三椏の章
 珊瑚を捜していると、ふんわりとやわらかな黄色の花が目に留まった。
       小川を挟んだ向こう側、その畔。満開に花をつけたその低木の陰に隠れるようにしてしゃがみ込む娘が一人。
      「さん……」
       声をかけようとして、ふと、動作を止めた。
       可憐な花と、可憐な娘が、まるで美しい絵のようだったから。
       そこだけ時間が止まっているようにすら錯覚した。
      「あ、法師さま」
       そのままその場に立ちすくんでいると、珊瑚のほうが弥勒に気づき、顔を上げた。
      「どこ行ってたの?」
      「ちょっと楓さまの使いを頼まれまして」
       ふうん、と珊瑚はうなずき、視線を花に戻した。
      「綺麗だろう? 今、ちょうど時季なんだね。この花、あたしの里の近くにも咲いてたんだ」
       珊瑚が見つめるそれは、三椏──また、三枝とも呼ばれる花であった。
       遠くからその可憐な姿を眺めているのも悪くはないが、せっかく娘のほうからこちらを見つけてくれたのだ。
       弥勒は、小さな橋をゆっくり渡って珊瑚に歩み寄り、同じようにその隣にしゃがみ込んだ。
      「三枝か」
      「うん。ちょっと雲母に似てない?」
       くすくすと無邪気に笑む娘をさりげなく見つめながら、弥勒は納得する。
       ──ああ、だから、珊瑚に似合うのか。
       愛しさに胸が苦しくなる。
      「珊瑚、この木は人の生きる道に似ていると思わんか」
      「生きる道?」
       弥勒のほうに顔を向けた珊瑚が、そのあまりの距離の近さにぎょっとしたように少し左へずれた。
       そんな様子を微笑ましく目に映しながら、弥勒は言葉を続ける。
      「ほら、この木の枝はどんどん枝分かれしているだろう。幹から枝へ、どの枝を辿ってみても、その先は三つに分かれている」
      「うん。だから、三つの枝って書くんだよね?」
      「ああ。人生もこれと同じだと、私は思うんだ」
       弥勒はひとつの枝の付け根に人差し指を置いた。
      「これが私の人生だとする」
       そう言って、幹から指を、枝の先へと滑らせる。三本に分かれる地点で、一旦指を止めた。
      「ここが、私が犬夜叉やかごめさまと出会ったとき」
       三本の枝を一本ずつ示し、
      「犬夜叉たちと行動をともにするか、別れて独り別の道を行くか、または敵対するか」
       言いながら珊瑚を見遣ると、真剣に弥勒の指を見つめていた。
      「結果的に彼らと行動をともにすることを選んだから、今の私があるが、もし、他の道を歩んでいたとしたら──」
       三つに枝分かれした先は、さらに三つ、さらに三つと、際限なく伸びている。
      「今とは掛け離れた場所にいることになるな」
       珊瑚は両腕で膝を抱え、そんな弥勒をじっと見ていた。
      「今、おまえとこうしているのも、あのとき、私が犬夜叉と行動をともにする道を選んだからだ」
       やわらかく見つめ返すと、彼女の頬がほんのりと朱に染まる。
      「ひとつ、道をそれるだけで、今とは違う私がいることになる。面白いものだな」
       その声音に何かを感じ取ったのか、珊瑚の瞳が微かに翳りを帯び、彼女は顔をうつむかせた。弥勒には珊瑚の考えていることが手に取るように理解できた。
      「もちろん、そんなことを考えるのは無意味かもしれん。楽しいことばかりでもない。もし、奈落がいなかったら? もし、四魂の玉が生まれなかったら?」
       珊瑚ははっとした。
      「おまえは何も失わずにすんだかもしれんし、私には風穴はなかったはずだ」
      「うん……」
      「しかし、どのように異なる過去を歩んでいたとしても、おまえとはどこかで出逢っていただろうな」
      「えっ?」
       珊瑚は驚いて弥勒の顔を見た。
      「おまえは退治屋の里にいる。私はたぶん、風穴がなくても旅をしている」
       遠くを見遣るようだった眼差しを珊瑚へと向け、弥勒はやさしく彼女に微笑みかけた。
      「妖怪退治の現場で鉢合わせするか、退治屋の里の噂を耳にした私が興味を抱き、里を訪ねていたか」
       思いのたけを込めた双眸で娘を見つめると、そっと手を伸ばして紅梅色の頬を撫でる。
      「いずれにせよ、おまえとだけはどこかで運命が交差していたと確信している」
       熱く見つめられ、どぎまぎとした珊瑚は慌てて黒曜の瞳から視線を逸らした。
