紫草の章
 頼まれていたお祓いをすませ、楓の家の前まで戻ってきた弥勒の眼が軽く見開かれた。
       ちょうど、凛々しく退治屋の装束に身を包み、飛来骨を携えた珊瑚が変化した雲母に乗ろうとしているところであった。
      「珊瑚? どこへ行くんです?」
      「仕事。法師さまが留守の間に依頼がきたの」
      「おまえ一人で?」
       錫杖を鳴らし、彼女に近寄った弥勒はわずかに眉をひそめてみせるが、珊瑚は当然といったふうに法師を顧みた。
      「あたししかいないじゃないか。犬夜叉はかごめちゃんの国へ行っちゃったんだから」
      「して、どこまで行く?」
      「山をひとつ越えなきゃならないんだ。楓さまが行くのは大変だろう? それに、あたしたちもいつもお世話になってるばかりじゃね」
      「今から山を越えていくとなると、泊まりですか?」
      「うん、そうなるね。でも、退治してほしい妖怪は雑魚みたいだから、明日には帰ってくるよ」
       じゃあ行ってくる、と言いかけた珊瑚の後ろ、雲母の背に、当然のようにおもむろに跨る弥勒。
      「……なに?」
      「知らない土地へおまえ一人でやるわけにはいかん。私も行きます」
      「子供じゃないんだから。法師さまは七宝と一緒にいてやってよ。それに、法師さまも仕事してたんだから疲れてるだろう?」
       しかし、引き下がるつもりなどないらしい弥勒はわざとらしく珊瑚の腰に手を廻すと、彼女の首筋に顔を埋めた。
      「七宝は楓さまが見ていてくださるでしょうし、村には遊び友達もいます。だが、私は一晩もおまえなしで過ごすと思うと……」
      「ちょっと。変な言い方しないでくれる?」
       きゅうっと珊瑚の腰に抱きつき、顔をすりよせてくる法師を振り払うように、娘は小さく身をよじる。
       弥勒と一緒にいられるのは嬉しいが、新たな村で、またぞろ、女たちに愛嬌を振りまかれるのだろうと思うと、正直、気が滅入るのだ。
      「法師さまは留守番してて」
      「嫌です」
       しばらく押し問答を続けていたが、てこでも動こうとしない弥勒に押しきられ、結局、珊瑚は彼の同行を許すのだった。
       あらかじめ楓から説明を受けていた珊瑚は、山里の畑を荒らす小物妖怪を退治したあと、てきぱきと山林の中にあった妖怪の巣の始末も行った。
       わざわざ法師の手を借りるまでもなく、黙々と依頼をこなし、依頼主の里長の家に退治を終えた報告に向かう。
       山林から山里へと向かう途中に広がる野には、小さな白い花が旬の季節を迎えていた。
      「綺麗だな……」
       夏も高地はいくらか涼しい。
       ふと立ち止まり、辺りを見渡すと、山野を吹き抜ける涼やかな夕風が結い上げた珊瑚の髪をしなやかに揺らした。
       娘の肩に乗る小さな猫又も眼を細める。
       清涼な大気と沈みかけた太陽、そして残照を受け、控えめな白い花を咲かせる一面の紫草。
       この景色を、法師さまにも見せてあげたい──
       ついてくるなと言った意地から弥勒には妖怪退治は自分一人でやると宣言したが、それでは、彼は今どこにいるのか。
       不意に不安な想いがたちこめて、珊瑚は邪念を払い落とすように首を振った。
       と。
      「珊瑚ー!」
       想い人の声がする。
       飛来骨を担ったままの珊瑚の顔が声の主の姿を探して、せわしなく右へ、左へと巡らされた。
      「珊瑚ー、こっちです。もう終わったんですかー?」
       風に流れてきた遠くからの声に珊瑚の瞳がようやく想い人を捜しあて、そして、瞬時に険を帯びた。
       白い紫草が揺れる緑の野の中に弥勒がいる。
       珊瑚に大きく手を振っている。
       ──里の娘たちに、囲まれて。
       ぎこちなく表情を強張らせたまま、珊瑚は弥勒を、ただ、見ていた。
      (何なの……あれ。あたしが心配でついてきたんじゃないの?)
