山萵苣の章

 その男を見た知左ちさは、一瞬、息がつまったような想いで眼を見張り、小さな悲鳴を洩らした。
 法衣姿の男の身体にはあちこちに裂傷が走り、血が滲んでいる。
 そして、知左は彼に見覚えがあった。
「みろ、く……?」
 街道から逸れたひと気のない森に続く道に倒れていた青年は、間違いなく、弥勒法師その人だ。
「弥勒の旦那!」
 駆け寄った知左は彼を抱き起こした。
 何があったのだろう。
 まだ朝靄が漂うこの時刻、こんな大怪我をして。
 彼を、それもこんな状態の彼を放っておくことなどできはしない。
「旦那。弥勒の旦那、あたしが判る?」
「さん……ご……」
 弥勒がつぶやいたその言葉が何を意味しているのか判らぬまま、知左は、朦朧とした意識の法師に肩を貸し、立たせようとする。
「しっかりしてください」
「さんご……」
 おぼろげに開かれた弥勒の瞳が知左を映した。
「旦那、あたしを覚えてる?」
「……白、妙……?」
「少しだから、頑張って歩いて。あたしの家に行くよ」
「おまえは……何故、おまえがここに……?」
「あたし、この村に住んでるんだ」
 よろけながら、知左はなんとか弥勒を自宅へ運び込む。
 自らにかかる彼の重みが嬉しくもあり、哀しくもあった。
 この二年半、彼を忘れたことはない。
 十四で遊里に身を沈め、今年、十八になる。
 弥勒は、そんな彼女の初恋の人であり、過去に愛したただ一人の男であった。
 家に着くとすぐに気を失った弥勒を、彼女は献身的に介抱した。
 薬の知識などはなかったが、彼を夜具に寝かせ、土に汚れた手足や顔を拭い、水に浸して固く絞った手拭いを熱を持った額にのせて、彼の意識が戻るのを待った。
 胃にやさしい食べ物も用意しておいたほうがいいだろう。
 そうして、半日が過ぎた。

 珊瑚たちが弥勒とはぐれたのは、突然出くわした妖怪との戦闘の最中だった。
 妖怪は、巨大な猛禽の群れだった。
 弥勒はバランスを崩し、崖から落ちたのだ。
 それを遠目に目撃したのは七宝だけで、離れて闘っていた犬夜叉とかごめ、そして雲母に乗って空中にいた珊瑚が気づいたときには、かなりの時間が経過していた。
 崖の下には錫杖だけが残されて、弥勒の姿は消えていた。
「おらがすぐに弥勒を追っておれば」
 涙をこらえる仔狐の頭を珊瑚が撫でる。
「七宝だって妖怪と闘ってその場を動けなかったんだ。おまえのせいじゃない。近くにいながら、法師さまが転落したことにあたしもすぐに気づかなかった」
「珊瑚ちゃんのせいでもないわ。あそこは地形が複雑だったし、夕べは朔だった。それに、夜中にいきなり数で襲われたんだもの」
「心配するな、珊瑚。あいつは殺したって死なねえよ」
 弥勒の異変に気づいたとき、というのがあらかた妖怪を倒したときで、一行は、その足で弥勒の探索を行っていた。
「近いぜ。弥勒の血の臭いがする」
 犬夜叉が指し示した方向に村が見える。
 かごめはほっと安堵の息を洩らした。
「村だわ、珊瑚ちゃん。弥勒さま、きっと、誰かに助けられているのよ」
「そうだといいけど」
 法師が残した錫杖を持つ珊瑚は、その六輪を見つめ、唇を噛みしめた。
 気丈に振る舞ってはいるが、心配でたまらない。
 法師の無事な姿を確かめるまでは、まともに呼吸すらできない気がした。

