紅花の章

 あんな男、早く見限ってしまえばいいのに。

 今日も今日とて、垣根に背を預け、若い娘たちの華やいだ声と笑顔に囲まれている有髪の法師の姿を横目に見遣り、蘇芳は心の中で毒づいた。

 最初は特に興味もなかった。
 異国から来たという奇異な格好をした巫女と、五十年も封印されていたという半妖が村の重鎮である楓の家を頻繁に出入りするようになっても、それは彼の生活に何の変化ももたらさなかった。
 やがて、旅に出ては楓のところに戻ってくる異国の少女と半妖の少年に小さな妖狐が加わり、有髪の法師が加わっても、彼にとってはそれほどの意味をなさなかった。
 十五歳の蘇芳は彼らと同年代だったが、巫女は何やら忙しそうだったし、半妖は自分から村の人間と係わりを持たない。また、仔狐の遊び友達は子供ばかりだった。
 蘇芳よりやや年上と思われる法師のみが、村人との交流をそつなく行っていたが、村にいるときの法師はたいてい若い娘と一緒であるため、蘇芳と法師との接点は皆無に等しかった。

 そう、あのときまでは──

 そんな風変わりな一行に、娘が一人、加わった。
 美しい娘だと思ったが、それだけだった。
 いつも背に負っている大きな得物が目を引くが、その出で立ちはそこらの村娘と何ら変わることはない。
 蘇芳も最初は、あの一行に仲間が一人増えた、くらいにしか思っていなかった。
 だが、気づいてしまったのだ。
 村娘と戯れている法師の姿を、少し離れたところからじっと見つめている、どこか淋しげな彼女の表情に。
 はっとした。
 いつも凛とした気をまとっているその娘が、野に咲く花のような可憐さを持っていることに初めて気がついた。
 楽しげに語り合う法師と村の娘たちから諦めたように視線を逸らした娘は、ため息をひとつつくと、踵を返した。そして、楓の小屋のある方向へ向かって歩き始める。
 そんな彼女の様子が目に焼き付いて離れなかった。

 娘が珊瑚という名であることを、楓から聞いて知った。
 法師の噂は、すでに同村の娘たちから嫌というほど聞かされている。
 すぐ近くに住んでいる同い年の藍などは、相当法師に入れ込んでいるらしく、畑仕事をする蘇芳にまつわりついてきては、しょっちゅう法師の噂話に花を咲かせる。
「……でね、弥勒さまったらそんなこと言うのよ」
「ふうん」
 法師の噂話などに興味はなかったが、藍のおかげで、あの半妖の一行が村へ戻ってきたときは逸早くその事実を知ることができた。
 それは、珊瑚がこの村へ戻ってきたことを意味するのだ。
「じゃあ、法師さまたちは昨日から楓さまのところに戻っているのか」
「そうよ。あの巫女さまの御用でね、また三日ほど、この村に滞在するみたい」
 蘇芳は畑仕事がひとくぎりついたところで、鍬を持つ手を止めた。
「珊瑚さん、元気かな」
「元気じゃないの? ねえ、それよりさ、蘇芳──
「おれ、ちょっと行ってくる」
 蘇芳は手拭いで額の汗を拭くと、畑のわきに鍬を置き、藍にちょっと微笑んでから、楓の小屋へ向かって駆け出した。
 その場に取り残された藍は、呆然と立ちつくす。
「何よ、珊瑚さん、珊瑚さんって。蘇芳の馬鹿。鈍感!」

 彼女はいつも、あの法師と、法師に群がる村娘たちを遠目に見つめていた。
 楽しそうな法師の様子にやきもきしているのが解る。
 だが、そんな彼女を見つめる自分の視線に、彼女はちっとも気づいてくれない。
 だから、すれ違いざまにわざと、山で採ってきた山菜を入れた背負籠を道に落とし、彼女の気を惹いたことがある。
 道にまき散らしてしまった山菜を、彼女は一緒になって拾ってくれたっけ。
 初めて彼女の笑顔を見た瞬間だった。