       いささかも悪びれたふうもなくやわらかな笑顔でこちらに手を振る法師の姿を、珊瑚は裏切られたような気持ちで茫然と見つめる。
       一緒に見たいと思った黄昏時の風景を、彼は別の、幾人もの娘たちとともに見ていた。
      (やだ、あたし……なに期待してたんだろう)
       きゅっと唇を噛んで、眼の奥が熱くなるのを懸命にこらえ、珊瑚はそのまま踵を返した。
       弥勒を無視し、仕事の依頼主である里長の家へ向かった。
       里長の家に用意されていた部屋で小袖に着替え、飛来骨やその他の武具の手入れをしていると、障子の向こうに穏やかな気配が訪れた。
      「入りますよ、珊瑚」
       返事がないので障子を開けると、振り向きもしない娘の背と、当惑したような猫又の瞳が法師を迎えた。
      「珊瑚……? どうした、怪我でもしたのか?」
       心配そうなその声音に、己の表情がますますひどくなるのを娘は自覚する。
      「珊瑚?」
       肩に置かれた弥勒の手を思わず振り払っていた。
      「あんなことされると、あんたの周りの女にあたしが睨まれるんだよ!」
      「あんなこと?」
      「何人も女をはべらせて、遠くから、そのっ、手を振ったりとかっ……」
       視線を合わせずに声を荒げる娘の様子に、法師の口許が微かに緩む。
      「たいしたことじゃないでしょう。おまえがついてくるなと言ったから、娘たちとは暇つぶしに話をしていただけです」
      「女を口説く以外に時間をつぶす方法はないのか、あんたは!」
       怒鳴る珊瑚の腕を捕らえると、彼から逃げようとするその瞳を弥勒は強引に覗き込む。
      「やきもちは嬉しいが、もう仕事を終えたのだから、おまえも暇になっただろう? 夕餉をいただいたあと、一緒に散歩でもしませんか」
      「そんなことで誤魔化されたりなんか……!」
       なおも強がって片意地を張る珊瑚の顎を掴むと、法師は唇を重ねあわせようとした。
       ぱん! と彼の頬が鳴る。
      「あんたっていっつもそう! あたしを振り廻して、好き勝手やって。だからあたし、法師さまがついてくるの嫌だったのに……!」
       弥勒の戯れに珊瑚が本気で手をあげるのは珍しいことだった。
       叩きつけるように吐き出される言葉は震えていて、弥勒はようやく珊瑚の怒りが切羽詰まったものであることを知る。
       そんなつもりではない。
       本当に時間をつぶすだけの、弥勒にとってはほんの些細な挨拶みたいなものだった。
       それに、可愛らしい珊瑚の嫉妬は、ささやかな彼の楽しみとしてすでに定着していたのだから。
       そんなことでしか彼女の愛情を確認できない己を情けなく思うが、右手の呪いが、珊瑚のようにまっすぐに想いを表すことを躊躇わせる。
      「珊瑚……」
       彼女とて、彼の本心は解っているはずだ。
       それでも不安はつきまとうのだろう。
       彼自身が、少しでも珊瑚と離れているのを不安に思うように。
       弥勒から顔をそむけ、うつむく珊瑚の肩が小さく震えていた。
       誰よりも笑っていてほしい娘にこんな顔をさせた自分を悔いることすらやるせなくて。口惜しくて。
       雲母が控えめに主人の膝に寄り添い、心配げな眼を法師と娘に向けている。
      「珊瑚、私が悪かった──」
       心からの言葉に、ふ、と珊瑚が濡れた瞳を上げた。
      「おまえにそんな思いをさせるつもりは……いや、これも言いわけにしかならんが」
       法師の手が躊躇いがちに娘の手に重ねられた。が、そのとき、不意に第三者の気配が障子の向こうに現れたことを察知して、二人は動きをとめた。
       ややあって縁側を歩いてくる足音が聞こえ、二人がいる部屋の前で立ち止まる。
      「……あの、退治屋さん、いらっしゃいますか。入ってもいいですか?」
