葛の章

 犬夜叉たちの一行は、楓の村にいた。
 犬夜叉と弥勒は楓の仕事の手伝いに駆り出されていたが、七宝が風邪気味なので、女性陣はその看病のために楓の家に残っていた。珊瑚が作った葛根湯を飲んで、七宝はぐっすりと眠っている。
 葛の根やその他の薬草類は、楓が、一行の旅のために特に用意してくれていたものだ。
 そんな七宝の枕元で、薬草を仕分けつつ、かごめと珊瑚は、これも珊瑚が作った葛湯を飲みながら、他愛ないおしゃべりに興じていた。
 雲母は炉端でまるくなり、珊瑚は、時々囲炉裏に掛けた鍋の葛湯をかきまぜている。
 ふと、思い出したようにかごめが言った。
「珊瑚ちゃんって、いいお母さんになりそうよね」
「えっ」
 何気ないその言葉に、珊瑚の心臓がどきんと跳ねた。
 子を産んでくれと、法師に告白されたのは、わりと最近のことである。
 あのときの彼の言葉とときめきを思い出し、珊瑚の頬がほんのりと朱に染まる。
「これ、美味しい。お母さんの味って感じじゃない? 犬夜叉たちも、帰ってきたらきっと喜ぶわよ」
「楓さまが葛粉も用意してくれてたおかげで、たくさん作ることができたから」
 少女二人は、熱い葛湯をふうふうと冷まして飲み、くつろいだ様子で会話に花を咲かせた。
「ねえ。珊瑚ちゃんのタイプって、やっぱり、弥勒さまみたいな人?」
「たいぷ?」
「ええと、恋愛対象はこういう人がいいなっていう、理想みたいなもの」
 驚いた珊瑚は真っ赤になった。
「あたしは……あっ、あんな、いー加減でスケベな女好きが好みだったわけじゃ……!」
「いや、深い意味はないのよ」
 ある意味判りやすいというか、いきなりしどろもどろになる珊瑚の反応に、かごめは苦笑して言葉を続けた。
「珊瑚ちゃん、真面目でまっすぐだから、どっちかっていうと真面目な人が好みだったんじゃないかなって。もちろん、弥勒さまはいい人だけど、あの性格でしょ? でも、いざ恋人になると、そんなの関係なく、すごくお似合いに見えるのよね」
「……」
「だから、珊瑚ちゃんのもともとのタイプって、どんなだったのかなあって」
 赤面しながら、珊瑚は葛湯の茶碗に口をつけた。
「特に“たいぷ”なんてないけど、あたしは退治屋だから、一緒に闘える人がいいな」
「一緒に闘える人?」
「うん」
「なんか、それって」
「ん?」
 珊瑚が顔を上げると、かごめはやや拗ねたように、ちょっと膨れてみせた。
「犬夜叉のこと言ってるみたい」
「そっ、そんなつもりじゃ……」
 珊瑚は慌てて否定する。
 一瞬の間をおいて、二人の少女は、くすっと同時に吹き出した。
 そして、ほっと吐息を洩らす。
「あたしだって、別に、女心が解らない二股の乱暴者がタイプなわけじゃなかったのよ?」
「うん」
「あたしだけを見てほしいのに。でも、どうしようもないのよね。好きになっちゃったんだから」
「うん」
 珊瑚は静かに同調した。
 好きという気持ちは、皆、同じ。
 ただ、特別な事情が絡むかごめの恋とは違い、珊瑚の場合は、恋する相手が単に女好きなだけだったが。

