杜若の章
 頼まれて、妖怪退治に出向いた帰り道。
       もうすぐ訪れる夏を予感させる気持ちのいい陽射しの下を、弥勒と珊瑚は肩を並べて歩いていた。
       雲母は、珍しく珊瑚ではなく弥勒の肩の上にいる。
       退治屋の装束に身を固め、凛然と歩く珊瑚は、だが、落ち着かなげに飛来骨を右手に持ったり左手に持ち替えたり、その表情も曇りがちだ。
      「珊瑚」
      「あ、なに?」
      「……怪我、しているのではありませんか」
       法師に指摘され、珊瑚はとっさに彼から眼をそらした。
      「やっぱり。飛来骨を貸しなさい」
      「いいって。怪我っていっても大したものじゃないし、自分の不注意で招いたことだし」
       足を止めた弥勒が、珊瑚から飛来骨を取り上げ、自分の錫杖と一緒に一旦、地に置いた。そして、珊瑚の腕を掴む。
      「つっ」
      「右腕か。まいったな。薬草を持たずに来てしまった」
      「大丈夫だよ。村へ帰れば手当てできるし」
       妖怪の攻撃を受け、腕で顔をかばった際にひどく打ったようだ。
      「やせ我慢をするな。利き腕が使えなくなったら大変だろう」
      「そんなたいそうな怪我じゃないよ。心配しないで」
       だが、弥勒は納得しなかった。
       周囲を見廻すと、向こうに大きな池が見える。
      「あの池の畔でひと休みしましょう。打ち身なら、冷やしておいたほうがよい」
       彼は珊瑚の飛来骨を持ち、珊瑚に錫杖を持たせて、その池へと足を向けた。
       池の畔にたどりつくと、法師は懐から手拭いを取り出し、池の水に浸して軽く絞った。
      「腕を出して」
       言われるまま、珊瑚はその場に腰をおろして、手甲や肘当て、仕込み刀も取り、袖をまくった。
       腕の手首と肘のちょうど真ん中辺りが鬱血して痛々しく腫れている。
      「思ったよりひどいな」
      「本当に大丈夫だから。気にしないで」
       右腕の患部に濡れた手拭いを当ててもらい、申しわけなさそうに珊瑚は言った。
      「しばらく休んでいきましょう」
       応急処置とはいえ、弥勒は珊瑚の打撲の手当てができたことにほっとした様子で、彼女の隣に座って、池を眺めた。
       池には紫の見事な杜若が群生している。
      「壮観ですな」
      「うん、綺麗だね」
       唐衣 着つつなれにし 妻しあれば
      「はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ、というところですかな」
      「どういう意味?」
      「よくぞここまで旅をしてきたものだといった意味です。……私は根なし草ですから」
       根なし草という弥勒の言葉に、珊瑚はちくりと胸が痛むのを覚えた。
       旅を強いられている身ではあるけれど、彼には仲間も、自分だっているのにと、哀しくなってしまう。
      「もっとも、私の場合、“妻”はすぐ近くにいますけど」
      「……どういう意味?」
      「愛しい人がそばにいるという意味です」
       意味ありげに弥勒が珊瑚を顧みて微笑んだので、少し頬を染めて、珊瑚は顔をうつむかせた。
      「はるばる何とかって、あたしは何も思いつかないけど」
       そう言って、視線を咲き誇る池の杜若の群れに向けて珊瑚はふっと笑む。
      「なんか、法師さまがいっぱいいるみたいだなって思う」
       凛々しく優雅に、すっと咲く紫の花は、珊瑚には弥勒そのものに見えた。
       紫の袈裟をまとった法師さまがいっぱいというその発想が気に入り、珊瑚は眼で杜若の数を数え始めたが、ふと、視線を感じて傍らに眼を向けると、本物の法師がじーっと珊瑚のほうを見つめていた。
      「……な、なに」
      「私がいっぱいいたら、珊瑚はその中で私を選んでくれたんでしょうか」
      「何度も言うけど、どういう意味」
      「別に深い意味はありません」
       もしかして、珊瑚でなければと思うのは自分だけで、珊瑚のほうは、自分がいなければ何の疑問も違和感も抱かず、別の相手に恋していたのではないか。
       それが自然なことだと解っていても、そんな不安に、ふっと駆られる。
      「時々、不思議に思うのだが、おまえは私と出逢ったとき、何故、独り身だったんだろう」
      「何を言い出すの、法師さま。何故って言われても、そうだったんだからしょうがないよ」
       珊瑚の言葉が聞こえているのかいないのか、法師はなおも続けた。
      「気立てがよくて器量もいいから、おまえなら、いくらでも貰い手はあったでしょう」
      「ん。まあ、そんな話が全くなかったわけじゃないよ」
       自分から言い出したことなのに、どこか不満げに弥勒は珊瑚を見た。
       珊瑚はちょっと微笑みながら、
      「世話好きな人ってどこにでもいるもんだからさ」
       と、言いわけをするように言った。
      「でも、まだ、里長を継ぐのが琥珀かあたしかはっきりしなかったから。嫁に行くのと婿を取るのじゃ、条件が違ってくるし。それに」
       じっと自分を見つめている弥勒をちらと見遣って、珊瑚は小さな声で付け足した。
      「好きな人も……いなかったし」
