金木犀の章
予定では、もうそろそろ弥勒が楓の村へ戻ってくる頃である。
数日前、少しばかり厄介なお祓いを頼まれ、彼は依頼先の村へ出向いていた。
村の娘が次々と物の怪にとり憑かれ、昏睡状態に陥っている。その娘たちを救ってやってほしいとのことだった。
無論、珊瑚自身も同行することを申し出たのだが、害がおまえにまで及んでは、と弥勒に止められてしまった。
強引についていくこともできたが、彼を信用していないと思われるのが嫌だった。
しぶしぶ、珊瑚は楓の村に残り、弥勒一人を送り出したわけだが──
せめて、雲母を同行させればよかった。
そうしたら、行程にかかる時間を短縮させられたのに。
珊瑚は夕陽を目に映しながら、やきもきとその辺を歩き廻っていた。
弥勒を信じていないわけではないが、心配の種はつきない。
出先の村で、また娘を口説いているのではないかと気が気でない。
意味もなくうろうろしていた珊瑚は、いつの間にか、楓の小屋の周辺から離れ、村外れまで足を運び、気がついたら村から出て、弥勒が通るであろう一本道をのろのろと進んでいた。
(法師さまは、この道を使って帰ってくるはず)
一刻も早く逢いたい気持ちが、珊瑚の足を進ませる。
飛来骨も持たず、雲母も伴わず、ある意味、彼女らしくない行動だったが、弥勒への想いがそれにまさっていた。
次第に歩調が速くなる。
しばらく進んだところで、ふと、珊瑚は足を止めた。
辺りは仄暮れに染まり始めている。
(空耳……?)
誰かに呼ばれた気がした。
(法師さま?)
きょろきょろと辺りを見廻してみるが、人影はない。
けれど。
(あ、また──)
珊瑚は緩やかな斜面になっている道の左側へ視線を向けた。土手のような形状の下、低い位置に、幅の広い川が流れている。
──舟だ。
一艘の川舟が、こちらへ向かってゆっくりと川面を滑ってくる様が目に入った。
「法師さま」
舟の上からこちらに手を振っているのは、まぎれもなく弥勒だ。
数日ぶりにその姿を目にした嬉しさで珊瑚も手を振り返そうとしたとき、弥勒が一人ではないことに気がついた。
(なに、あれ。女連れじゃないか)
珊瑚の表情が険しくなる。
舟に乗っているのは三人。
弥勒と若い娘が向かい合って舟の中に腰を下ろし、男が一人、船尾で棹を操っている。
黄昏時だったが、舟が近づくにつれ、娘の姿かたちをはっきり視界に捉えることができた。
華やかな小袖を身にまとった、珊瑚と同じくらいの年頃の娘だった。
美しい顔立ちをしている。
珊瑚は唇を噛んだ。
もしかして、自分は見てはいけないものを見てしまったのだろうか──
舟上の法師と娘を強張った表情のままぼんやりと見つめていると、法師が男に何かを言い、うなずいた男の手によって、舟が岸に着けられた。
舟を降りようと立ち上がりかけた法師の袖を引き、娘が法師に何やら話しかけた。
珊瑚が見ているにも拘らず、法師は娘に向き直るとその手を握り、娘に答えているようだ。あるいはここまで乗せてもらった礼を言っているのかもしれない。
(それにしても)
と、珊瑚は思う。
(こうして見ると、法師さまって、絵になるな……)
美しい娘と手を取り合って見つめあう様は、地味な墨染めをまとっていても、それが却って彼の清雅さを際立たせているようで、二人は似合いの恋仲であるかのように見えてしまう。
それはまるで、かぐや姫の手を取る桂男を見ているようで……
(って、なんであたしが法師さまと他の女を似合いだなんて思わなきゃならないのさ!)