 ふと、かごめが、小屋の入り口の簾の下に、見慣れた物があることに気づいた。
「珊瑚ちゃん、あれ」
「えっ?」
 振り向くと、錫杖の先が家の中からも確認できた。
 途端に、珊瑚の頬が熱くなる。
「弥勒さま、そこにいるの? 遠慮せずに入ってくればいいのに」
 かごめの呼びかけに、ふわりと気配が動いた。
「せっかくのおなご同士の時間を邪魔するのは悪いかと。会話が途切れるのを待っていたのですが」
「女の子の会話を盗み聞きするほうが、よっぽど趣味が悪いわよ」
「はは、かごめさまには敵いませんな」
 簾をくぐって中に入ってきた弥勒は、珊瑚を見て微笑した。
「ほ、法師さま、もう、楓さまの手伝いは終わったの?」
「いえ、ちょっと指を切ってしまいまして。かごめさま、絆創膏はありますか?」
「うん。ちょっと待って」
 薬箱からかごめが取り出した絆創膏を、怪我をした指に法師が巻いてもらっている間、珊瑚は、自分が使っていた茶碗をすすぎ、彼のために新たに囲炉裏の火にかけてある鍋の中から葛湯をその茶碗に汲んだ。
「あの、法師さま。これ」
「ああ。ありがとう」
 茶碗を手渡す珊瑚と受け取る弥勒が、なんだかとてもいい感じで、見ているかごめのほうが、どぎまぎしてしまった。
「せっかくだから、二人でデートしてきたら?」
「“でーと”というのは逢い引きのことでしたっけ」
「えっ!」
 思わず珊瑚は硬直するが、
「鍋の番はあたしがしてるから。ほら、珊瑚ちゃん、頑張って!」
 半ば強引に小屋を追い出されてしまった。
 弥勒は鷹揚に、珊瑚は恥ずかしそうに、外へ出た二人は顔を見合わせ、薬草畑の向こうの、小川に面した斜面まで歩いていった。
 そこに並んで腰を下ろす。
 いい陽気だ。
 この季節、澄んだ空気はまだ少し冷たいが、空は青く、ここは陽だまりになっている。
 弥勒は手に持ったままの茶碗を見下ろし、「いただきます」と口をつけて、珊瑚を見た。
「かごめさまがさっき言っていたこと、私も興味がありますな」
「かごめちゃんが言ってたこと?」
「珊瑚の“たいぷ”がどんな男か」
 悪戯っぽく笑う端整な顔を見て、ややばつが悪そうに、珊瑚は話を自分のことから逸らした。
「ほ、法師さまこそ、どんな女が好みなの?」
「私ですか?」
「以前、村の娘たちが、法師さまは、女らしい娘や、しとやかな娘が好きなんじゃないかって噂してるの、耳にしたことがあるよ」
「そういうおなごも好きですが、私は特に選り好みをしません」
「……そうだろうね」
「強いて言えば、美しくて、やさしくて、気立てがよくて、勝気で、純情で、芯は強く、思いやりがあって、頭もよくて、いつも私のことを想っていてくれるような、そんなおなごが好きですな」
「……」
 すらすらと並べ立てる法師に、珊瑚は呆れ果てた眼で彼を見た。
「法師さま、あたしとともに生きるって言ったくせに、よくそれだけ言えるね」
「いや、おまえのことを言ったんだが」
 さすがに照れ気味に言う弥勒に、珊瑚ははっとして、たちまち真っ赤になってしまった。
 風が渡り、二人の髪や衣をそよがせる。
「確かに贅沢な条件だが、そんな娘に、私は出逢ってしまったのだから」
 うつむく娘を愛おしそうに一瞥して、弥勒は葛湯を飲み干した。
「ご馳走さまでした。美味しかった。珊瑚が作ったんでしょう?」
「……うん」
「家庭の味というのは、きっと、こんな感じなのでしょうな」
 何気ない口調だったが、不意に胸に痛みを覚えた珊瑚の瞳が弥勒の横顔を映す。
 そして、彼女はかごめに言われたことを思い出した。
 ──珊瑚ちゃんって、いいお母さんになりそう。
「あの」
 何かを言いかけ、
「うん?」
 こちらを向く弥勒と目が合い、ふと、やめてしまった。
「……なんでもない」
 傍らに茶碗を置いた弥勒は、いつもの穏やかな眼差しで、珊瑚の視線を見返した。
「また、作ってくれますか?」
 視線が絡み、見つめ合い、そのまま彼の深い瞳を見つめていると、時間も呼吸も止まってしまいそうな気がして、珊瑚は慌てて彼から眼を逸らした。
「いいよ。葛粉があればね」
 法師さまのために、いつでも──と、心の中で付け加える。
「では、次に時間ができたら、一緒に葛の根を採りに行きましょうか。少し歩かねばならないが、葛が群生している場所を知っている」
「この村の近く?」
「はい」
「どうして知ってるの?」
「……」
 はは、と弥勒は曖昧に笑う。
 もしかしなくても、村の娘の誰かに教えてもらったのだろう。
 そのときを待ち望むように、彼は視線を空へと向けた。
「私はまだ行ったことがないが、古い大木に藤が絡みついて、花の時季にはとても綺麗な場所らしいですよ。その頃、おまえと一緒に行きたいと思っていたんです」