「珊瑚さん」
「あ、蘇芳。久しぶりだね」
 それから、彼女は蘇芳の顔と名前を覚えてくれた。
 彼女がひとつ年上であることも知った。
「いま、時間ある?」
「いいよ。これ、干し終わったら手が空く」
 まだまだ彼女のことは何も知らないけれど、これから、少しずつ知っていけばいい。
 蘇芳は洗濯物を干す珊瑚を手伝い、それが終わると、彼女を野に誘った。
 珊瑚と肩を並べて村外れの野に向かう途中、垣根にもたれて村娘に囲まれている法師が目に入り、無性に腹が立った。
 珊瑚も気がついているはずだが、彼女はそちらを見ようともしない。
 ──珊瑚さんは、なんであんな男がいいんだろう。
「ねえ、珊瑚さん」
「なんだい、蘇芳?」
「おれ、珊瑚さんに渡したいものがあるんだ。受け取ってくれる?」
「へえ。なんだろ」
 法師のせいだろう、少し強張った表情をしていた珊瑚の瞳に、年頃の娘らしい好奇心のようなものがちらと浮かんだ。
 その無垢な笑顔を見るだけで、蘇芳は幸せな気分になるのだった。

 季節の花々が彩る野に蘇芳と並んで腰を下ろした珊瑚は、彼が取り出したものを見て、驚いた顔を見せた。
「これ──
「うん、これ。珊瑚さんにあげたいもの」
 それは、鮮やかな色をした紅を入れた紅皿だった。
「蘇芳。これ、もしかして、本紅じゃないの?」
 混ぜ物が一切されていない本紅は非常に貴重な品として、相当の値がつく。
 とても庶民の手に入る代物ではない。
「そう、本紅。さすが、珊瑚さん。よく判ったね」
「よく判ったねって……あんた、これをどこで手に入れたのさ。まさか、人に言えないようなことしでかしたんじゃないだろうね?」
 真面目な顔をして詰問する珊瑚を、蘇芳は好ましいと思う。
 やましいことは何もないのだと珊瑚を安心させるように笑顔を作り、紅皿を彼女の手に持たせようとしたが、珊瑚は頑として受け取ることを拒否した。
「おれの母親、若い頃、紅花くれない摘みの仕事をしてたんだ。そんな関係でさ、昔、破格の値で分けてもらったんだって」
「破格ったって、相当値が張っただろう? おまけにあんたの母上のものじゃないか」
 珊瑚の瞼と同じ色。
 蘇芳がこれに興味を示したとき、彼の母親は、おまえの生涯の伴侶となる人に、と言って、この紅皿を蘇芳にくれた。
 もともと、そういうつもりで手に入れた紅だったらしい。
「おれがもらった。だから、おれの自由にしていいんだよ。おれ、珊瑚さんにあげたいんだ」
「こんな高価なもの、もらうわけにはいかないよ。それに、あたし、紅とか引かないし」
 形のいい唇に指先で触れながら戸惑う珊瑚に、蘇芳は人懐っこい笑みを洩らし、
「つけてるじゃないか。ここ」
 と、自分の瞼を指差した。
「あ。で、でもさ。これはそこらで売ってる安物で……」
「唇にはつけたことない?」
「うん」
「じゃあさ、珊瑚さんの唇に、この紅、塗ってみてもいいかな」
「えっ? あの、駄目だよ、蘇芳。そんなの、あたしには勿体ない」
「いいじゃないか。これ、珊瑚さんにあげるんだから。珊瑚さんがこの紅を引いたところ、おれ、見てみたい」
 いつになく強気に出る少年に、何と言って断ろうかと珊瑚が躊躇したとき、背後からすっと伸びてきた腕が、彼女の左肩から右肩に巻きついた。
「駄目ですよ」
 もう片方の掌が彼女の口を覆っている。
 その手甲と数珠を確認するまでもなく、珊瑚にこんなことをする命知らずな男はただ一人である。
「ほっ、法師さま!?」
 口を覆う手を押しのけて、珊瑚は頓狂な声をあげた。
