじまじと凝視した犬夜叉は、素っ頓狂な声を上げた。
「弥勒が見初めた、の間違いじゃねえのか?」
「しぃっ、声が大きい、犬夜叉」
かごめは、辺りを見廻し、珊瑚がいないことを確認してから、
「弥勒さまから見初めるわけないでしょ。ちゃんと珊瑚ちゃんっていう将来を約束した人がいるんだから」
声をひそめ、小さくため息をつく。
「で、どこの誰だよ? 弥勒を気に入ったなんていう粋狂な女は」
「紫ちゃんよ」
「ゆかり?」
「ほら。五日前、ここへ来る途中、助けてあげた女の子」
軒のてるてる坊主が雨に打たれて揺れている。かごめに教わり、七宝が作ったものだ。
「あの子、この雨の中を今日も弥勒さまに会いに来てるのよ」
活気あふれる門前町であった。
その町の中心となる大きな寺に宿を借りている犬夜叉たちの一行は、連日の五月雨に旅を足留めされていた。
この寺の住職は夢心の古い知己であるという。
天候などお構いなしの犬夜叉を、せめて小雨になるまでと説得したものの、いささか困ったことが起きていた。
「弥勒さまがしっかりしててくれれば、こんなに悩むこともないんだけど」
親友の胸中を思い、かごめは再びため息をついた。
ここへ来る途中、通った川は長雨で増水し、橋が流されていた。
橋杙だけが無残に残された川の前で立ち往生していた娘と老女を助けたことが、まさか、こんな事態に発展するとは。
「どうされました?」
と真っ先に声をかけたのは、当然、かの法師。
透きとおるほどに色が白い娘の困惑した様は可憐であり、そんなふうに困っている娘を弥勒が放っておくはずがないことも、当然といえば当然だった。
通り合わせた犬夜叉たちもまた、川を越えねば今宵の宿と決めた寺へ着けず、困っている者に手を貸すことはやぶさかではない。
実際に娘と老女を背負って川を渡してやったのは犬夜叉であり、雲母であったのだが、娘にとってそれは大した問題ではなかったらしい。
笠の下から涼やかに微笑む青年法師を瞳に映したとき、眼を見張った娘の頬がさっと朱に染まったのをかごめはよく覚えている。
途切れることのない雨の音は平淡だった。
犬夜叉やかごめとは別室で、珊瑚は黙々と武具の手入れを行っていた。
「珊瑚ちゃん、います?」
障子の向こうからひょこっと顔を出した娘を、珊瑚は複雑な面持ちで振り返る。
「あんた、雨降ってるのに、今日も来たんだ……」
「はい。みなさんとお知り合いになれたのが嬉しくて」
名を紫というその娘は、清げな、人懐っこい笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
この門前町で大きな造り酒屋を営む長者の一人娘だと、供の老女が言っていた。
「あの、弥勒さまはどちらに?」
「和尚さまのところじゃないの?」
控えめな紫の問いに、珊瑚はつっけんどんに答えた。
この娘の目的が弥勒であることは明白だったが、一行の誰に対しても親しげに振る舞う紫の態度は、珊瑚にとっても必ずしも心証の悪いものではなかった。
屈託がなく、天衣無縫な紫をむしろ羨ましいとすら思う。
(法師さまのそばにいるべき女は、こんなふうに無邪気で明るくて、誰にでもやさしく笑っていられるようなひとかもしれない……)
それがある種の嫉妬であることを、心のどこかで自覚していた。
弥勒に対しても、紫に対しても、いつものように強く出ることができない自分が歯がゆい。
と同時に、傷ついた彼をやさしく包み込めるのは紫のような娘ではないかと、紫こそ、彼に平穏を与えるに相応しいのではと珊瑚は考え始めていた。
自分ではいつも彼に負担をかけるばかり。そう思うと、たとえようもなくつらかった。
──法師さまに必要なのは、あたしじゃない──
「おや、紫どの。来ていらしたのですか」
不意に弥勒の声が聞こえ、珊瑚は現実に引き戻された。
「はい。弥勒さまや珊瑚ちゃんたちからいろいろ珍しいお話を聞くのが楽しくて。今日もお酒を持ってきましたよ」
川を渡れず難儀していたところを助けてもらったその日のうちに、礼を述べに酒を持参した紫は、法師が酒を好むと知ると、土地の銘酒を手土産に一行の滞在する寺を毎日訪れた。
部屋に入った弥勒は珊瑚の隣に腰を下ろすと、小さく苦笑してみせた。