 犬夜叉を先頭に一行が辿り着いたのは村外れの小さな家だった。
「ここだ。ここに弥勒がいる」
 やや蒼ざめた退治屋の娘を元気づけるようにその肩に手を置いて、かごめが珊瑚にうなずいてみせた。
 そして、家の中へと声をかける。
「ごめんください。あたしたち、旅の者なんですが」
 応答はすぐにあった。
 戸口から出てきたのは、色の白い、目鼻立ちのはっきりした若い女だ。
「旅のお方?」
 その女にかごめが説明する。
「あの、あたしたち、連れとはぐれてしまって。法衣姿の若い男の人なんですけど、この辺で見ませんでしたか?」
「法衣姿って……あんたら、弥勒の旦那の知り合いかい?」
 その言葉に一行は驚いて顔を見合わせた。
「旦那って、あんた、法師さまを知ってるの?」
「弥勒を旦那と呼ぶところをみると、おまえは狸か?」
 戸惑う珊瑚の傍らで大真面目に指摘する七宝を見遣り、女――知左はくすりと笑った。
「いやだ、そこの坊やみたいな尻尾はないよ」
「おらは狸ではなく狐じゃ」
「ま、いいさ。狭いところだけど、入りな」
 知左にいざなわれ、中へ入った一行が目にしたのは、部屋の隅に敷かれた夜具に横たわる弥勒の姿であった。
「法師さま!」
 珊瑚が駆け寄る。
「あなたが弥勒さまを助けてくれたのね」
 かごめが礼を述べると、知左は小さく笑った。
「朝早く、水を汲みに出たら倒れてるんだもの。驚いたよ。大丈夫、今は眠ってる。それにしても、今さらこんなところで弥勒の旦那と出会うなんてね」
「弥勒さまとはどういう……?」
 訊いてから、しまったとかごめは思ったが、遅かったようだ。
 弥勒の枕元に膝をついた珊瑚がじっとこちらを見ている。
「あたしは知左。旦那は昔の馴染みなんだ」
「あの、その、親しい関係だったってこと?」
 声をひそめて問い返すが、珊瑚の強張った視線がじっとこちらに注がれていることを、かごめはひしひしと感じた。
「おい」
 と、そのとき、犬夜叉がかごめと知左の会話を遮った。
「法師さま!」
 そろそろと、法師が眼を開けようとしているところだった。
「……ここは……私は、いったい……」
 夜具から身を起こそうとする弥勒の身体を珊瑚が支える。
 その様子を見ていた知左の胸がちくりと痛んだ。
「法師さま、戦闘中に崖から落ちたんだ。……ごめん。すぐに助けてあげられなくて」
 涙声で言う珊瑚の背中を、ゆっくりと持ち上げられた法師の掌がさすった。
「心配をかけたのだな、珊瑚」
 “珊瑚”
 知左ははっとした。
 朦朧とした意識の中で弥勒が何度も呼んだのは、この娘の名なのだ。
 刹那、自分に向けられた弥勒の視線を感じ、たじろぎに似た緊張を知左は覚えた。
「弥勒さま、森を彷徨ってたところをこの人に助けてもらったのよ」
 かごめの言葉に、弥勒は知左をじっと見つめた。
「……白妙か」
 どこか固さを持った弥勒の声音に、かごめはその場の緊張感を解こうと明るく声を上げる。
「違うわよ、弥勒さま。知左さんでしょ?」
「ああ、白妙ってのは昔のあたしの商売用の名前。弥勒の旦那は上客でね」
 珊瑚ははっとした。
 法師とこの女の関係を悟ったのだ。
「かごめ、出よう」
 同じく状況を察した犬夜叉がかごめを促して外へ出ようとする。
「なに? どうしたの?」
「弥勒の無事が確認できたんだ。今日の宿を探しに行こうぜ。七宝。おまえもだ」
 犬夜叉は二人を連れて家を出た。
「あ、じゃあ、あたしも――
 残された珊瑚は、居心地の悪さから逃げるように立ち上がりかけたが、法師に腕を掴まれた。
「珊瑚。おまえはここにいなさい」
「でも」
「この白妙――知左と私の関係は、たぶん、おまえの想像通りだが、おまえはここにいて、私たちの話を聞く権利がある」
 浮かしかけた腰を珊瑚が下ろすと、自らもその場に腰を下ろした知左が、大きなため息をついた。
「なーんだ。いい人ができちゃったんだ、弥勒の旦那」
 知左はちょっと拗ねたような口調で、弥勒を軽く睨んだ。
「つまんない。こんな再会の仕方をしたから、てっきり、旦那との間に何かが起こるかもって期待しちゃった」
「おまえは身請けされたと聞いたが?」
 前髪をかきあげ、知左はふっと笑った。
「その通りだよ。弥勒の旦那が遊里に通ってこなくなったから、潮時かと思ってさ。承知したんだ。でも、あたしは正妻じゃなかったからね。その男が死んで、本家を追い出されたんだ」
「では、今は……」
「そのとき、この家をもらった」
 同情なんかまっぴらというように、知左は珊瑚をちらりと見遣る。
「今、この村の男であたしに嫁にこないかって人がいてね、でも、あたしは弥勒の旦那のことが忘れられなかったから、独り身を通そうと思ってたんだけど」
 ふっと弥勒を見つめた瞳を伏せ、知左は淋しげに微笑んだ。
「……これで、諦められるかな」
 そのつぶやきが消えぬうちに、弥勒が立ち上がる。
「法師さま、まだ動いちゃ……」
いとまを乞う。知左、世話になりました」
「え? 旦那、その怪我でどこへ」
「充分に休ませていただきました。これくらいの怪我はなんでもない。宿を探しに行った仲間と合流します。これ以上、おまえに迷惑をかけることはできませんから」
「迷惑なんて! あと一日か二日、ここにいたっていいだろう?」
 弥勒は静かに首を横に振った。
「おまえに求婚している男がいるのだろう? 誤解を招くようなことをしてはいけない。それに」
 と珊瑚のほうへ視線を向け、
「私も、これに余計な思いわずらいをさせたくはない」
 と言った。
 知左に丁寧に礼を述べた弥勒は、珊瑚と雲母とともに家の外へ出た。
 小さな家の庭には、花の終わったエゴノキが葉を茂らせていた。
「弥勒の旦那」
 思いがけず再会した愛しい男を引き止める術を知らず、知左は声をつまらせる。
「あたしのこと、少しでも好きだった?」
 男の背にそう呼びかけてみるが、振り返った法師は何も言わず、ふわりと笑んだだけだった。
 所詮、遊女と客の関係だ。
 それ以上を望んではいけないと、知左は唇を噛んだ。
 ただ、誰にも心を開くことはないだろうと思っていた法師の傍らに寄り添う娘が、ひどく妬ましかった。

