葉隠れの章
「雲母、見てごらん。今夜は月見日和だよ」
美しい夜だった。
夜空は深い藍色に澄み渡り、中秋の名月が手を伸ばせば届きそうな位置にある。
「おまえの上は、特等席だね」
弥勒を迎えに行くための夜間飛行。
天を駆ける雲母に乗った珊瑚は、愛猫と水入らずの月見を楽しんでいた。
ここに琥珀もいたら──
ふとそんな想いが脳裏をよぎり、珊瑚はふるふると首を振る。
「弱気になっちゃ駄目だ」
犬夜叉もかごめも、もちろん弥勒も。
琥珀を助けようと一生懸命になってくれている。
いつか、必ず。
そう、必ず、琥珀と雲母と三人で、こんな月を愛でられる日が来るだろう。
「法師さま、今ごろ、夢心さまと呑んでいるのかな」
夢心の寺で弥勒が待っている。
帰りは、弥勒とともにこの月を眺めることができる。
今はそれだけで幸せだ。
妖怪退治の謝礼として上物の酒を受け取ったはいいが、かごめや七宝はもちろんのこと、犬夜叉もそれほど酒を好むわけではない。
せっかくだからと、夢心に酒を届けることを弥勒に勧めたのは珊瑚だった。
中秋が間近であったし、久しぶりに弥勒に里帰りの機会を設けてやりたいと思ったのである。名月を肴に呑む酒は、また格別であろう。
弥勒は珊瑚の提案にしばし黙考したのち、それでは待宵の日に師匠を訪ねるから、中秋の夜、珊瑚が寺まで彼を迎えに来るようにと条件を出してきた。
たまには育ての親とゆっくり語り合いたいだろうと考え、自分は遠慮するつもりだった珊瑚は、彼の意図がよく解らないままにうなずいた。
そのようなわけで、中秋のこの夜、珊瑚は夢心の寺に向かっている。
あまり早く到着しては師弟の邪魔になるだろうと、かといって遅くなりすぎても失礼だとこの時間帯を選んだのだが──
ぼんやりと弥勒を想い、月に見惚れていた珊瑚は、前方からこちらへ向かってくる大きな影に気づいてまばたきをした。
「あれは……」
見知った影像。
それは変化した八衛門狸だった。
珊瑚を乗せた雲母は空中を滑るように、ハチこと八衛門のそばまで飛翔した。
ハチのほうでも珊瑚の姿を認めたらしい。
双方は、飛行の速度を落として空中で対峙した。
「ハチじゃないか。こんなところで何してるんだい?」
「珊瑚姐さんこそ。姐さんが遅いから、弥勒の旦那はひどくご機嫌斜めですよ」
「え? 遅かったかな。まだ、夢心さまと月見酒を呑んでる頃じゃないの?」
きょとんと首を傾ける珊瑚に、ハチは小さくため息をこぼす。
「いつまで待っても来ないから、あっしが姐さんを迎えに行くようにと命じられまして」
「何言ってるのさ。あたしが法師さまを迎えに来たんだよ?」
どうも話が噛み合わず、埒があかないが、要は珊瑚が弥勒のもとに到着すればいいことだ。
珊瑚と雲母、そしてハチは、並んで夢心の寺へ向かった。
「珊瑚ーっ!」
寺に着いた珊瑚が軽やかに地に降り立った雲母からひらりと飛び降りたとき、待ちかねたといった形相の弥勒が彼女の名を叫びながら駆け寄ってきた。そして、彼女の手を取り、ぎゅっと握る。
「どこで何やってたんですか、おまえは、もう! 遅いから心配しましたよ」
「え? だって……」
「だってじゃありません。おまえと中秋の月を愛でるために、朝からいろいろ用意してたのに、おまえが来なくては始まらないでしょう!」
弥勒の言葉に珊瑚は驚きの表情を浮かべた。
「あ……あたしを待っててくれたの……?」
「当たり前じゃないですか。何のためにおまえをこちらへ呼んだと思っているんです」
じゃあ、法師さまが今夜来てくれと言ったのは、あたしと月を観るため──?