我に返った珊瑚はいたたまれない想いに苛まれながらも、二人から視線を逸らすことができなかった。と、不意に舟の上の娘が珊瑚のほうへ顔を向けた。
「……?」
その表情に珊瑚はひるむ。
明らかに敵意を含んだ眼差しだった。
(なんで、あたしが睨まれなきゃいけないんだ)
ますます不機嫌になった珊瑚は、舟から降りた弥勒が娘と男に向かって軽く頭を下げ、再び川面を滑り出した舟をしばらく見送ってから自分のもとへ足早に斜面を登ってくるまで、ずっと弥勒を睨みつけたままだった。
「ただいま戻りました。まさか、おまえがこんなところまで出迎えに来てくれるなんて」
「ああ、余計なお世話だったね。あの人を口説くところを邪魔しちゃって悪かったよ」
法師から眼を逸らし、つっけんどんに言葉を返す珊瑚に、法師は眼をぱちくりさせている。
「珊瑚……おまえ……」
弥勒はまじまじと珊瑚を見つめた。
「……な、何よ」
「なんて可愛いんだっ!」
がばっと正面から抱きつかれ、わずかによろめいた珊瑚は、反射的に両手を法師の背に廻して彼にしがみついた。
「やだっ、あたしってば……!」
「あああ、五日もおまえに逢えず、私もつらかったですよ」
「じゃなくて、今の女は誰なの!」
「道すがら、たまたま一緒になった娘とその供の者です。舟でこの先まで行くというので、乗せてもらいました。それもこれも、一刻も早くおまえに逢いたいがため」
珊瑚を抱きしめ、その背中を撫でさすっていた手が徐々に下へ降りていく。
「法師さまっ!」
尻をまさぐり始めた法師の手を、珊瑚が抓る。
「どさくさにまぎれてまた! 話はまだ終わってない」
「私はただ全身で珊瑚を感じたいだけですよ」
そのとき、弥勒からふわりと香った甘い匂いに、珊瑚ははっと身を強張らせた。
抹香の香りではない。
たとえば加持祈祷に使われる芥子の匂いでもない。
もっと甘い──艶かしい女を連想させる香りなのである。
(まさか、さっきの女の……?)
珊瑚は法師の袈裟の胸元を両手でがしっと掴み、そこに自分の顔を押し当てた。
「いけません、珊瑚。こんなところで……」
困ったような口振りで珊瑚をたしなめる弥勒だったが、その実、全く困った様子もなく、胸に顔を埋める娘をひしと抱きしめる。
「しかし、まあ、折角おまえがその気になったのだから、どこか人目を忍ぶ場所に行きましょうか」
「違うっ! 誤魔化さないで、法師さま。この匂いはなに?」
「匂い?」
弥勒が腕を解かないため、法師に密着したままの珊瑚が首だけ上へ向けるのへ、法師のほうも首だけ下を向けて珊瑚を見つめる。
「さっきの女の移り香? あの人とやっぱり何かあったんだ」
「ああ、これですか」
やっと珊瑚を放した弥勒が、緇衣の合わせに手を入れる。彼が懐から取り出したものは、薄紙を四角く折りたたんだ小さな包みだった。
法師はそれを珊瑚の手に乗せる。
「おまえへの土産だ」
「土産?」
大きく眼を見張った珊瑚が自分と紙の包みを見比べるのを見て、法師は微笑した。
「開けてごらんなさい」
そっと珊瑚が包みを開くと、小さな小さな橙色の花がいくつも現れた。花は、えもいわれぬ芳香を放っている。
「可愛い花……それに、とても甘い香りがする」
「珍しいだろう。大陸の木に咲く桂花という花です。お祓いに行った村で偶然見つけまして、この香りを珊瑚にも届けたくて」
珊瑚は驚いて法師を見つめる。──この香りをあたしに?
