紅梅の章
梅が咲く頃には戻ると彼は言っていた。
夜風に運ばれ、ふっと鼻腔をくすぐるのは梅の香り。
暗香浮動してその存在を訴えかけている。
生まれたばかりの乳飲み子である双子の娘を寝かしつけた珊瑚は、ここ数日、家を留守にしている夫のことを想った。――今日で七日になろうか。
「あの梅が咲く前に帰ってくるって言ったのにな……」
先を越されちゃったよ、法師さま。
自宅の裏庭にある一本の梅の木。
村内の他の梅の木々に遅れ、今年、蕾をつけるのが遅かった。
「あの紅梅が花開くまでには、おまえと子供たちのもとに戻ります」
村を発つとき、弥勒はそう約束したのだ。
それが、今年の約束。
去年の今ごろ、散りゆく梅の花に生きる儚さを垣間見た珊瑚に、弥勒は約束という形で二人の間に確かなものを残していこうと言った。
最初の約束として、互いに散ることのない想いを誓い合った。
傍らに眠る二人の我が子のあどけない顔を見つめ、珊瑚はふっと頬を緩ませる。
今年の梅に何を約束しようかと考えていたことは、すでに実現してしまった。
法師さまの子が欲しい、と彼に告げようと思っていたのだ。
あの最初の約束から三月も経たぬ間に祝言をあげ、すぐに二人も子を授かった。
そして、仕事で家を空けなければならなくなった数日前、今年の梅に、弥勒は早く帰ると約束したのだ。
待ってる、と珊瑚は答えた。
家を守り、子供たちとともに法師さまの帰りを待つと。
明かりを灯さずとも、月の光が梅の香を帯びて一面に満ちているような夜だった。
(こんなに明るい夜なんだし、法師さま、今ごろ夜道を歩いているかも)
早く帰ってきてほしいと思う反面、それは己のわがままだという反省もある。
法師の不在を嘆いてもしょうがない。子供じゃないのだから。
(でも、こんな夜は、月と梅の香りを肴に法師さまに酌をしてあげたいのに)
ふと珊瑚は立ち上がると、奥の間へ移動した。
そこは主に弥勒が使っている夫婦の部屋だ。
窓際に文机が置かれ、棚には書や、破魔札や、筆や硯などが整然と収まっている。
棚に並べられた箱のひとつを手に取り、そのまま月の光が射し込む窓際まで持っていくと、珊瑚はその箱を文机の上に置いてそっと蓋を開けた。
長方形の質素な木の箱には、珊瑚自身の小物類がしまってある。
手鏡や櫛、紅や、何本かの元結い。匂い袋。
桃色珊瑚の玉簪は、祝言をあげたあとに二人で町へ行ったとき、弥勒が買ってくれたものだ。
それらの中から、珊瑚は、弥勒の手製の、布で作られた梅の指輪を取り出した。
月光の中で小さな指輪をじっと見つめ、そっと左手の薬指にはめてみる。
彼の想いに触れた気がした。
一年前、舞い散る梅の中で交わした約束の証の品。
弥勒は珊瑚の指に手ずから縫った梅の花の指輪をはめ、珊瑚は弥勒の指に己の元結いを結んだ。
以来、彼は、あのとき彼女が弥勒の指に結んだ元結いで自らの髪を結っていることを、珊瑚は知っている。
珊瑚のほうは、彼からもらった布の指輪を普段身につけることはなかったけれど、一人きりのときや眠れない夜、そっと指にはめて弥勒のことを想っていた。
(あと二つ、子供たちにも同じものを作ってもらわなきゃ)
指輪を見つめ、珊瑚はけぶるような笑みを浮かべた。
恋しい――
あなたはもうどこへも行かないと解っているのに。
(法師さま、早く帰ってきて……)
今宵のこの月を、法師さまと二人で見たい。
不意に表の扉をたたく音が聞こえ、珊瑚はぴくりと振り返る。
(風……?)