大きく眼を見開いた珊瑚は何か言おうとするも、言葉が出てこない。
そんな彼女の顔を覗き込んだ弥勒は、瞳の中に驚きとともに歓喜の色を見つけると、やっと満足したようにほうっと息を吐いた。
そして、おもむろに珊瑚の肩に手を置くと、そっとその手を背に廻して彼女を抱きしめる。
「月が昇ってもおまえがいなくては意味がない」
「あ……ええと……」
ぽっと頬を染めた珊瑚は困ったように身をよじったが、それくらいでは弥勒の腕は緩まなかった。すぐそばにいるハチや雲母の存在は置き忘れられたままである。
「……あの、弥勒の旦那?」
「ああ、ハチ、ご苦労だったな。酒と肴が用意してある。もう行っていいぞ」
邪魔するな、と言わんばかりの薄情な科白に、へい、と悟ったような表情で引き下がるハチ。我に返った珊瑚が慌てて弥勒の手を振りほどき、妖狸に声をかけた。
「ほんとに悪かったね。足労かけちゃって」
「いえ、慣れてますんで」
「みんなでお月見するつもりだったんだね。あたし、ただ法師さまを迎えに来ればいいだけかと勘違いしちゃってさ」
「はあ」
「あたしも仲間に入れてもらって嬉しいよ」
「いえ、仲間というか、旦那は最初から珊瑚姐さんだけがお目当てで……」
「ハチ」
静かな声だったが、珊瑚からは見えない角度で自分に向けられた弥勒のにこやかな表情に、ハチは背筋がぞくっとするものを感じた。
「珊瑚、夢心さまは今夜は静かにしみじみと酒を楽しみたいそうです。なので、我々は別室で呑みましょう」
「そうなの?」
「まあ、お年ですし、呑み過ぎないようにハチが夢心さまに付き合うと言ってくれてます」
「そう……じゃあ、挨拶だけでも」
雲母を抱き上げた珊瑚の肩を抱いた弥勒が、寺の中へと彼女をいざなう。もう片方の手が、ハチに向かって早く行けと催促するようにひらひらと振られていた。
「遅れた罰です。今夜は徹底的に付き合ってもらいますよ。夢心さまへの挨拶は明日の朝でいいでしょう」
「法師さまがそう言うなら……」
弥勒に気づかれないように肩で嘆息したハチは、それでも嬉しげに珊瑚と寄り添うように歩いていく法師の様子に微笑ましさを覚え、自分と夢心のために用意された部屋へと踵を返した。
弥勒が珊瑚を案内した場所は、前日、夢心と呑んだ濡れ縁であった。
酒の仕度とともに、団子や里芋を盛った鉢が並べられている。
今夜は燈台は用意されていない。
縁に腰を下ろした珊瑚は、月明かりを浴び、ふうわりと浮かび上がるように咲き乱れている萩の群れに眼を見張った。
ここに座ると、ちょうど正面に、一面に生い茂った萩の花、そして、少し顔を上げると晴れ渡った夜空に輝く十五夜の月が見渡せる。
荒れ放題のこの寺にこんな場所があったとは。
「見事な萩だね」
珊瑚の感嘆の声が上がる。
それは、まるで物語の一場面を思わせるような幻想的な光景だった。
「これを珊瑚に見せたかったんです。なかなかのものでしょう?」
「うん、綺麗だ。月に萩に、それに──」
隣には微笑む法師の姿。
眼が合った珊瑚が恥ずかしげにうつむくのを見て、弥勒は彼女のすぐそばに座し、ふんわりと包み込むように背後からその身を抱きしめた。
「ちょっと、法師さま。や……」
「散々待たされたんだ。このくらいはいいだう?」
「……」
珊瑚は赫くなってうつむく。
この体勢にはなかなか慣れないが、弥勒が自分のためだけにこのような座をしつらえてくれたことが、言葉では表せないほど嬉しかった。
だから、今宵はこの腕に身を委ねていよう。
美しい月と美しい萩。
そして、そばには愛しいひとがいる。
こんな美しい夜くらい、素直になってみるのもいいかもしれない。
遠慮がちに珊瑚が弥勒にそろと体重を預けると、彼女を抱く腕の力が少しだけ強まった。
言葉はいらない。
虫の声だけが清涼な夜気に響く、そんな静寂が心地好い。
月華に包まれ、愛しい娘を腕に抱いた法師は、娘の美しい髪にそっと口づけた。
〔了〕
2007.9.20.
(作者未詳)