嬉しさが込み上げると同時に自分の邪推を恥ずかしく思い、珊瑚は小さな声で法師に告げる。
「ごめんね、法師さま。とっても嬉しいよ。ありがとう」
「かの楊貴妃は、この花を漬した酒を好んで飲んでいたそうですよ」
「この花を酒に入れるの? へえ……法師さまも飲んでみたい?」
「いえ、私は。さぞ甘い酒でしょうからな」
弥勒はおもむろに珊瑚の腰を抱き寄せ、小さな顎に手をかけた。
「同じ甘いなら、こっちのほうがいい」
口づけをせんと顔を近づけてくる法師から、珊瑚はわずかに顔を逸らす。少しうつむき、気遣わしげに辺りを気にしている。
「こんな往来で?」
「いいじゃないですか。誰も通っていないのだし」
「……法師さま、いつも長いんだもの」
恥ずかしそうにつぶやく珊瑚の声に、法師の頬が緩む。ならば、と両手で珊瑚の二の腕を軽く掴み、わずかに身をかがめる。
「じゃあ、おまえからしてください」
「あ、あたしからっ?」
そんなことできない! と珊瑚は頬を染めて首を横に振るが、法師の瞳が無言で促している。
己の鼓動の音ばかりがどきどきとうるさく耳についた。
「……頬でもいい?」
「できれば唇がいいのだが……いいですよ。珊瑚が口づけたいと思うところに」
珊瑚は桂花を載せた薄紙を丁寧にたたみ、自分の小袖の合わせに入れた。そして、身をかがめたまま珊瑚を待つ法師の両肩に手を置くと、そっと伸び上がる。
ふわ
彼の頬に、羽のように軽やかに娘の唇が触れた。
それだけの行為で朱に染まってしまった頬を恥じらいながら、娘は法師から身を離した。そして、ことさら法師から視線を逸らし、わざとぞんざいに言う。
「さ、帰るよ、法師さま」
法師と退治屋の娘はしばらく無言で歩いていた。
娘は己の衿元から香ってくる桂花の存在を確かめるように、時折そこに手を当てて、幸せそうに小さく微笑む。
やさしい表情をした法師は、そんな娘の様子を満足げに眺めていた。
と、ふと珊瑚は引っ掛かるものを覚え、首を傾けた。隣を歩く法師をちらりと見遣る。
「ねえ。本っ当に浮気してない?」
「まだ疑っているのか? してないから安心なさい」
「でもあたし、さっきの人に睨まれた」
「さっきの人?」
「舟の。本当に何もなかったの? あの人と何を話してたのさ?」
弥勒は小さくため息をついた。
「よければ今夜の宿をご一緒しませんかと言われたんです。しかし、許婚が迎えに来ているからと断りました」
「へっ?」
それで、あの人はあたしを睨んだわけ──?
しかも法師さま、今、許婚、って言った。
言葉につまって立ち止まり、じいっと自分を見つめる娘の耳元に唇を寄せると、弥勒は低く、鋭くささやいた。
「いい加減、おれを信じろ」
ぞくりとするその声音に珊瑚が微かに身を震わせる。
弥勒は、そんな珊瑚と視線を合わせ、にっこりと笑んだ。
「では、おまえからもう一度。詫びの印として」
「詫び?……の、しるし……?」
「今度は唇に、ですよ?」
その意味を理解した珊瑚の顔がかああっと熱を持つ。
「悪いと思ってるんでしょう?」
「そ、それはもちろん──」
「では、早く」
誘いを断るのに相手の手を握る必要はないはずだが、そこは完全にはぐらかされてしまっている。
「お、お詫びだからね!」
「はい」
「本当に、疑って悪かったと思っているから……」
「はい」
おずおずと、ぎこちなく珊瑚が法師の首に手を廻すと、弥勒も心もち身をかがめ、珊瑚の背に両手を廻した。
ぎゅっと眼をつぶり、えいっとばかりに法師の唇に自らの唇を押し付けた珊瑚はすぐに顔を離そうとしたが、すでに後頭部は大きな手で押さえられていた。
「……んっ?」
驚いて眼を開けると、眼を閉じた弥勒の瞼がすぐそこにあり、慌てて珊瑚はもう一度眼をつぶる。
結局、弥勒のいいようにされているのではないか。
けれど、困ったことに、そのようなことなどどうでもいいと思わせられてしまう。
懐にしまった桂花の甘い香りと法師の唇が珊瑚を酔わせる。
いつの間にかすっかり暗くなった東の空には白い三日月がぽっかりと浮かび、いつまでも重なったままの二つの影を見守るように、静かな光を放っていた。
〔了〕
2007.10.11.
(作者未詳)
金木犀が渡来したのは江戸時代というのが一般的ですが、参考にした本には「桂梶は金木犀で作られた梶」と書かれていました。
(金木犀の情報だけが持ち込まれ、桂とごっちゃになったという説もあるようです)
どちらにしても戦国時代にポピュラーな木ではないはずですが、どこかにひっそりと咲いていたら素敵だな、と思い、金木犀を使ってみました。