藤の章
しんとした夜半だった。
妖怪退治のため、出向いた村で、その村の大きな屋敷の一室で、何となく眠れずにいた珊瑚は褥から身を起こした。
月が明るい。
障子越しに射し込む月明かりは真昼のように明るく、そして、甘い香りが仄かに漂っていた。
(そういえば、この屋敷、藤が)
昼間、屋敷を訪れた際、母屋に寄りかかるように蔓を伸ばしている藤波を見て、その見事に咲き誇る様に眼を見張ったものだ。
珊瑚は寝床から立ち上がって、窓のそばへ行った。
窓を開けると、外には月光に照らされた紫の藤がしっとりと、いくつも花房を垂らしている。
その艶めかしい花を見て、珊瑚は一人の青年を想った。
(法師さま……)
今回の依頼は、若い娘に取り憑いた妖怪を退治し、二年も昏睡状態にある娘を救ってほしいというものだった。
それは実体のある妖怪ではなく、むしろ怨霊に近かったが、何かあったら使うようにと法師が持たせてくれた数珠と破魔札のおかげで、難なく退治することができた。
ここにはいなくても彼に守ってもらっているのだと感じ、珊瑚はそっと手首にはめた数珠に触れた。
そうして、肌小袖の上に紅白の小袖をはおり、窓を開けたまま、窓際に座り込んで藤を見上げた。
藤は甘やかに芳香を放つ。
まるで、彼の気配に包まれているようだ。
不意に襖の向こうで、小さな声がした。
「退治屋さん? 珊瑚さん、起きていらっしゃいますか?」
「誰?」
「藤乃です」
藤乃というのは、妖怪に取り憑かれていた、この屋敷の一人娘だ。
「お部屋に入ってもいいですか?」
「いいけど。眠れないの?」
控えめに襖が開かれた。
「ええ。目が冴えてしまって。お邪魔じゃなければ、少しお話ししても構いません?」
窓辺にいる珊瑚がうなずくと、藤乃はひっそりと室内に入ってきた。妖に憑かれていたせいで少しやつれてはいるが、あでやかな娘だ。
藤乃は珊瑚の隣に腰を下ろし、
「月を眺めていたのですか?」
と、自らも窓から空を見上げた。
「あ、ううん。藤を。見事なものだね」
「昔からあるんですよ。わたしの名も、ここから取ったんです」
法師は紫の藤を思わせるが、この娘は白い藤のようだと、珊瑚は思った。
「藤が好き?」
「え?」
唐突に問われ、珊瑚は少し戸惑った。
「好きっていうか、ある人に似てるなって……」
言葉を切り、珊瑚が仄かに頬を染めたので、藤乃は、彼女が思い浮かべる人物が女性ではなく男性であることを知った。
「珊瑚さんのいい人?」
藤乃の言葉に、珊瑚はとっさに頬を赤らめて否定する。
「法師さまとはそんなんじゃ……」
そんな表情で否定しても説得力は皆無だ。藤乃はくすりと笑った。
抱くように持っていた、両手の中に収まるくらいの小さな壺を、彼女は珊瑚に差し出した。
「いいもの持ってきたの。一緒に食べながら、その人の話を聞かせてくださいな」
「なんだい、それ?」
「両手で受けて」
珊瑚が差し出した両掌の上に、藤乃は壺の口を傾けた。
壺からこぼれ出たのは、白っぽい、とても小さな菓子であった。
星のような形をしている。
「……」
珍しそうにそれを見つめる珊瑚に、藤乃は朗らかに言った。
「南蛮菓子よ。金平糖といったかしら。わたしの病が治ったら食べさせようと、お父様が手を尽くして西国から取り寄せてくださったの。わたしからの妖怪退治のお礼。一緒に食べましょうよ」
珊瑚は驚いて首を横に振った。
見たことはなくても、南蛮菓子がいかに高価な品かは知っている。
「礼金はあんたの父上から多すぎるほどいただいた。それ以上は受け取れない」
「じゃあ、これは賄賂よ。秘密のお話を聞かせてもらうための」
藤乃は悪戯っぽく笑って、金平糖を一粒、口の中に入れた。
彼女の笑顔に誘われて、つい、珊瑚も同じ動作をした。
「……」
舌先で味わい、かりっと噛んだ。
「……甘い」
「ええ、とても甘いわね」
長く床に就いていた藤乃は、昔からの友人のように、珊瑚の話を聞きたがった。
「法師さま、って言ったわよね。お坊様なの?」
「本人いわく、“法師”なんだ。でも、とんでもない生臭でさ」
意外に話しやすい藤乃に、珊瑚は弥勒のことをいろいろと語る。
気になるところや、腹の立つところ。いつも守ってくれる頼もしいところ。
黙って立っていると温厚そうな好青年なのに、しゃべると途端に胡散臭くなるところなども。
藤乃はときどき相槌を打ちながら、興味深げに珊瑚の話に聞き入っていた。
「それで、その法師さまのほうも、珊瑚さんのことを特別に想っているんでしょう?」
「うん。私の子を産んでくれって……ううん、何でもない。旅をしている目的を果たせたら、一緒になろうって言ってくれた」
「素敵ね」
藤乃は頬を紅潮させて、ほっとため息を洩らす。
「そんなふうに信頼しあえて、お互いのことを大切に思えるような人がいて。羨ましいわ。わたしもそんな恋がしたい」
