此の花の章
大きな町だった。
宿屋の店先で、先ほどから一人の娘が玄関を出たり入ったり、二間ほど通りを進んだかと思うと、また戻ってきたりをくり返している。
宿の周りを箒で掃いていた宿屋の使用人の男は、そんな娘を怪訝な眼つきで眺めていた。
「お嬢さん、うちのお客さんだろう? 用があるならうかがうよ」
「えっ? いや、ごめんなさい。用があるわけじゃ……」
声をかけられ、娘は微かに頬を染め、困ったようにうつむいた。
その可憐な様に見惚れていると、不意に何かに気づいたように娘は顔を上げ、その場から駆け出した。
通りの向こうからやってきたのは法衣姿の青年。
確か、あの青年も宿の客だったことを、男は思い出した。
「ああ、なるほど」
青年のもとまで駆けていった娘は、彼と肩を並べてそのまま通りを歩いていく。
人待ち顔でうろうろしていた娘の様子を思い出し、男はくすりと口許を綻ばせた。
「どこへ行ってたの、法師さま?」
予想通りの小言を聞いて、法師は可笑しそうに頬を緩ませた。
「言っておきますが、浮気じゃありませんよ」
「浮気しに行ったんじゃないんなら、あたしも誘ってくれたって……」
浮気しに行く、と言ったところでどうせ彼女はついてくるのではないかと、法師は笑いをこらえている。
とはいえ、一緒にいたいという気持ちは自分も同じなので、せっかくの娘の素直な気持ちを損ねることもないだろう。
「宿にはおまえ一人だったのか?」
「ううん。みんな、いるよ」
「では、少し歩きましょうか」
歩を進める弥勒に珊瑚は続く。
街の喧騒を離れ、二人は川沿いの道をのんびりと散歩した。
問うような視線をちらちらと投げかけてくる珊瑚に、弥勒は鷹揚に微笑んだ。
「ちょっと小間物屋に用がありまして」
「小間物屋?」
「ええ。元結いが古くなったのでもう一本持っておこうと。あと、おまえにこれを」
ふと足をとめた弥勒は珊瑚の手を取り、その掌に懐から取り出したものを握らせた。
「なに?」
「紅だ。瞼の」
珊瑚は驚いて眼を見張った。
「そろそろ、手持ちのがなくなりかけていると言っていませんでしたか?」
掌を開くと、小さな貝紅がのせられていた。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
呆気にとられ、珊瑚は小さく息を呑む。
もしかして、元結いを買いにというのは建前で、彼はこの紅を買うために小間物屋へ行ったのではないだろうか。
「別になくなったらなくなったでよかったのに」
「でも、その色はおまえによく似合ってますし」
弥勒の声音は言外に何かを言いたげで、珊瑚は胸が躍るのを感じた。
「あたしの物を買うんなら、なおさら、声をかけてくれたらよかったのに」
「だが、一緒に行くと、おまえは自分で買うと言うでしょう? これは、私がおまえに贈りたかったんですよ」
「……ありがとう」
胸の高鳴りを抑え、小さな声で礼を言う。
法師と眼を合わせるのがどこか気恥ずかしく、視線を貝紅に落とし、珊瑚は指先でそれを開けた。
薬指を舌先で湿し、貝紅の紅をわずかに指に乗せ、それを手の甲に塗ってみる。
じっと珊瑚の動作を見守っていた弥勒は「う」と小さく洩らし、口許を左手で押さえ、横を向いて珊瑚から眼をそらせた。が、横目で彼女をちらりと見遣る。
「珊瑚」
「んー?」
「その仕草、色っぽすぎる」
「!」
一瞬、からかわれたのかと思ったが、瞳を上げると、真面目な顔をした弥勒と視線が合った。
たちまち珊瑚の頬が染まる。
「私以外の男の前で、そういう仕草は絶対にするんじゃないぞ。いいな?」
「そんな機会が、まずないよ」
「なくてもやらないように」