 藤。
 藤の下にはびこる葛。
 珊瑚の脳裏には、紫の花房が法師の袈裟の色と重なった。
「法師さまが藤だったら、あたしは葛?」
「……はい?」
 娘の硬くとがった声。
 ご機嫌を取ったつもりが、彼女は何故だか不機嫌だ。
「自分だけ華やかに咲いて、女とみれば誘いをかけてさ。あたしの手が届かない場所で」
「珊瑚?」
「あたしは……いつも、法師さまを遠くから見ているだけで……」
 どんどん沈んでいく珊瑚の様子に、弥勒は物思わしげに、さりげなく手を伸ばして娘の肩を抱いた。
「!」
 驚いた珊瑚がびくりと身を強張らせる。
「春には藤が見事に咲くというので、それを珊瑚と見に行きたいと言っただけですよ? 藤は藤、私は私。その場所を教えてくれたのは村の娘ですが、それは私が珊瑚と将来の約束をする前のことです」
 藤を法師になぞらえ、片想いをしていた頃の感情があふれ出しそうになった。
 そんな珊瑚を弥勒は穏やかな声でなだめる。
 彼女の気持ちはよく解っているつもりだ。
 彼自身、ほぼ同じ時間を彼女に片想いしていたのだから。
「今は、手を伸ばせば届くことが判ったのだから、いつでも手を伸ばせばいい」
「……今日は、お尻は撫でないんだ」
「肩を抱きたい気分なんです」
 法師から漂う甘い雰囲気が、珊瑚の胸を高鳴らせる。
「ところで、珊瑚の“たいぷ”は犬夜叉って本当ですか?」
「法師さま、かごめちゃんとの会話、しっかり聞いてたんじゃないか」
 珊瑚の声音が低くなり、弥勒は愛しげに微笑した。
「じゃあ、一緒に闘える人がいいって言ったのも、聞こえたんだろう?」
 弥勒のことを示唆したつもりだが、伝わっただろうか。
「ああ。何となく解ります。珊瑚は守られるだけのおなごではない。だが、本当は、珊瑚には闘うなどという言葉が当たり前に使われるような日常ではなく、平和な暮らしを送ってほしい。そのほうが、珊瑚に似合っている」
「法師さま、あたしは──
 遠回しに拒絶されたような気がして、珊瑚は反発しかけたが、弥勒は淡々と言葉を続けた。
「その平和な暮らしを、できれば、私が珊瑚に与えたいと思っている」
「……!」
「一緒に薬草を摘んで、煎じたり、葛湯を作ってもらったり。毎日をおまえとともに暮らす。そのために、おまえと一緒に闘いたい」
 静かだが、決然とした弥勒の言葉を聞いて、珊瑚は胸がいっぱいになった。
「……あたしも」
 あたしも、法師さまに呪いのない普通の暮らしを与えてあげたい。
 最後まで言わずとも、彼には彼女の気持ちが伝わったようで、不意に強い力で抱きしめられ、刹那、大きく鼓動が跳ねた珊瑚は、甘い眩暈を覚えた。
 彼の両腕が彼女の身体を包み込み、まるで、紫の藤波に包まれているような心地がした。
「本当は、もっとずっと前から、こうしたかった」
 低いその言葉が切なげに響き、娘の身体が熱くなる。
「だが、おまえを愛しく思っている気持ちを、悟られたくなかったからな」
「そっ、そんなの、困る!」
 思わず叫び、至近距離で目が合って、彼女は頬を赫くした。
「だ、だって。もし、法師さまの気持ち、知らないままだったら、あたしはずっと心の中で法師さまを想うだけで、いつまで経っても片想いのままだったと思うから」
「そんなことはない。奈落を倒してから、珊瑚と一緒になりたいと、私はきちんと伝えていたはずです」
「……ほんと?」
 法師の真意を窺うように珊瑚が彼を見つめると、弥勒はにやりと彼女を見返した。
「それまで、おまえが浮気しなければな」
 勝気な娘の視線が強くなる。
「するわけない。たとえ、告白されてなくても、あたしは……」
「ああ。今は私も確信している」
 珊瑚は、私だけを想い続けると──
 いきなり、額に口づけされ、珊瑚は弥勒の腕の中で固まってしまった。
「おまえに出逢ってから、私の理想のおなごは、退治屋稼業をしている珊瑚という名の娘になった」
「……」
「ここは珊瑚も、“法師さまが理想”と言わないと」
 固まったままでいると、耳元で、からかうようにささやかれる。
 珊瑚は控えめに彼の肩に頭をもたせかけた。
「一緒に闘えて、心が強くて、尊敬できる人が好き。尊敬できない部分は、この際、目をつぶる」
「それは助かります」
 珊瑚を抱きしめていた片方の手がすっと腰まで降りてきて、腰から下をまさぐり始めた。
「この手は論外」
 娘の手が法師の手をつねる。

 遠くから見つめていた愛しい人は、彼女と同じ想いを抱いていた。
 彼女はこうして、彼と同じ時間をともに過ごすだけで幸せで、愛しいその人は、彼女と家庭を築くことに憧れている。

〔了〕

2016.3.5.

藤波の 咲く春の野に延ふ葛の 下よし恋ひば久しくもあらむ
(作者未詳)