「法師さま」
 知左の家から離れ、村の中を歩く弥勒を支えながら、躊躇いがちに珊瑚が問う。
「あの人のこと、好きだったの?」
「さあ。……どうでしょうな」
 馴染みの遊女という他に、何の感情も持たなかった気がする。
 何も言わずにただ黙って同じ刻を過ごしてくれた、それだけの女だった。
 その何のしがらみもわずらわしさもない関係に救われたときもある。
 けれど、
「過去のことだ」
 弥勒はきっぱりと言った。
 それより、静かな珊瑚の態度のほうが気にかかる。
「怒らんのだな」
「え?」
「昔、関係を持った女が現れたというのに、おまえは何も言わんのか?」
 少し考えるように、娘は視線を地面に落とした。
「怪我が治ったら」
 彼女はゆっくりと言った。
「法師さまの怪我が治ったら、思いきり文句を言わせてもらう」
 そして、法師と視線を合わせ、泣きそうに微笑んだ。
「無事でよかった」
「珊瑚……」
「心配したんだから。崖から落ちて、なのにそこに法師さまはいなくて。本当に、もう、すごくすごく心配した」
 重たげな歩みを止め、法師は珊瑚の頭を片手に抱え込む。
「すまなかったな」
「ううん。無事でいてくれたから。知左さんが助けてくれたから。もう、いい」
 緊張が切れたように涙ぐむ珊瑚の額に弥勒が唇を寄せると、彼の怪我を気遣いながらも、珊瑚も身を寄せてきた。
 彼の昔の女のことが気にならないと言えば嘘になる。でも、法師さまははっきりと態度であたしを選んでくれたから。
 だけど――
 ふと、己の法師への想いが報われなかったらと仮定して、珊瑚は眉を曇らせてうつむいた。
 そうしたら、自分は知左のように身を引いて、彼の幸せを祈ることができるだろうか。
「法師さま」
「なんだ?」
「……ううん」
 いつまでもあたしのそばにいてほしいと願うのはわがままだろうか。
 珊瑚は袈裟の胸元をきゅっと掴んだ。
「不安にさせたか?」
「大丈夫」
 あなたは今ここにいる。
 それだけでいいと思う自分がいる。
「信じてるから。法師さまのこと」
 そう、信じていればいい。
 ありのままの彼が好き。
「行こう、法師さま」
 珊瑚はそこにいる弥勒の存在を確かめるように、彼の手を取り、遠慮がちに握りしめた。
 込められた想いを返すように、強く握り返された手に、彼女は法師のぬくもりを感じた。
 そしてそれが答えだと気づき、安堵した。

〔了〕

2009.9.11.

息の緒に思へる我れを山ぢさの 花にか君がうつろひぬらむ
(作者未詳)