      「……で、でもさ、もし、里を滅ぼされる前に法師さまが犬夜叉たちと里を訪れていたら」
      「うん?」
       つぶやくような低い声に何を期待したのか、弥勒は珊瑚に気取られないように艶やかな黒髪に触れ、彼女との距離をそっと詰めた。
      「そうしたら、法師さまじゃなくて犬夜叉を好きになってたかもしれない」
      「え゛」
       それまでの余裕はどこへやら、一転、弥勒はやや引きつり気味の表情で言葉をつまらせた。
      「人生って、ちょっとしたことで大きく狂うもんだろう?」
       真面目な顔を前へ向けたまま、珊瑚は続ける。
      「犬夜叉って、一見、粗野で馬鹿で乱暴だけど、根は正義感が強くてまっすぐだし。それに、ぶっきらぼうだけどやさしいし」
       褒めているのか、けなしているのか。
      「お、おい、珊瑚……」
      「でも、そうなったらかごめちゃんが恋敵だ。……敵うわけないな。報われない恋か」
      「珊瑚、ちょっと待て」
       ちら、と法師に眼を向けた珊瑚が、突然、くすくすと笑い出した。
       寂しげだった瞳からは翳りが消え、小さく、花が綻ぶように笑みを漂わせている。
       そんな彼女の様子を見て、からかわれたと気づいた弥勒は、腹の底から、安堵のため息を大きく大きく吐き出した。
      「珊瑚……冗談にしても、たちが悪すぎるぞ」
      「ごめん、法師さま。本気にした?」
       わざとらしくむくれる弥勒は、悪戯っぽく笑う珊瑚の前髪を軽く引っ張る。
      「痛いよ、法師さま」
      「まあ、とりあえずは今のままで満足するとしましょうか」
       よいしょ、とその場に胡坐を掻く弥勒を見て、珊瑚もぺたんと地に腰を落とした。
      「珊瑚。この花を、何故“さきくさ”と呼ぶのか知っているか?」
       珊瑚はわずかに眼を見開いて、小首を傾げつつ首を横に振った。その愛らしい仕草に、弥勒の口許が、知らず、綻ぶ。
      「ううん。何か意味があるの?」
      「もともとは、幸せの草、と書いて幸草といったんです。このように枝や茎が三叉になった植物は吉兆だといわれていたからな」
      「へえ……この花、吉事の印なんだ」
       珊瑚はわずかに身を乗り出し、片手を伸ばして三枝の花に触れた。
       ふんわりと丸みを帯びた可憐な花は、それぞれの枝の先に、誇らしげに幸を咲かせる。眼に見えるはずもない“幸福”にそのまま触れたような気がした。
      「ねえ、法師さま。枝分かれした先には、どの枝にも、必ず花が咲いているんだね」
      「そうだな」
      「このひとつひとつが、みんな幸せの象徴なの?」
      「ああ、そうだ」
       珊瑚は手を戻すと、嬉しそうに隣に座す法師を顧みて言った。
      「じゃあ、きっとどんな道を進もうとも、幸せになる可能性は絶対にあるってことだね」
       弥勒の眉が上がる。
       それはほんの些細なこと。しかし、そこに確かな希望を見る珊瑚のひたむきさはどうだろう。
       穢れのないまっすぐな瞳が愛しくてたまらない。
      「……そうか。どのような道を選ぼうとも、幸せは待っているのか」
       つぶやくように独りごちた法師は、傍らで仄かに微笑む娘を眼に宿す。
       娘はこの花が愛らしい猫又に似ていると言った。
       その幸せの花に似た猫又をつれ、珊瑚は自分の前に現れた。
       己に幸を運んできた美しい少女。
      「法師さま?」
       あまり見つめすぎていたようだ。
       怪訝な表情になった珊瑚が心配そうにこちらを見ている。
       弥勒は、彼女を安心させるように、その面に満面の笑みを浮かべてみせた。
      「まあ、今が幸せならそれでいいってことで」
      「法師さまは、今、幸せなの?」
       これだけ苛酷な運命を背負っていても──?
       言葉という形にできない珊瑚の問うような眼差しを見て、弥勒は彼女の言わんとしていることを瞬時に悟った。
       おもむろに三枝の枝に手を伸ばした弥勒は、淡く黄色い吉兆の花をその手に摘み取る。
      「たとえ、この先どのような苦難が待ち受けていようと、おまえがそばにいることが、私の幸せだ」
       おまえがそばにいてくれれば。
       それだけでいい。
       摘み取った三枝の花にふわりと口づけた弥勒は、慈しむような微笑とともに、その花を珊瑚に差し出した。
〔了〕
2007.6.12.
(作者未詳)