恋草の章

 よく晴れた青い空がどこまでも広がっている。
 穏やかな空の下、犬夜叉たちの一行は、次の村里へと続く一本道を歩いていた。
「おや?」
 ふと、法師が声を洩らした。
 前方に荷を積んだ小さな荷車が立ち往生している。馬や牛ではなく、人が曳く力車だ。
 窪みに車輪を取られているようだ。
 農夫らしい男が懸命にくびきを曳き、その娘であろう、かごめや珊瑚と変わらない年頃の少女が後ろから荷台を押して、どうにか荷車を動かそうとしている。
「ねえ、犬夜叉」
 助けてあげましょうよ、と目顔で訴えるかごめに、犬夜叉は面倒そうにため息をついた。
「しょうがねえな」
「まあ、これも人助けですよ」
 弥勒に促され、犬夜叉は悪戦苦闘している父娘のほうへと歩き出した。
「珊瑚、これを持っていてくれますか?」
「う、うん」
 法師から錫杖を渡され、珊瑚はやや面食らったようにうなずいた。
 それだけのことで胸の奥が甘くざわめく。
 だが、次の瞬間、まっすぐに娘に向かって歩いていった法師が、親しげにその娘に声をかけたのを見て、ときめきの余韻もきれいさっぱり消え失せた。
「また、法師さま……!」
「あたしたちも行きましょ、珊瑚ちゃん」
 かごめが苦笑し、少女二人と七宝、雲母も、男性陣に続いた。

 犬夜叉が男に替わって荷車のくびきを曳き、弥勒が後ろから荷台を押す。がたん! と大きな音を立て、車輪はたちまち地面の窪みから抜け出した。
 どうすることもできずに困り果てていた男は、ほっとしたように汗を拭い、犬夜叉と法師に礼を述べた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「ありがとうございました」
 娘も一緒に頭を下げた。
 美少女というのではないが、素朴で素直そうな可愛い娘だ。
 当然のごとく、法師が娘に近寄った。
「顔に土がついていますよ」
「えっ」
 指摘され、娘は恥ずかしそうに頬に触れた。
「拭ってあげましょう。じっとして」
 娘の頬の、もう乾いてしまった土のあとを、法師は指先で払った。
 娘は恥ずかしげにうつむいている。
「……」
 預かった錫杖を強く握りしめ、法師と娘を見つめる珊瑚の表情が険しい。
(やだ、あたし……)
 思わず目を伏せ、珊瑚は自らのざわめく心に戸惑いを感じた。
(なんで、こんなに苛々してるんだ。こんなの、いつもの光景じゃないか)
 気を引きしめ、何でもない顔をして、珊瑚は娘のそばにいる弥勒のところまで近づいた。
 声が硬くなってしまったのは仕方ない。
「法師さま、錫杖」
「ありがとうございます、珊瑚」
 法師は錫杖を受け取り、にっこりと珊瑚に笑顔を向ける。
 本当に誰彼構わずなんだなと、珊瑚は呆れると同時に悲しくなった。
 頬の汚れを落としてもらった娘は、ふと、珊瑚を見て、それから、父親と話しているかごめを見て、自分のなりを見た。荷車を動かすのに必死で、小袖も褶もすっかり土埃にまみれて汚れている。
 もう一度、珊瑚を見て、娘は居心地悪そうに父親に声をかけた。
「おとう、ちょっとひと休みしてもいい? 川で顔を洗いたいんだ」
「ああ、構わんよ」
 男が承諾すると、弥勒が娘を見た。
「近くに川があるのですか?」
「うん。きれいな川だよ」
 娘は恥ずかしそうに小声で答える。
「一緒に行っても構いませんか? 私も水を飲みたいので」
「ちょっと、法師さま」
 水なら竹筒にあるじゃないかと言外に含ませた珊瑚の非難の声など、弥勒にはどこ吹く風だ。
「では、ちょっと行ってきます。──犬夜叉、かごめさま、しばらく休憩にしましょう」
 犬夜叉とかごめが法師を振り返り、うなずいた。
 珊瑚は呆然となる。
 結局、弥勒は娘と二人で川へ行ってしまった。珊瑚にはどうすることもできない。

