白梅の章
「もうすぐ咲くね」
       そんなふうに、珊瑚は梅が咲くのを楽しみにしていた。
      「亡くなった母上が好きだったんだ」
      「さぞ、梅の花のように凛とした、気高い女人だったのでしょうな」
       微笑を浮かべ、弥勒はやさしい眼差しを傍らの娘に向ける。
       珊瑚は少し恥ずかしそうに、けれど、どこか誇らしげに母の面影を可憐な花に探していた。
      「心の強い女性だったって。寒さに負けず、雪をかぶっても咲く梅の花のように」
      「そして、おそらく美しい女性だった」
       彼女が想いを馳せる母の面影を追うように、弥勒は言葉をつなげ、彼女を見た。
      「今のおまえのように」
       そんなふうに、弥勒は言外に告げる。
       おまえが母を誇らしく思うように、私はおまえを誇らしく思うと。
       いつか、おまえも私の子の、そんな母親になってほしいと。
      「私にとっては、梅はおまえだ。普段は清楚な白い花だが、戦うときは紅梅だな」
      「法師さまってば、いつもの冗談」
       そんな口車には乗るもんかというように、珊瑚はふいっと踵を返したが、その耳が紅梅よりも紅色に染まっているのを見て、弥勒は黙って微笑んだ。
       旅の途中、少しずつ膨らんでいく梅の蕾を見つけては、珊瑚は立ち止まってそれを眺めた。
       そんな珊瑚の横顔を、後ろ姿を見るのが弥勒は好きだった。
       梅が満開の花を咲かせる頃、一行は楓の村にいた。
       村の近くの山の麓に梅林があることを知り、暇を見つけては、珊瑚は毎日そこへ足を運んだ。
       ときには七宝と一緒に。ときには雲母と一緒に。
       咲き誇る花に包まれ、ひとときの夢に揺蕩う。
       しかし、突然、気がついた。
       花は散る。
       この梅も、咲いたときから、散る運命が定められている。
       梅を愛した母はこの世にはもういない。
       父上や里の人たちも母のもとへと旅立っていった。
       花びらが散る。
       生命が散る。
       法師さま──
       珊瑚は梅林を訪れることをしなくなった。
      「もう、梅は観に行かんのか?」
       あるとき、ふと弥勒が声をかけると、どこか寂しそうに、困ったような表情を見せ、珊瑚は違うことを口にした。
      「梅のこと、風待草ともいうんだって」
       風を待つ花。
       春の訪れを知らせる風を?
       自らの花びらを散らせる風を?
      「風を待つなんて、まるで──」
       あたしみたい、と言いかけて、珊瑚は口をつぐんだ。
       それが弥勒への愛慕を意味する言葉であり、同時にそれが、彼の右手の呪いを暗示してしまうことに気づいたからだ。
      「私は風、ですか」
       常と変わらず、穏やかに法師は微笑んだが、その瞳に揺らぐ微かな翳に珊瑚は気づいた。
       数珠に護られた右手が固く握られている。
      「違うの、ごめん。そうじゃない。その風じゃなくて、春風とか、そよ風とか……」
       わずかな動揺に視線を迷わせ、珊瑚は慎重に言葉を選んだ。
      「法師さまは、そんなやさしい風のような印象があるから」
       己は珊瑚を梅の花だと言い、珊瑚は己を、やさしい風だと言う。
      「気ままに、風のように、自由な生き方をする人だと思う。こんな境遇でこんな出逢い方をしなければ、きっと、あたしなんか手の届かない存在だった」
      「何故そのように考える? 風穴がなければ、おまえと想いを通わせるのに何の障害もなかったはずだ」
       珊瑚は静かに首を横に振った。
      「あたしには風を捕まえられない。そこに立つ木のように、ただ訪れる風を待つだけ。法師さまはきっと、あたしの存在なんて気づかずに通り過ぎる」
       彼女は何を怖がっているのだろう?
       梅が散ること?
       私が生命を散らすこと?