       若い女の声だった。
      「いいよ」
       珊瑚は弥勒から身を引き、低い声で短く答えた。
       すっと障子が開かれ、姿を見せたのはうら若い娘。
       珊瑚はまだうつむいて目許をぬぐっていたが、法師は娘に会釈する。
       と、部屋に入り、腰を下ろした娘はたちまち嬉しそうな笑顔になった。
      「やっぱり! 里のみんなが噂しているのを聞いて、そうじゃないかと思ったの。やっぱり、妖怪退治に来た法師さまって弥勒さまだったのね」
       その内容に驚いた珊瑚が顔を上げて娘を見、法師を見ると、法師も驚いた表情で娘を見つめていた。
      「茜……?」
       茜と呼ばれた娘はちらりと珊瑚を見遣る。
      「まさか弥勒さまが妖怪退治屋をされてるとは思いませんでした。お仲間を紹介してくださいます?」
      「あ、ああ」
       弥勒はやや困惑したような視線を珊瑚に向けた。
      「珊瑚、こちらは里長の娘の茜どのだ」
      「いやな弥勒さま。茜どのなんて他人行儀な。以前みたいに茜でいいですよ」
       見逃しそうなほどの変化だが、弥勒の眉が少し険しい。
      「茜どの。この娘は珊瑚といって、私の……」
       珊瑚は無関心を装い、茜に向かって軽くお辞儀をした。
      「珊瑚です。退治屋はあたしで、法師さまはその手伝いをしてくれてるだけ」
       そっけない珊瑚の言葉に、ちくりと胸が痛むのを今さらどうすることもできはしない。
      「しかし、茜どのの村だったとは。奇遇ですな」
      「旅の法師さまは訪れた村里のことなど、いちいち覚えていないのね。一夜をともにした相手のことも」
      「茜どの!」
       弥勒から視線をそらす珊瑚の肩がぴくりと震えた。
      「まぎらわしい言い方はおやめなさい。あのときは少し酒を呑んだだけでしょう」
      「酔いつぶされてしまったわ」
       茜はころころと明るく笑った。
      「あたしを酔わせて何をするおつもりだったの? それともあたしが酔いつぶれてしまったから、何もできなかったのかしら」
      「酌をしていただいた。それだけです」
       そっと気遣うように珊瑚を見ると、彼女は弥勒の視線を避けてうつむいていた。
       深夜、酒を酌み交わした仲──それだけでも、珊瑚には多大な衝撃には違いなかった。
       弥勒と珊瑚の間に気まずい空気が流れたまま、二人は夕餉を終えた。
       妖怪を退治したことへの礼を述べる里長に、疲れているからと早々に部屋へ引き上げたい旨を伝えたが、雲母を抱いて立ち上がった珊瑚に弥勒が続こうとすると、茜が法師を呼び止めた。
      「珊瑚さんはお疲れのようですけど、弥勒さまは平気でしょう? お酒でもいかがです?」
      「いえ、申しわけないが……」
      「それに部屋がないわ。まさか珊瑚さんと同じ部屋に泊まっていただくわけにはいかないし。あたしの部屋で一緒に呑みません? 弥勒さま。約束したでしょう? あの夜の続き」
       さりげなくそばへ寄り、法衣の袖を引く茜の瞳には挑発するような光がちらついて、あまりの間の悪さに弥勒は過去の自分に舌打ちしたくなった。
      「いいよ。あたしは休む。法師さまは呑んでくれば?」
       そして抑揚のない珊瑚の声に打ちのめされる。
       呼びとめる暇もなく彼女が戻る部屋とは別の部屋へ、いざなわれるまま、弥勒は足を運んだ。
      「どういうつもりです」
       茜と二人きりになるや否や、弥勒は硬い声で詰問した。
      「一年……いえ、もっと前になるわ。約束したでしょう? 呑み比べであたしが勝ったら、弥勒さま、あたしに心を開いてくれるって」
       茜の顔から、珊瑚の前で見せていた挑発的な色が跡形もなく消えていた。
       ただ、叶わぬ恋に苦しむ一人の女がそこにいる。