「法師さま、無茶苦茶」
はにかんだように瞳を伏せ、珊瑚は微笑を浮かべる。
たとえ冗談にしても、弥勒のほうからこんなふうに独占欲を示され、くすぐったいながらも珊瑚は嬉しかった。
手の甲に乗せた紅の色を見て、匂いを嗅いでみた珊瑚は思わず眼を見開いた。
「これ、あたしのよりずっと高級じゃないか」
「肌につけるものですから、少しでもいい品をと思いまして」
娘はおずおずと法師を見上げた。
「あの……いくら?」
「いりませんよ」
「でも、高価なものだし」
生真面目な彼女の態度に弥勒は小さく吐息を洩らす。
「おまえに贈りたかったのだと言っただろう? 男に恥をかかせるな」
それだけ言って歩き出す弥勒に、怒らせてしまったかと珊瑚は慌てて彼のあとを追いかけたが、どうやら照れているだけのようだ。
珍しい弥勒の様子に、珊瑚は口許を綻ばせる。
なんだか空気が新鮮で、しばらく無言のまま、二人は並んで歩いていた。
「……それからこれは」
ややあって、隣を歩く娘に、法師は再び懐から何かを取り出して渡す。
「ほんの私の気持ちです」
可愛らしい桜模様の小さな巾着――匂い袋だ。
落ち着いた若緑に、それより淡い色の桜が染め抜かれている。
「え、あたしに?」
歩みをとめて己を見遣る珊瑚の視線を受けとめ、法師はやわらかく微笑んだ。
「同じ模様で普通の桜色のものもあったのだが、おまえは他のおなごとは毛色が違いますから。桜色ではなくこの色を選びました」
今度こそはっきりからかわれていると感じ、珊瑚はふいっと顔をそむける。
「どーせ、あたしは女らしくないし。むしろ桜が似合うのは法師さまのほうだし」
「ま、おまえは特別だということですよ」
珊瑚の反応に楽しそうに応じ、くすりと笑って、法師はゆったり歩き出す。
「気に入ってくれましたか?」
「もちろん。……それに、法師さまがくれたものだもの。ありがとう」
紅も匂い袋も、彼が自分のために選んでくれたのだ。
匂いから、これも高級品であることはすぐに解ったが、もうそのようなことは口には出さず、ただ大切にしようと、珊瑚は握りしめた匂い袋を鼻腔に近づけた。
「いい香り」
「私の想いがあふれているんですよ」
あまりにも当たり前のように弥勒が言ったので、珊瑚はくすくすと笑い出した。
「何、かっこつけてんの」
「そこ、笑うところじゃありません」
町外れ、行き交う人々の姿もまばらになってきた辺りに、遠くの山まで見渡せる眺めのいい場所があった。
二人はそこに並んで腰を下ろした。
川から吹く涼しげな風が、火照った頬を冷やしてくれる。
「法師さまにお返しがしたい。せめて、元結い、あたしが買ってあげたかったな」
「じゃあ、おまえに贈ったその匂いを少しずつ私に返してください」
「変なもん欲しがるんだね、法師さま」
探るように法師の横顔を見つめると、彼は前を向いたまま、何気ないふうに言葉を続けた。
「おまえの移り香が欲しいんです」
刹那、とくん、と鼓動が跳ねた。
騒ぎ出す心臓の音を押さえこむように片手で胸元を押さえ、珊瑚は顔を上げて、法師が見ているのと同じ景色を瞳に映した。
「……いつかね」
「ええ。いつか」
弥勒も珊瑚も前方に顔を向けたまま、視線を合わせず、短く言葉を交わす。
この空気を壊したくなくて、離れがたくて、言葉少なに、少しずつ茜色に染まっていく空を見ていた。
時々、ちらと珊瑚が弥勒を見遣り、時々、弥勒が珊瑚を横目で見つめた。
そんなふうに、日が沈むまで、二人はそこで、黙って夕陽を眺めていた。
互いの存在を強く感じながら。
〔了〕
2010.5.3.
(藤原広嗣)
匂い袋の緑の桜模様は御衣黄のイメージで。