「取り憑いていた妖は退治したんだから、すぐにそういう人ができるよ」
掌にのせた金平糖を大切そうにつまみながら言う、珊瑚のその手首に、ふと藤乃は視線を向けた。
手首のものに気づかれ、珊瑚ははにかむように微笑した。
「数珠ね。法師さまからの?」
「……うん、お守り。昨日の妖怪退治も、半分はこれのおかげ」
月明かりを斜めに受け、瞳を数珠に向ける珊瑚の顔は、透き通るように美しかった。
この美しい妖怪退治屋にこのような表情をさせるのは、一体どんな青年なのだろう。
「会ってみたいな」
「え?」
「法師さまに」
「だっ、駄目だ!」
え、と目を丸くする藤乃の様子を見て、珊瑚は慌てたように首を振った。
「だ、だって、藤乃さん、綺麗だから。あの女好きに会わせたら、法師さま、絶対浮気しちゃう……」
珊瑚のあまりの狼狽ぶりに、一拍置いて、藤乃は思わず噴き出した。
「くっ、あははは……!」
「藤乃さん?」
いかにも良家のお嬢様然とした藤乃の、飾らない笑いぶりに珊瑚は唖然とまばたきをくり返す。
藤乃のほうも、驚いていた。
昏睡から醒めたとき、この人が妖怪を退治してくれたのだと父から紹介された凛とした美しい娘は、同年代の自分よりも遥かに冷静沈着に見えた。
改めて礼が言いたくて、この部屋を訪れたときも、生真面目過ぎて堅苦しい娘かもしれないと思っていた。
それが、物堅い印象はあるけれど、“法師さま”の話題に触れるときだけは、彼女は別人のように表情豊かになるのだ。
「藤乃さん、笑いすぎ」
「だ、だって、珊瑚さん、可愛いんだもの」
「……」
真っ赤になって、高価だからと遠慮していた菓子をぱくぱくと口に放り込む様は、愛らしくも可憐で、自然と笑みがこぼれてしまう。
ますます法師に会ってみたくなった。
この可憐な娘がこれほど想う男とはどんな人物なのだろう。
翌朝、朝餉を終えた珊瑚が帰り支度をしていると、屋敷の使用人がお迎えの方が見えましたと告げに来た。
「迎え?」
飛来骨を持って玄関に出ると、誰あろう弥勒法師が玄関先で珊瑚を待っていた。
「法師さま……!」
眼を見張る珊瑚の反応に満足げに弥勒は微笑む。
「妖怪退治は終わったそうだな。私の手が空いたので、おまえを待ちきれなくて来てしまいました」
「……」
「会いたかった、珊瑚」
ほんのりと頬を染め、珊瑚はどぎまぎと顔をうつむかせた。
(たった一日、顔を見なかっただけなのに)
でも、そうだ。自分も夕べ、月光の中の藤を見ながら、同じように法師のことを考えていた。
法師さまに会いたいと。
「この屋敷の藤は見事ですな」
弥勒の言葉で、珊瑚ははっと我に返った。
「うん、そうなんだ。あたしが泊まった部屋からも藤がよく見えた。もう帰るところなんだけど、少し見せてもらう?」
「珊瑚さん」
母屋から藤の花を持って出てきた藤乃がしとやかに法師に会釈した。
目配せをする藤乃の様子に、昨夜の会話を思い出し、珊瑚は頬が火照ってくる。
「お屋敷の娘御ですな」
穏やかに弥勒が言う。
「なるほど、妖が魅入るわけです。これほど美しい方なら」
「珊瑚さんにはお世話になりました」
背の高い青年法師に艶めかしい目付きで見つめられ、それが珊瑚が言った通りの印象なので、藤乃はくすくすと笑い出した。
この娘、どうも笑い上戸らしい。
彼女は楽しそうに珊瑚にささやく。
「素敵な方ね」
「……うん」
下を向いて真っ赤になってしまった珊瑚とにこやかな藤乃を見比べて、法師は不思議そうな顔をした。
藤乃は手にしていた一房の藤を珊瑚に渡した。──記念に、と。
珊瑚は弥勒と帰路についた。
雲母は置いてきているので、二人だけの道程となる。
藤の香りを道連れに、何となく照れくさいような気持ちで歩を進めていると、ふと、法師が彼女の手にあった藤を取り上げ、彼女が背負う飛来骨の持ち手に付けた。
「これで、手が空きましたね」
軽く眼を見張る珊瑚に向かって左手を差し出す。
「触れたい」
「あ……」
「駄目なら尻を触りますよ?」
「えっ、あっ、はい」
珊瑚は慌てて差し出された弥勒の手を掴んだ。
彼に触れ、胸の高鳴りに頬が熱くなった。
昨夜、藤の香りに包まれながら、弥勒を想っていたことが脳裏に浮かぶ。
──法師さまは甘い。高雅な藤の香りのように。
「何を考えている?」
「え、あの。法師さまは甘い。って……その、何でもない」
「奇遇だな。私も同じことを考えていた」
思わず顔を上げ、瞳を瞬かせる珊瑚の身体を弥勒はぐいと引き寄せた。
「珊瑚は甘いと」
仄かな香りに包まれるように、気づくと、弥勒に包まれていた。
その甘さが心地好く、ゆっくりと珊瑚は瞼を閉じた。
吐息が奪われる。
珊瑚の背から滑り落ちてしまった飛来骨に飾られた紫の藤が、通り過ぎる風に吹かれ、清げに房を揺らしていた。
〔了〕
2011.5.2.
(作者未詳)