「それはありがたいですが、酒は売り物でしょう? お父上にお叱りを受けますよ」
「父も承知しております。それに、父はここの和尚さまとは懇意ですから」
にこやかに言葉を交わす法師と紫を前に、珊瑚は居心地の悪さを感じていた。
「──瑚……珊瑚」
自分を呼ぶ声にはっとする。
「えっ? なに?」
「どうしました? 顔色がすぐれんが」
「ううん、別に……」
常ならここで嫌味のひとつでも言うか、やきもちを露に不満げな表情を浮かべるはずの珊瑚が心ここにあらずといったていで、弥勒は物足りない様子である。
「ごめん。あたし、ちょっと失礼する。紫さん、ゆっくりしてって」
「珊瑚?」
いたたまれなかった。
不審げな弥勒の声に応えることなく、珊瑚は立ち上がり、部屋を出た。
寺の渡り廊下の軒にも、七宝が作ったてるてる坊主が揺れている。
それを眺めながら、ふと、法師のいない旅路を珊瑚は思った。
それでも、法師さまが幸せならあたしは──
「珊瑚」
雨音に彼の気配も足音も消されていたのだろうか。
咎めるような声に珊瑚が驚いて振り向くと、手を伸ばせば届く距離に弥勒が立っていた。
「紫さんは?」
「かごめさまの部屋にお連れしました」
「だって、紫さんは法師さまに会いに来たんだよ?」
「おまえはそれで……平気なのか?」
珊瑚は弥勒から眼を逸らした。
「紫さんって、可愛いよね」
つぶやくように発せられた言葉に法師はわずかに眉をひそめる。
「奇麗で明るくて気立てもよくて、裕福な商家の娘さんで。あんな人と一緒になったら、きっと幸せだよ」
「……何が言いたい?」
弥勒の声は静かだったが、珊瑚を怯えさせるには充分な響きを持っていた。それがどんな表情で放たれたのか、確かめるのが怖い。
彼の眼を見てしまえば、きっと、あとの言葉を続けることができなくなる。
「雨……雨が上がらなくても、明日あたりここを発とうって犬夜叉に言おうと思ってる。でも、法師さまはこのままここに残ったほうがいいんじゃないかって思うんだ」
「何故?」
「和尚さまは親切だし、法師さまとも気心が知れてるだろう?」
「そんなことを訊いているのではない」
うつむく珊瑚の耳に届く弥勒の声に、少しだけ厳しさが含まれた。
「何故、私だけ置きざりにされなければならんのだ」
「だって……紫さんは法師さまを好きなんだよ……?」
「だから?」
いささかも揺るがない弥勒に珊瑚は言葉をつまらせる。
視線を泳がせ、境内の至る所に雨に打たれて咲き乱れている紫陽花の群れに、なんとなく目をやった。
「あの約束、なかったことにしていいよ」
「……」
「風穴、もう使わないでほしい」
抑揚のない、低い声音で。
「でも、いざ戦闘になると、法師さまの風穴に頼ってしまうことが多いから」
珊瑚はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「絶対に奈落を倒す。あの約束の代わりに法師さまに誓う。だから、法師さまはここで待っていて」
「何もせずに、ただ呪いが解けるのを待てと? そうして、風穴が消えたら、おまえはどうする」
「あたしは……」
法師さまが呪いから解放されて幸せでいてくれるなら、それでいい。
ただ遠くから想い続けることだけを許してもらえたら。
「たぶん、退治屋の里に帰る」
「理不尽な要求だけ押しつけて、私のもとには戻ってこないつもりか」
「だって風穴がなくなれば法師さまは自由だ」
あの約束が、もし、法師さまを束縛しているのなら──
「……風穴に生命を奪われる代わりに、おまえが私を殺すというのか」
押し殺したような声で吐き捨てると、渡り廊下から、弥勒はすっと庭へ下りた。
「法師さま!?」
外は本降り。
たちまちのうちに、緇衣が、紫の袈裟が、雨を含んで重くなる。
「法師さま!」
裸足のまま雨の中をどんどん進む法師のあとを、珊瑚は無我夢中で追いかけた。
「法師さまが苦しむ姿、見たくないんだ。安らかな場所で自由に生きてほしい。それだけなの!」
立ちどまった弥勒に触れようとして、伸ばした指先が躊躇いに震えた。
広い境内を覆いつくすように降る雨が、二人の影を墨絵のようにけぶらせている。
