彼岸花の章
私の子を産んでくれんか
密かに焦がれていた娘にその言葉を告げて、数日が経つ。
弥勒は一人、田に面した坂に座り、そのことについて思いを巡らせていた。
時間ができると、珊瑚のことばかり考えている。
いつか、あの娘を娶ることが本当に実現するのだろうかと。
田の畦道には、紅い彼岸花があちらこちらに咲き乱れていた。
あの妖しい美しさを持つ花に、人は、不吉さを見いだして死人花と呼び、けれど、同時に天上の花の名を冠して曼珠沙華とも呼ぶ。
死か、至上か。
それはこの闘いの行く末に待っている、彼自身の運命だった。
(慣れないことはするもんじゃねえな)
珊瑚への想い、その核心には触れないように、ずっと自分を律してきたのに。
言葉にして、本人を目の前にして認めてしまった今、落ち着かないことこの上ない。
愛しいと伝えてしまえば、触れたくてたまらなくなる。
けれど、もし、触れてしまったら、その先は?
「……法師さま?」
不意に背後に訪れたやさしい気配が控えめに彼を呼び、愛しい人の訪れに、弥勒は少しだけ身を固くした。
「珊瑚」
ゆっくり振り返ると、娘がやわらかな表情で彼を見ていた。
「隣に座ってもいい?」
「ああ」
珊瑚は弥勒と並んで斜面に座り、あちこちに固まって咲く彼岸花を見下ろした。
弥勒の告白からあまり日が経っていないこともあって、珊瑚も彼を強く意識しているようだ。
「法師さま、一人で考えごと?」
弥勒は、思い出したようにふっと笑う。
「どうしたの?」
「ん? あ、いや。私が恋をしていることを、みなに知られてしまったのだなと」
恋をしているというストレートな表現に、珊瑚の頬が熱くなった。
「知られたくなかった?」
「ある意味、これは弱みだからな」
その言葉を意外に思って、珊瑚は軽く眼を見開いた。
「あたしは、法師さまの弱みなの?」
「一番大切なものということですよ。私に悪意を持つ者にとっては、それが私の弱みになる」
大切な弟の顔を思い浮かべ、珊瑚はうなずいた。
「それに犬夜叉たちにも、何というか、手の内をさらしてしまったようで」
愛しむような眼差しをして、弥勒がふわりと笑ったので、珊瑚はほっとしたように息をついた。
「よかった。あの約束を……後悔しているのかと思った」
「馬鹿な!」
思わず弥勒は吐き捨てる。
畦道に咲く紅い彼岸花のように、際立ってしまった己の想いを、もう誤魔化すことなどできはしない。
「取り消すことは何もない。ただ、いろいろ考えてしまうんです」
「あたしは……すごく嬉しかったんだけど、それだけじゃ駄目なの?」
気遣うように珊瑚は言い、視線を紅い花々へと移した。
「すまん。重要なのはおまえの気持ちだ。ただ、何と説明したらいいか……」
「そんなに考え込まないで。なんだったら、奈落を倒すまで、あの約束をなかったことにしてもいいよ」
「えっ?」
「奈落を倒したあと、必ず同じ言葉をあたしに言うと約束してくれるなら、ただの仲間に戻ってもいい」
何でもないふうに見せようとして、思いつめた感が漂う珊瑚の顔を、弥勒は驚いて見返した。
「嫌です」
一言のもとに撥ねつける。
どれだけ思い悩んでも、一旦この手につかまえた愛しい女を手放すのは嫌だった。
手放したくないから、確実に手に入れる方法を模索しているのだ。
「奈落を倒すまでどれくらいかかるか判らない。その間に他の男がおまえを攫っていこうとしたら? あの約束があれば、私はおまえを引き止めることができる」
「法師さま」
少し恥ずかしげに、仄かに頬を染めて、珊瑚は微笑を揺らせてうつむいた。
この美しい人を死んでも守りぬいてみせると固く心に誓い、ふと、彼の視線が、彼女の桜色の唇の辺りにとどまった。
その視線に気づいた珊瑚がそっと法師を見上げる。
「いいよ」
桜の蕾のような唇をじっと見つめながら、指先で、弥勒はそのやさしい輪郭を軽くなぞってみた。
「法師さまなら、あたしは」
精一杯の勇気を振り絞って言ったのだろう珊瑚の頬をすいと撫で上げ、だが、彼はただ微笑んでみせただけだった。
「私を甘やかさないでくれ。もちろん、そうしたいのは山々だが、そんなことをしたら歯止めがきかなくなる」
弥勒は穏やかに珊瑚の瞳を覗き込んだ。
「ときどき抱きしめることができれば……それで私は満足だ」
珊瑚は真摯な瞳でうなずいた。
「珊瑚は? 私に何か望むことはあるか?」
「あたしはいい」
あどけない様子で首を振る。
「法師さまの気持ちを聞かせてもらえただけで勿体ないほど幸せ」
「残念だな」
「え?」
「おまえからしたいと言えば、私も言いわけが立つのだが」
再び珊瑚の唇を指先でなぞり、悪戯っぽく彼が笑ったので、珊瑚は頬を赤らめてうつむいた。
「では、許婚としての最初の抱擁を許してくれるか」
「は、はい」
緊張の面持ちの珊瑚に、弥勒はふっと笑む。
「固くならないでください」
その場で向き合い、そっと娘の背に両腕を廻した彼は、しっかりと彼女の華奢な肢体を抱いた。
腕の中に愛しい娘がすっぽりと収まっている。
「もしよければ、珊瑚も両手を私の背中に廻して」
「はい」
珊瑚は言われた通りにする。
「その手に思いきり力を込めてください」
「はい」
彼女は廻した腕に力を込めた。
「珊瑚。今、おまえと私は抱き合っていますよ」
「うん」
恥ずかしそうに、けれど嬉しさを噛みしめるように、珊瑚は答えた。
“愛している”
際立ってしまった珊瑚への想い。
この清純な花を紅く染め変える日まで、どれだけ待てばいいのだろう。
「……あの、法師さま」
「ん?」
「いつまでこうしていればいい?」
弥勒の腕に包み込まれ、珊瑚は緊張のため少し震えているようだ。
「腕が疲れるまで。少しでも長く、私を抱きしめていてくれ」
「あの、腕はもう疲れちゃったんだけど」
「では力を抜いていいですよ。私はもう少しこのままでいたいので、珊瑚はただそこにいてくれればいい」
彼女は腕の力を抜き、吐息を洩らして、頬を押し当てている弥勒の肩に、躊躇いつつもより一層、頬を寄せた。
「珊瑚、おまえはあの花をどう思う?」
抱き合ったまま、ふと、弥勒が問うた。
「曼珠沙華のこと? 火が細く咲いたみたいだ。とても綺麗だと思う」
「不吉だとは思わんのか?」
「それは人間がそう思うだけで、花が悪いわけじゃないよ」
その答えは弥勒を安堵させた。
愛する娘は、死ではなく天上を選んだのだ。
弥勒の瞳が珊瑚の肩越しに紅い花を映した。
その花が死人花となるか天上の花となるか、それは、これからの闘い次第なのかもしれない。
〔了〕
2011.9.23.
(柿本人麻呂)