容花の章
眼が覚めた。
朧気に残る瞼の裏の残像は、花のように綻ぶ美しい娘の顔だった。
私の子を──と言った彼に、はい、と答えた愛しい娘。
「つ……」
天井が視界に入ったのと同時に腕に鈍い痛みが走る。
その痛みで、弥勒は現実に引き戻された。
まだ癒えないその傷は、鬼女の集落で、操られた珊瑚と戦った際に負ったものだ。
(寝過ごしたか)
朝の光が満ちる室内に仲間たちの姿はない。
犬夜叉たちの一行は、いつものようにお祓いを口実に大きな屋敷に泊めてもらったのだが、弥勒はそこの御隠居に気に入られ、夕べ遅くまで酒を付き合わされたのだ。
傷は大分ふさがり、腕を吊る三角巾は取れたけれど、それでもまだ、両腕ともに痛みは残っている。
「失礼します」
この屋敷の女中が部屋の戸を開けた。
「おはようございます。そろそろお起こししてもいいと言われましたので、朝餉を持ってきました」
「ああ、ありがとう」
女中は若い娘だったので、反射的に弥勒はにっこりと笑む。
縁に面した障子の近くに朝餉の膳を置き、女中は寝床から起き上がろうとする弥勒に手を貸そうとした。
「昨夜はかなり遅くまで大旦那様のお酒に付き合われたそうですね。お連れ様が、法師さまは怪我人なのにと心配されてました」
「連れというのは……」
真っ先に浮かんだのは愛らしく頬を染めた娘の顔。彼女が昂揚した様子で言った言葉は──
くすくすと弥勒は思い出し笑いをする。
「法師さま?」
「いえ、私にこの怪我を負わせた人のことを想いまして」
“もう浮気しないよね”
(いかん、にやける)
この傷を受けたあの日、最高の笑顔をもらった。
以来、幾度、彼女のあの笑顔を思い浮かべただろう。
「仏門に帰依されてる方を傷つけるなんて、きっと、ろくでもない人間なのでしょうね」
「それがなかなかの人物なんですよ? 私を傷つけることのできる唯一の人間といってもいい」
「まあ」
珊瑚が付けた傷だからこそ、その痛みすら愛おしかった。
開いていた戸の向こうから、雲母がとことこと部屋に入ってきた。が、女中に身体を起こしてもらっている弥勒を見て、ぴたりと立ち止まる。
「雲母、おまえ一人か?」
いつも猫又と一緒にいる娘を思って、弥勒は気軽に雲母に声をかけた。
だが、雲母はじっと法師を睨んでいる。
彼が衣を直している間も、じーっと弥勒を見つめる小猫を顧みて、女中が夜具を片付けながら言った。
「猫ちゃん、こんなに可愛らしいのに妖怪だそうですね」
「そうなんですよ。雲母、私に何か言いたいのか?」
女中に微笑んでから、弥勒が猫又を両手で抱き上げ、問うように小さな顔を覗き込むと、突然、雲母の前足が動いた。
ぱこん!