珊瑚に背を向けたまま、弥勒は横顔を見せた。
「おまえは何も解っていない」
濡れた前髪が彼の表情を隠しているが、その頬を伝う雨粒が涙のように見えて、珊瑚はびくりとした。
「私は自ら望んで闘いに身をおいている。私自身の呪いを解くためだけではない。おまえとともに在りたいからこそ。なのに、何故、眼をそむける?」
けぶる雨の中にたたずむ法師は珊瑚がこれまでに見たこともないほど儚げであった。
「あの約束は生半可な気持ちで告げたのではない。何故、それが解らん」
「法、師さま……」
珊瑚はおずおずと手を伸ばし、法衣に触れた。
「でも、法師さまをこれ以上生命の危険にさらしたくないのは本当だよ。そう考えることすら、あたしは現実から眼をそむけてる?」
濡れそぼった法衣の背にそっと額を押し当てた。
されるがままになっている彼の胴に、遠慮がちに両手を廻す。
「惚れたおなごに一方的に守られることがどれほどの屈辱か、おまえには解らんだろうな」
法師の左手がさりげなく数珠と手甲に覆われた右手の手首から肘にかけてを撫ぜたことに、珊瑚は気づかなかった。
「珊瑚。もし、私がおまえに、戦線から離脱してどこか平和な村に嫁にいけと言ったら、おまえは素直にそうするか?」
「──絶対しない」
「なら、同じことを私に要求するな」
己の身に巻きつけられた腕を掴んで解くと、法師は娘に向き直り、やはり儚げに微笑を浮かべた。
「私を殺すことができるのはこの世でただ一人。おまえだけだ」
「……っ」
とくんと心臓が鳴った刹那、取られた腕を引かれ、次の瞬間、珊瑚は法師の腕の中に収まっていた。
ぐっしょりと雨を含んだ衣を通しての抱擁はあまり心地がいいとはいえなかったが、冷たく濡れそぼった衣の向こうから、赤裸々な互いの熱が伝わってくるような想いがした。
濡れ鼠になった二人を取り巻くように方々に群生している紫陽花は今が盛り。絶え間なく降りそそぐ雨を受け、そのたびにわずらわしげに揺れている。
「たとえ色が変わっても、私は同じ花を愛し続けますよ」
「それって、心変わりしても、ってこと?」
「ああ。おまえが心変わりしても、ずっとおまえを想い続ける」
「心変わりする可能性があるのは法師さまのほうだろう? あたしだって、法師さまが紫さんか、他の誰かを好きになっても、ずっと法師さまを想ってるって決めてたんだから!」
「じゃあ、なんで別れを切り出したりしたんです」
「え、えっと、それは……」
珊瑚はもじもじと身をよじらせたが、抱きしめる弥勒の腕は少しも緩むことがなく、恥ずかしさを紛らわせようと彼女は熱を持った頬を法衣の胸元に押しつけた。
「だって、紫さん、女のあたしから見ても可愛いし。法師さま、紫さんには色目使わなかったし」
「色目?」
「紫さん、五日もここに通ってきてたのに、法師さま、いつも言ってるような戯れ言をあの子には言わなかったから。だから紫さんのこと、本気で好きになったのかなって」
「……やれやれ」
法師は呆れたようにため息をついた。
「おなごに声をかければ怒る。世辞を言わなければ疑うんですか、おまえは」
「だ、だって……」
「おまえが元気がない様子だったので、それどころではなかったんですよ、私は」
「そうなの?」
思わず顔を上げると、不思議な色を湛えた弥勒の瞳が彼女を見下ろしていた。
「明日、発ちましょう。言っておくが、私は闘いもおまえも放棄するつもりはありませんよ」
決然とした弥勒の言葉に、ぎこちないながらもようやく珊瑚はほっとしたように表情を緩めた。
「うん。とりあえず着替えなきゃ、法師さま。二人も風邪ひいて寝込んだりしたら、犬夜叉にどやされる」
「この寺、湯殿ありましたよね。珊瑚、一緒に入りましょうか」
「嫌!」
肩を抱き寄せようとしたら手をはたかれ、苦笑した法師は手をつなぐことで妥協した。
「全く。おまえにはいつも振り廻される」
「法師さまがあたしを振り廻してんじゃないか」
「はいはい。そういうことにしておきましょう」
雨音が踊ってる。
境内のあちこちで雨粒を受けて揺れる数多の紫陽花たちが、そんな二人をくすくす笑いながら見送っているようでもあった。
〔了〕
2008.7.29.
(橘諸兄)