 残った者たちは、葉を茂らせている木の下へ移動し、ひと休みすることにした。
 犬夜叉とかごめは男にこの辺りの村々の様子をいろいろと聞いている。
 珊瑚も皆と一緒に腰を下ろそうとしたものの、弥勒が気になって居ても立ってもいられず、飛来骨だけを下ろし、一人、その場を離れた。
「珊瑚ちゃん、どこ行くの?」
「えっと、その……散歩」
 肩の上にいた雲母も降ろし、曖昧に答えると、それ以上、詳しく訊かれると困るので、彼女はあたふたと身を翻した。

* * *

 川は、近くの林の中を流れている。
 法師を追う珊瑚は、木立の合い間を縫って、すぐに二人に追いついた。
 そっと追い越し、大きな木の陰に身をひそめ、そこから、ゆったりと歩いてくる法師と娘の様子を窺った。
 二人の会話が聞こえる。
「あの……さっきの人、法師さまのいい人?」
「どちらの?」
「錫杖を持ってた人」
 珊瑚の鼓動が跳ねた。──自分のことだ。
 彼女は身を固くし、気配を殺した。
「珊瑚ですか? いいえ、違いますよ。ともに旅をする仲間です」
 弥勒があっさりと否定するのを聞き、珊瑚の胸に鈍い痛みが走った。
 思わず力が抜けて、木に寄りかかる。
「あの娘が気になりますか?」
「あ、いえ。綺麗な人だなって」
 二人の声が遠ざかる。
 だが、もう、珊瑚に追いかける気力はなかった。

 その場に座り込んだ珊瑚は木の幹にもたれ、ぼんやりと、木立の上から射し込むやわらかな陽光を見つめた。
(苦しい……)
 どうして、胸が痛むのだろう。
(だって、法師さまが)
 彼が何をしたのか。
 いつものように、他の娘に声をかけて、いつものように、他の娘を口説いて。
 彼女は、それを見ていただけだ。
 珊瑚は膝を抱えた。
(苦しいのは法師さまのせいじゃない。あたしの心がどこかおかしいせいだ)
 法師に苛々を向けるのは間違っている。
 彼女の心の奥にあるものが、少しずつ、以前とは違ってきているのだ。
 それが何なのか、知るのが怖い。
(頭、冷やさなきゃ)
 冷静になろうと、珊瑚は立ち上がり、一人で林の中をしばらく歩いた。


 荷車で荷を運んでいた父娘とは、進む方向が逆なので、短い休憩のあと、すぐに別れた。
 別れ際に娘の手を握る弥勒の姿を、少し離れたところから、珊瑚はじっと見つめていた。
 まだ、胸が痛む。