「きゃあ、可愛い!」
女中が嬉しそうに歓声を上げる。
頬に猫パンチを食らった弥勒が呆気にとられて雲母を見返すと、まだ猫又はじぃーっと法師を睨んでいた。
弥勒が女中にちょっかいを出していると思ったらしい。
わずかに細められたその赤い眼を見て、弥勒はふっと頬をゆるめた。
「……誰かにそっくりだな」
爪は出していないので、本気でぶったわけではないのだろう。
「誤解だ、雲母。だが、確かに可愛いな」
「誰が可愛いって?」
ふと見遣ると、開け放たれた部屋の入り口に盆を持った珊瑚が仏頂面で立っていた。
彼女は雲母を抱く法師と女中を無表情に見比べた。
「猫ちゃんですよ。まるで法師さまと話をしているみたい」
「え?」
「今、猫ちゃんが法師さまのほっぺたを……」
「朝餉をいただきます。ありがとう、もういいですよ」
女中の言葉を慌てて弥勒は遮った。
夜具を片付け終えた女中は、珊瑚に会釈して、部屋を出ていった。
「……」
弥勒と部屋に残された珊瑚は、探るように法師を見遣る。
そして、先程の女中とは何もないと納得してほっとしたように吐息をつくと、朝餉の膳の隣に両手で持っていた盆を下ろした。
盆の上には湯を張った小さな盥と、茶碗がひとつ、そして、淡い紅色の昼顔の花が添えられていた。
「顔を洗う湯を持ってきた。こっちは煎じ薬。この家にあった薬草から昼顔を分けてもらったんだ。疲労回復になると思って」
「この昼顔の花は?」
雲母を床に下ろし、珊瑚の隣に膝をついた弥勒のほうを彼女は見ず、うつむいたまま答えた。
「……ただのお見舞い。庭に咲いてたから」
わざとそっけなく言う珊瑚が愛らしくて、またしても緩みそうになる頬を意識しながら、弥勒はさり気なさを装って珊瑚の横顔を覗く。
「私のために、摘んできてくれたんですか?」
「と……特に意味はないよ。それに、法師さまに怪我をさせたのはあたしだし」
「気に病むな。もう、ほとんど痛みも──」
すると、珊瑚は法師の左腕に両手を置いた。
「つっ……!」
「ほら、まだやっぱり痛いんだ」
「珊瑚が急に掴むからです」
「力は入れてないよ。でも、あたし、ほんとに深く斬っちゃったんだね」
眼を伏せて、やや落ち込んだように言う珊瑚のそのいじらしい様子に、弥勒はもう片方の手で思わず彼女を抱きしめたくなる。
「こうやってね」
と、珊瑚は低い声で続けた。
「手かざしをするといいんだって。もちろん迷信みたいなものだし、かごめちゃんや桔梗みたいな力はないけどさ」
「珊瑚の気持ちが私には一番の薬ですよ」
操られていたとはいえ、自分自身が法師を傷つけたことが、彼女にはやり切れないのだろう。
「では、せっかくですから、右腕の傷にも手かざししてください。それからここも。どうせなら手ではなく口で」
「は?」
弥勒が指差しているのは、左の頬だった。
「そのほうが、より、よい効果があると思います」
頬に受けた傷は、もう薄くなって、わずかに筋が残っている程度だ。
ぱちくりと眼を見張って法師を見上げる珊瑚の瞳を、弥勒はじぃっと神妙に見返した。
ぺし、と、珊瑚の手が弥勒の頬を軽く叩く。
「それだけ軽口が叩けるなら、大丈夫だね」
弥勒が顔を洗い、朝餉を終えるまで、珊瑚はずっと彼の傍らについていた。
珊瑚が煎じてきた薬湯を飲み干し、盆の上の昼顔の花を手に取った弥勒は、ふわりと微笑む。あのとき、はい、と答えた娘、花が綻んだような珊瑚の笑顔がそれに重なる。
「手を」
彼は珊瑚に片手を差し出した。
控えめにその手を取った珊瑚を引き寄せ、彼女の肩を抱き寄せる。
「あ、あの、法師さま」
「温もりが欲しいだけだ。傷が完全に癒えるまで、毎日、珊瑚が手かざしをしてくれたら嬉しい」
「……」
弥勒に肩を抱き寄せられ、このまま時間がとまったらいいのにと、珊瑚は思った。
本当にこの人は、自分を選んでくれたのかと、夢を見ているのではないかと、時々思う。
でも、現実に、彼に肩を抱かれ、彼に寄り添う自分がここにいる。
不思議な感覚だった。
ふと珊瑚が目線を上げると、期せずして法師と視線が合い、二人は照れたように微笑みを交わした。
障子越しの陽が当たる場所に寝そべり、二人の様子を見守る雲母は、小さく欠伸をして寝返りを打った。
「結局、惚れたほうが負けなのだな」
「え、なに?」
「いえ、何でもありません」
法師は淡く笑う。
(浮気などしている余裕はもうないな)
珊瑚の笑顔を引き出すため、珊瑚だけを見つめていたい。
この右手の呪いを解き、生き抜きたいと腹が決まった。
たった一人の娘のために。
法師は娘を抱く手に力を込めた。
「ほ、法師さま」
「大丈夫。これ以上のことはせん」
ともに生きると誓う。
そう、おまえがここにいる限り──
〔了〕
2018.11.12.
(大伴家持)