「珊瑚は私の妻になるおなごですから、他の男には触らせません」
 冗談めかして言っているが、弥勒のこと、どこまで本気なのか判らない。
 気配を消して珊瑚のあとをつけ、今までの珊瑚と蘇芳の会話を盗み聞いていたのだろうか。
 驚いた珊瑚が後ろへ首を廻そうとすると、そこにあった法師の顔に唇が触れそうになり、慌てて顔を前へ戻す。
「ねっ? さーんご」
 法師のほうは意に介することもなく、珊瑚に頬をすりよせた。
「ちょっと、法師さま、やめてよ。そっ、それに、そんなことわざわざ言わなくても」
「別に隠すことではないでしょう」
「だからって吹聴して廻ることでもないだろう?」
 いつになるか判らないことなのに……と珊瑚は口の中でごにょごにょとつぶやく。
「だって、自慢したいじゃないですか。珊瑚は私のものなんですよ、って」
「もっ、ものって──
 あたふたと視線を泳がせると、唖然としている蘇芳と眼が合い、珊瑚は恥ずかしさで真っ赤になった。
「それに、吹聴なんかしてませんよ? ただ、会う人ごとに話しているだけで」
「人と会うたびに話してるの?」
「いけませんか?」
 拗ねたような声音に羞恥を覚え、珊瑚は強引に肩に巻きついた弥勒の腕を振りほどいた。
「だいたい、なんで法師さまがここにいるの!」
「珊瑚の手が空くのを朝からずっと待っていたんですよ? なのに、おまえときたら」
 弥勒はそこでわざとらしくため息を吐く。
「私をほったらかしにして、他の男と逢い引きするなんて」
「あっあっ、逢い引き……?」
 珊瑚がそんなつもりではないことは、もちろん、弥勒は百も承知だった。
 しかし、この少年の目がずっと珊瑚を追っていたことも、随分前から知っていた。
「あの……珊瑚さん」
「あ、ああ、ごめん、蘇芳。なに?」
「本当なのか? その、法師さまと夫婦になるって……」
「……う、うん」
 さっと耳まで染めた珊瑚が、ややうつむき加減にうなずく。
 恥ずかしそうに微笑む彼女が、あまりにも綺麗で、幸福そうで──蘇芳の胸はひどく痛んだ。
「そうか……」
 弥勒が蘇芳の手の中にある紅皿に視線を向けた。
「蘇芳。その紅は、おまえだけの大切な人のために、取っておきなさい」
「……」
 無言でうなずいた蘇芳は、眼を伏せたまま立ち上がると、法師と珊瑚に軽く会釈した。そして、その場から逃げるように、不意に駆け出した。
「あっ、蘇芳!」
「そっとしておやりなさい、珊瑚」
 蘇芳を追おうと立ち上がりかけた珊瑚の手首を弥勒の手が掴んだ。
「でも、なんだか様子がおかしかったよ」
 法師は静かに微笑んだ。
「人間、誰しもつらいことを乗り越えて成長していくものなんです」
「蘇芳は……つらいの?」
「ああ、やはり、珊瑚は気づいてなかったのだな」
 ひどく心配そうな顔つきになる珊瑚をちらりと見遣り、弥勒は蘇芳の駆けていったほうへ顔を向けた。
「彼はひとつ大人になったんですよ」
 失恋を経験して。
「……?」
「心配はいりません。おまえは知らなくていいことだ」
 それでも不安げな珊瑚の頭をふわりと撫で、弥勒は穏やかに微笑した。

 次に会ったときには、笑っておめでとうを言おう。
 あなたが好きだから。
 あなたの笑顔を見たいから。
 けれど、あなたが誰を想っていようと、誰の妻になろうと。
 おれがあなたを想うこの心は、おれのものだから。
 遠くからそっとあなたを想って、あなたの幸せを願っているよ。

〔了〕

2007.9.14.

よそのみに 見つつ恋ひなむ紅の 末摘む花の色に出でずとも
(作者未詳)