       闘いが終われば、自分のもとから私が去っていくとでも思っているのか。
       おまえの存在こそが、私がどうあっても生き残りたいと渇望するようになった動機だというのに。
       けれど、「もし」などという不確かな口約束に珊瑚が漠然とした不安を覚えたとしても、それは無理からぬことなのかもしれない。
       ──花樹が花びらを散らせる光景は、生命の儚さを連想させるから。
       あの娘に新たな約束を与えてやりたいと、弥勒は思った。
* * *
「珊瑚。梅を観に行きたいのだが、一緒に行きませんか?」
       突然の弥勒からの誘いに珊瑚は戸惑った表情を見せた。
      「え、でも……」
       そろそろ梅が散る頃だ。
      「私とはまだあそこへ行ってないでしょう。おまえと梅を観たい」
       珊瑚はしばらく躊躇していたが、やがて、小さくうなずいた。
       山の麓の梅林は、白い小さな花で埋めつくされていた。
       風が吹くと、雪のようにその花びらがはらはらと舞う。
      「もう、花も終わりだ」
       低い声でそうつぶやく珊瑚の表情は翳りを帯びていて、花を待っていた頃とは別人のようだ。
       法師は彼女を促し、適当な木の根元に座らせた。
      「今年は終わりです。でも、来年になれば、また咲くでしょう」
      「来年の花は、今年の花じゃない」
      「そうだな。でも、花を咲かせるのは同じ木ですから」
       言いながら、法師は樹上から舞い落ちる花を見上げる娘の白い手を取る。
      「花ではなく、木に誓おうか。梅の木が花を咲かせるたび、毎年、二人の間に約束事を増やしていこう」
      「約束って言われても」
       戸惑ったような顔を作る珊瑚に、弥勒は悪戯っぽく微笑んでみせた。
      「些細なことでいいんですよ。たとえば、次の梅も一緒に愛でようとか、次の梅が咲くまでには子供を作ろうとか」
      「やだ」
       くす、と小さく笑みを洩らした珊瑚を見つめる弥勒の唇がやわらかな弧を描いた。
      「やっと笑ったな」
      「え? あ──」
       自分が花の散華に生命の散華を重ねて見ていたことを、彼は知っていた。
      「……ごめんね、法師さま。もしかして、心配させちゃった?」
       法師はゆるやかに首を振る。
      「私のほうこそ、確かなものをおまえに与えることができず、すまないと思っている。だが、戯れなどではなく、今ある私の心はおまえのものだ。それだけは覚えていてくれ」
      「法師さま……」
       握っていた娘の左手の指に、弥勒は懐から取り出した小さなものをはめた。
      「散らない花を作った。これが私の心だ」
       珊瑚は己の左の薬指に咲いた花を見た。
      「これ……梅……?」
      「楓さまに端切れを分けていただき、私が縫いました。かごめさまの国では、夫婦になる約束をした相手にそのような装身具を贈るそうです」
       布の指輪。
       端切れを縫い合わせたというそれは、珊瑚の目に、確かに五枚の花びらを持つ梅の花として映った。
      「散らない、花──」
      「人も花も儚い。けれど、今年の梅に、散ることのない想いをおまえに約束しよう」
       うつむいた珊瑚は、じっと薬指の花に見入っている。
      「法師さま」
      「なんです?」
      「縫い物とっても上手だね」
      「……突っ込むところはそこですか?」
       やや拍子抜けしたような声を出す法師を、珊瑚はおぼつかない笑顔で振り返った。
       ──泣いちゃいけない。とびきりの笑顔を法師さまに返すんだ。
      「ありがとう、法師さま。あたしには勿体ないくらいの贈り物だよ」
       左手を高くかざして指輪を見つめる珊瑚の瞳が濡れていることに、法師は気づかない振りをした。
      「じゃあ、あたしからも」
       珊瑚は長い黒髪を束ねている元結いをするりと解く。
       そんな無造作な仕草さえ、少女と女のはざまを漂う娘の色香が滲み、弥勒は目を奪われた。
       一陣の風が吹いた。
       頭上の花びらが新たに散らされ、解放された珊瑚の美しい髪が花びらの中を舞う。
       食い入るように自分を見つめる法師の視線には気づかないまま、珊瑚は彼の左手を取った。
       そして、その薬指に己の元結いを恋結びに結び付ける。
       伏せられた長い睫毛。ほんのりと色づいた白い肌。風になびく髪。
       美しいと思った。
       舞い散る花びらを髪に肩に受け、娘は決して散らない想いを結ぶ。
      「この指でいいんだよね」
       想いを結んだ法師の左の薬指から顔を上げ、珊瑚は恥ずかしそうに、けれど、どこか誇らしげに、最愛の男を瞳に映した。
      「今年の、あたしからの約束」
       はにかんだ微笑みと控えめに告げられた言葉に、弥勒はようやく我に返る。
      「珊瑚」
      「なに?」
      「おまえは、本当に美しいな」
       艶冶な娘が、途端に初心な少女の顔になって、視線を泳がせ、頬を染める。
      「や、やだ。法師さまってば、改まった顔して何言ってんのさ」
       清楚で控えめで凛として、けれどその香りは甘美で。
       おまえが愛する風待草は、おれが愛するおまえようだ。
       約束の花。
       それは春の訪れを告げる花。
〔了〕
2008.2.22.
(門氏石足)