      「いいですか、弥勒さま? あの夜と同じ。呑み比べで負けたほうが相手に心を開く」
      「茜どの。そんなことをしても意味はない。何も変わりはしません」
      「弥勒さまはおっしゃったわ。あたしたちの間に何らかの縁があれば、再び巡り会うこともあるだろうって。そうしたら、もう一度ともに酒を呑もうって」
       燈台に火も灯していない暗い部屋の中で、茜は法師にすがりついた。
      「あの夜、あたしは──」
       お酒の力を借りてでも、あなたの懐に入りたかった。
       躰だけでもよかった。それすら不可能なら、いっそ、出会わなければよかった。
       ただ、抱きしめてほしかった。──嘘でもよかったの。
       夜が更ける。
       夜具に身を沈めた珊瑚は、枕元に寄り添って眠る雲母の背に掌を置き、声を殺して泣いていた。
      「……っ!」
       静寂の中、突然、障子の開く音に覚醒を余儀なくされ、戦慄した。
      「珊瑚」
       低い声音が闇を振動させる。
      「眠っているのか……?」
       微かな衣擦れの音が鼓膜を震わせ、横たわる自らの背後に彼が膝をついたのが解った。
      「珊瑚……」
       わずかな──ほんのわずかな酒の匂いに、珊瑚の意識が研ぎ澄まされる。
       そ、と肩に触れられ、触れられた肩が小さく跳ねた。
       彼女が起きていることは弥勒にも解っているはず。
       身を強張らせて動けずにいる珊瑚の背後に静かに横になると、彼は、儚いものを扱うように、夜具の上から彼女の身体を抱きしめた。
       そして、少しずつ抱きしめる腕に力を込めた。
      「何も案ずることはない」
       うねる漣のように、弥勒は言葉を紡ぐ。静かに。──静かに。
      「酒を呑みながら、昔語りをしていただけだ」
       本気で心を寄せてくれた娘がいた。
       ゆえに、何もしてやることができなかった。
       それだけのことだ。
      「茜とは何もない。今宵も。昔も」
       抱きしめている珊瑚の肩が嗚咽をこらえるように小さく震えている。
       弥勒は、枕に顔を伏せている珊瑚の髪をかきあげ、唇を寄せた。
      「私の心はここにある。いつでも、おまえのもとに……」
       茜の想いに応えてやることはできない。
       だから、伝えた。
       呑み比べにはわざと負け、己の心にすでに一人の娘が住みついている事実を打ち明けた。
       酔った振りをして、心の奥深くにしまっていた想いを、珊瑚に直接伝えることのできない想いまでをも、残酷なことと知りつつ、吐露した。
       茜も悟っているだろう。
       法師への恋慕をはっきり口にする前に、先手を打たれて言葉を封じられたのだと。
      「う……」
       愛しさに身を焦がし、じっと髪に顔を埋めていると、幽かな嗚咽を洩らして珊瑚が身じろいだ。
      「信じて……いい、の……?」
      「ああ。私の全ては、すでにおまえのものだ」
      「も……少し。法師さま、このままで、いて……くれる?」
      「おまえが許してくれるなら、朝まで」
       身を縮こまらせて固く手を握りしめている珊瑚の拳を包み込むように、大きな手が重なった。
      「……口づけても?」
      「いや。顔、見ないで」
      「見たい」
      「いや」
      「どうせ暗くて見えん」
      「どっちでもいや」
       駄々をこねるような様子すら、途方もなく愛おしくて。
       このまま闇にまぎれて腕の中にとじこめておきたい。
       黎明の中で少しはにかむいつもの顔を確かめたい。
       失いかけた大切なものをようやく我が手に取り戻した心地に安堵し、珊瑚にもたれかかった弥勒の口許に、けぶる微笑が刻まれた。
〔了〕
2008.6.26.
(額田王)