       最後の言葉が弥勒を安心させたようだ。
       他人に情を移すことをさけて生きてきたけれど、珊瑚のことは否応なしにあれこれ考えてしまう。そんな自分を持て余している。
      「でも、そんなこと言ったら、あたしのほうが不安は大きいんだよ? 過去に法師さまと係わりを持った女の人がいつ現れるか判らないんだから」
      「それを言われると、耳が痛いですな」
       神妙な弥勒の声に、珊瑚は小さく笑った。
      「現実に法師さまとあたしは、お互い独り身のまま、出逢って……好きに、なったわけだし。それでいいじゃないか」
       少し面映ゆげに彼から視線をそらせる珊瑚を見つめていた弥勒は、不意に腰を上げて彼女の腕に当てた手拭いを取り、それを池の水に浸して、絞ってからまた彼女の腕に当てた。
      「ありがとう」
      「いえ」
       照れ隠しのための行動だったのだろうか。
       甘い沈黙を落ち着かなく思うも、いつものように饒舌に振る舞うことができない自分がいる。
      「いっぱいいる法師さまの中から、あたしの意思で、一輪、選んだんだって言えば、納得してくれる?」
       杜若を見つめていた珊瑚は、法師を振り返り、彼を瞳に映して淡く微笑した。
      「選ぶなんて言ったらおこがましいけど」
      「珊瑚」
       並んで座る珊瑚のほうへ、弥勒は身を乗り出した。
       はっとした珊瑚が頬を染めて眼を閉じる。
       みう、と愛らしい声がした。
      「雲母、どこ行ってたの?」
       相手が気心の知れた猫又でも、やはり恥ずかしそうに珊瑚は法師の腕から離れた。
       もう少し甘い雰囲気に浸っていたかった弥勒は、残念そうに吐息をつく。
       雲母は、池の花の群れから取ってきたらしい杜若の花を、口に咥えて珊瑚の膝に落とした。
      「あたしに摘んできてくれたの? ありがとう、雲母。見舞いのつもりかな」
       みゃう、と答える猫又を見て、弥勒は再びため息を洩らした。
      「……御託を並べる前に行動するんだった」
       珊瑚に花を贈る役目は常に己だけの特権でありたかったのに。
      「あたし、この色好きだな」
       そのまま珊瑚の膝の上に収まってしまった雲母の背を撫でながら、彼女は雲母から贈られた杜若の花に眼を向けた。
      「法師さまの色って感じ」
      「髪に挿してあげましょうか」
       珊瑚が差し出した杜若を受け取り、弥勒はそれを高く結い上げた彼女の髪に挿す。
      「あたしも雲母みたいに花を摘んできたら、法師さま、あたしのこと信じてくれる?」
       ふと、珊瑚が問うた言葉に、我ながら大人げないと自覚しながら、弥勒は彼女の耳元でささやきを返した。
      「口づけをください」
      「あの……雲母がいるし」
       困ったようにつぶやく娘と狙ったように欠伸をする雲母。
       弥勒はわざと話題を変えた。
      「そろそろ行きましょうか」
      「あ、ごめんね。あたしのせいで道草食っちゃって」
      「最後にもう一度冷やしましょう」
       珊瑚の腕の手拭いを取り、水に浸して、絞る。
       立ち上がった弥勒は、振り返りながら珊瑚に声をかけた。
      「珊瑚、こちらへ」
      「あ、はい」
       言われた通りに珊瑚は雲母を地面に下ろして立ち上がった。
       法師に近寄り、腕を出そうとする珊瑚の、腕ではなく肩を弥勒は掴んだ。
      「……え?」
       流れるように唇を奪う。
       大きく眼を見張った珊瑚の顔を見て、してやったり、とばかりにもう一度、今度はゆっくり口づけた。
      「もう、法師さま、いきなり」
       彼女の抗議などはなから聞くつもりはない。
       弥勒は珊瑚の顔から彼女の髪に飾られた花へと視線を移動させた。
      「杜若のその色、よく似合っています」
       珊瑚はさっと頬を赤らめた。
       杜若の紫は法師さまの色、と言った彼女の言葉を踏まえての発言であることは明らかで、二人の仲が似合いであると言われたような、嬉しさと恥ずかしさを珊瑚は覚えた。
      「さて。では帰りましょうか」
       悪戯っぽく笑い、弥勒は飛来骨と錫杖を手に持った。
       珊瑚のほうへ近づこうとする雲母もついでに肩に乗せた。
      「おまえも私のところですよ。珊瑚は怪我人なんですから」
       ――雲母に焼きもち?
       可笑しいけど、なんだか嬉しい。
       珊瑚は両手を弥勒に差し出した。
      「せめて、錫杖、持たせて」
      「これも軽いとはいえませんよ」
      「いいの」
       紫の花を髪に挿し、錫杖を手に持って。
       法師さまと寄り添っている気分になれる。
       珊瑚の気持ちを察したのか、弥勒は錫杖を彼女に預けた。
       珊瑚を連想させるものを弥勒が持ち、弥勒を連想させるものを珊瑚が持つ。
       並んで歩く娘の髪に挿した花を見て、時々、こんなふうに彼女が自分のものである印をつけるのも悪くないと弥勒は思った。
       聴きなれているはずの錫杖の六輪が奏でる音が、どこか新鮮に耳に響いた。
〔了〕
2010.5.27.
(作者未詳)