ほと、ほと
まぎれもなく、誰かが扉をたたいている。
はっとなった珊瑚は蓋を開けた箱もそのままに、玄関へと向かった。
「法師さま?」
間違いない。
人の手ではなく、錫杖でたたいている音だ。
珊瑚は弾むような気持ちで心張り棒を外し、玄関の扉を開け――
「お帰りなさい、法師さま」
そこに、ずっと待っていた愛しい夫の姿を見つけた。
はやる気持ちを抑え、しとやかに出迎えの言葉を述べたつもりだったが、対する弥勒はどこか困ったような戒めるような微苦笑を浮かべている。
「夜は特に、扉を開ける前に確認しなさいと言っているでしょう? おなごが一人で留守を守っているのだから、もっと用心しないと」
「知っている相手なら気配で解るよ。それに、あたしはそこいらの男には負けないし、子供たちがいるから油断だってしてない」
珊瑚はにっこりと戸口の上を指す。
「法師さまが渡してくれた妖怪よけのお札もちゃんと貼ってるし」
ほうっと、弥勒は愛しげに妻の顔を見つめ、ため息をついた。
「ただいま帰りました、珊瑚」
「はい。お勤め御苦労さま」
家の中に入った弥勒は、急いで珊瑚が用意した水と手拭いで顔を拭い、手足を清め、数日ぶりの我が家にくつろいだ表情になる。
「梅の香りがするな」
ふと、弥勒が言った。
「約束を破ってしまいましたか」
裏庭の紅梅が咲く前に戻ると言ったのに。
「ううん。咲いたのは、今日。だから法師さまは今年も約束を守ってくれた」
ふわりと微笑む妻の指に懐かしい指輪があるのを見て、弥勒は笑みを深くした。
「寂しい思いをさせたな」
「仕事だもの。仕方ないよ」
「子供たちは?」
「眠ってる。だから静かにね」
燈台に火を灯した珊瑚が、次いで、囲炉裏の火を熾そうとするのを制し、弥勒は担いでいた荷物を床の上に下ろした。
「法師さま、身体、冷えてない? 疲れてるだろう。白湯でも」
「おまえに手間をかけさせたくない。それに、今夜はもう休みたいしな」
「それにしても、この荷は何? 反物のようだけど」
「ああ。これはおまえと子供たちに。開けてごらんなさい」
風呂敷に包まれた大きな包みを珊瑚が開けると、反物が五反、出てきた。
「うちはこんなに要らないんじゃ……これは今度の仕事の礼物?」
「いえ。礼金は別にいただきました。これはおまえたちのために求めてきた品です」
法師はそれぞれを少しずつ広げ、その色合いと柄行きを珊瑚に見せた。そして、中のひとつを彼女の肩に掛けてみる。
「こちらの二反でおまえの着物を作りなさい。思った通り、珊瑚はこのような色も顔映りがよい」
「こっちの三反は? 全部、麻の葉模様じゃないか。法衣用の反物がないけど」
「これは子供たちのむつきにと。赤子の着替えはいくらあっても足りないでしょう?」
囲炉裏のある居間で反物を広げ、真面目な顔をして言う夫に、珊瑚はくすりと小さく笑みをこぼした。子が生まれる以前は想像もできなかった、彼の様子に。
「駄目だよ、法師さま。新しい布は赤子の肌にはよくない。むつきには着古した衣を縫い直すんだ」
子育てに関しては、退治屋の里で小さな子供たちの面倒も見ていた珊瑚のほうが、知識も経験も法師より上だった。
「……そうか。じゃあ仕方ないな。三反も求めてきてしまったが、では、これはおまえの肌着に」
「せっかくだから、法師さまの肌小袖もこれで縫おうか?」
職業柄、彼の肌小袖は白と解っていながら悪戯っぽくそんなことを言う珊瑚に、法師は少し照れたような表情で苦笑した。
「それより珊瑚、その指輪」
「あ」
それをはめたままでいることに、今、気づいた。
「私を恋しく思ってくれていたのだな」
ふっと恥ずかしげにうつむき、頬を染める妻が愛おしく、性急にならぬよう気を配りながら、弥勒は珊瑚を抱き寄せる。
「家を離れている間、私もおまえが恋しくて仕方がなかった」
「法師さま――」
「夜具は延べてあるか?」
「あ、ごめんなさい。あたしの分しか。すぐ法師さまの夜具も用意するね。ちょっと待ってて」
「いや、いい。今宵はおまえのぬくもりを感じて眠りたい」
肩を抱かれたまま手を取られ、珊瑚は、夫に導かれるままに立ち上がった。
二人、寄り添うように寝室へと向かう。
途中でふと足をとめた弥勒の意図を察し、珊瑚は彼のほうへ顔を向け、眼を閉じた。
だが、唇が触れあう直前、ぎくりとした二人の動きが同時にとまり、薄暗い中、互いに瞳を大きく見開いて見つめあった。
突然、沸き起こった赤子の泣き声。
それも二人分。
子供たちの泣き声に驚いて顔を見合わせていた弥勒と珊瑚は、どちらからともなく、くすっと笑った。
「……起きたようですな。二人とも」
「お腹が空いたんだよ。乳をやる時間だ」
いささか夫に申しわけなさそうな様子の珊瑚だったが、妻の顔から母親の顔になると、赤子のもとへと足早に駆けていった。
そんな珊瑚のあとを、弥勒はゆったりついていく。
「すっかり子らに珊瑚を取られてしまったな」
けれど、そんな些細な愚痴でさえ、幸福の欠片なのだと実感する。
寝室に入ると、双子の一人に乳を含ませている珊瑚の傍らで、もう一人が乳を求めて泣いていた。
弥勒はその子を抱き上げた。
まだ首も据わっていない愛しい存在。
授乳の順番が廻ってくるまで、この子をあやしてやらなければ。
己も珊瑚を求めたいのだが、双子を寝かしつけたあと、果たして彼女は応じてくれるだろうか。
赤子に乳をやる珊瑚の背に目をやり、腕に抱いたもう一人の我が子に視線を落とした弥勒は、瞳に深い色を湛え、微笑とも苦笑ともつかない影を口許に刻む。
辺りに漂うのは梅の香り。そして、仄かに甘い、懐かしいような乳の匂い。
振り返った珊瑚と視線が合った。
ごめんね、と微笑む彼女が、月よりも花よりも美しく弥勒の眼に残像を残した。
〔了〕
2009.3.19.
(紀女郎)
麻の葉の紋様は産着の定番ですが、戦国時代にすでに産着や肌着に用いられていたかどうかはよく判りませんでした。