「珊瑚? 大丈夫ですか?」
 気づくと、犬夜叉たちはもう歩き出していて、珊瑚はかなり遅れて立ちつくしていた。そんな彼女を、弥勒が足をとめて待っている。
 珊瑚は慌てて足を動かした。
 やはり彼女を待っていた雲母が、彼女の肩に飛び乗った。
「どうしたんです?」
「何が?」
「ふさいでませんか?」
「そんなことないよ」
 彼女は何でもない態度を装い、まっすぐに前を見た。
 肩を並べて二人は歩く。
「法師さまは相変わらずだね」
「困っている人を放ってはおけないでしょう」
「そうじゃなくて。女の子相手だと、ずいぶん楽しそう」
 どうしても刺々しくなってしまう珊瑚の口調に、弥勒は苦笑した。
「あの娘は珊瑚とかごめさまを見て、引け目を感じていたようでしたからな」
「なんで?」
「同じ年頃の、しかも美しい娘が二人も現れて、自分は土埃まみれです。いたたまれなくなって汚れた顔を洗いに行ったのですよ。いじらしいではありませんか」
 別に反論する気はないが、法師が他の娘を褒める言葉を聞いているのは面白くない。
 仏頂面の珊瑚を、弥勒は屈託なく見遣った。
「珊瑚もそのような経験、ありませんか?」
「えっ?」
 見つめられ、眼を見張り、珊瑚は少し考えて首を横に振った。
「……あたしは、いつも妖怪退治で汚れた身なりをしているし」
「あの娘も、働いていたのですから、気にしなくていいのですがね。女心というやつですな」
 弥勒は微笑した。
「とにかく、あの娘は汚れた身なりを気にしていました。あそこで一人行かせるのは可哀想でしょう? 恥じることは何もない、肝心なのは心根の美しさだと伝えてやりたくて」
「……」
 珊瑚はふと眼を伏せた。
 汚れた身なりを恥じらう娘に比べ、自分がいつも闘いで土や砂塵にまみれていることを思い、躊躇いがちに口を開く。
「あ、あのさ。法師さまは、やっぱり、身ぎれいにしている娘が好きなわけ?」
「え?」
「だって、あたしは退治屋だし……」
「何を気にしているんです。妖怪退治や労働で手や顔や衣が汚れるのは当たり前です」
「別に気にしてるわけじゃない」
 珊瑚は顔を斜めにうつむかせた。
 ──法師さまがどう思っているかなんて。
「珊瑚はいつも身ぎれいにしているではないですか。心根の美しさは顔に出ます。着飾らずとも、それで充分」
 錫杖を鳴らし、珊瑚の正面に廻り込んで立ち止まった弥勒が、不意に彼女の手を取った。自然、珊瑚の歩みも止まる。
「心配せずとも、おまえのような美しい娘が好きですよ」
 じっと見つめ、ぎゅっと手を握ってくる。
 やにわに娘の視線が胡散臭げなものに変わった。
「……なんか、訊いたあたしが馬鹿だった」
 珊瑚はほっとため息を洩らして、歩き出しかけたが、
「あ、珊瑚。じっとして」
 弥勒の声に足をとめた。
「なに?」
「小袖に草が付いていますよ。どこまで散歩に行っていたんです?」
 林で木の根元に座り込んだときに付いたのだろう。
 袖に付いた草を払われ、ついでに額髪を指先で整えられ、珊瑚はぽっと頬を染めた。
 頬が熱く、鼓動も速くなる。
「おや、ここにも……」
 弥勒の手がふと彼女の胸元へ伸び、草を払うような仕草で、ふくらみをなぞった。
「……っ!」
 次の瞬間、派手な音とともに、珊瑚の手が法師の頬をひっぱたいていた。


 ふさいでいるように見えた娘の様子が可愛くて、つい、悪戯心を起こしてしまった。
 頬をさすり、怒って足を速める珊瑚を追う弥勒は、言い訳を並べながらも楽しそうだ。
「だから、機嫌を直してください。悪かったと思っていますよ」
「いつもいつも、法師さまは口先ばかり」
「だって、尻を撫でるには飛来骨が邪魔で」
「それは関係ないだろう!」
 言い合いつつ、どうして、あんなに気持ちが落ち込んでいたのだろうと、珊瑚は不思議に思った。
 隣にいるのはいつもの法師で、それは彼女を安心させた。
(法師さまなんて、女を口説くか、お尻を触ることしか頭にないじゃないか)
 でも、ほっとする。
(お尻ばかり触るし、気は抜けないけど)
 彼が自分を見てくれていると、心の奥があたたかくなる。
 どうしてだろう。
 珊瑚はちらと法師を見遣り、ほんの少し、歩調を緩めた。
 彼女の横に並んだ彼が、彼女の顔を見て、にっこりと笑んだ。
 刹那、鼓動が跳ね、珊瑚はほんのりと頬を染めてうつむく。

 ──どうしてなのか、それはあとでゆっくり考えよう。

〔了〕

2014.6.28.

恋草を力車に七車 積みて恋ふらく 我が心から
(広河女王)