撫子の章

 愛しい娘と夫婦になって、最初に授かったのは双子の女の子だった。
 弥勒にとっては一度に二倍の喜びを与えられたといえようが、育てる手間も二倍かかるわけで、その負担は主に珊瑚にかかってくる。
 初めての子育てに大わらわの妻の負担が少しでも軽くなるよう、弥勒は、自らも積極的に子供の世話をすることを心がけていた。
 比較的自由の利く生業だからこそできることだが、珊瑚はそんな弥勒の心遣いに感謝し、日々、幸せを実感していた。

 台所の土間に置いた盥に、沸かした湯が張られた。
 そこに、桶で水を足し、湯加減を調節する。
「どう?」
「こんなものですかな」
 傾けていた桶を戻し、珊瑚は自分も盥に手を入れて湯の温度を確認した。
「ちょうどいいね。じゃあ、入れるよ」
 きりりとたすき掛けをした二人がいる土間の横の板の間には、手拭いやら湯帷子やらがたくさん置かれている。
 その中に埋もれるようにして、双子の赤子が寝かされていた。
 珊瑚はその一人のむつきを脱がせ、小さな肢体に手拭いを掛けると、抱き上げてそっと湯に入れた。
 赤子はうとうとと微睡んだままで、珊瑚は慎重にまだ据わらぬ首を支えて湯に浸し、もう片方の手で小さな身体を洗った。
 弥勒は赤子の沐浴を見守りながら、タオル代わりの大人用の湯帷子を持って、そこに控えている。沐浴を終えたあと、この湯帷子に包んで身体を拭いてやるのだ。
「珊瑚、あちらの子は珊瑚に似ていますが、こちらの子は私に似ていませんか?」
 気持ちよさそうに湯につかる我が子を眺めながら、板の間に寝かされているもう一人を振り返って、嬉しそうに弥勒が言った。
「うそ。二人ともそっくりだよ。でも、似てない双子もいるから、この子たちも、もう少し大きくならないと判らないけど」
「二人とも珊瑚に似たら、さぞかし可愛らしい女の子になるだろうな」
 珊瑚の幼い頃を想像して、微笑みながら弥勒が言うと、珊瑚は考えるふうに真面目な顔になった。
「あたしは、どちらかというと法師さまに似てほしいな」
「どうして?」
「あたしの顔って、ちょっときついっていうか。法師さまのほうがやわらかい印象があるだろう? 女の子だし、やさしい顔立ちになってほしい」
「おまえはきついのではなく、凛々しいんですよ」
「それ、褒め言葉?」
「私は好きですよ」
 弥勒は盥の向こう側から手を伸ばし、指先で赤子の頬を撫でた。
「容姿や声や雰囲気や、全てが凛として、気高い印象があって、それでいて、なよやかで女らしい部分も併せ持っていて……男よりも強いのに、守ってやりたくてたまらなくなって……可憐で楚々として。ああ、美しいのは言うまでもありません。それから」
 珊瑚は真っ赤になってうつむいている。
「もういいよ。それ以上聞いていると、この子を湯に落としてしまう」
 弥勒は笑って沐浴を終えた娘を受け取り、湯帷子で包んだ。
「では、次の子は私が入れましょう」
 湯帷子でくるんだ娘を珊瑚に手渡し、彼は板の間に寝ているもう一人の娘を抱き上げる。
 そうして、小さな娘に湯を使わせながら、弥勒は微睡んでいるその子の顔をじっと見つめた。
「本当に可愛い。こんなに可愛い子を二人も産んでくれて、珊瑚には心から感謝していますよ」
「子供を産んでくれる人なら、誰でもよかったってわけじゃないよね?」
 悪戯っぽく、甘えるように確認してみれば、弥勒は心底驚いたように、たしなめる眼で珊瑚を見た。
「本当に私の子を産んでもらいたいと思ったのはおまえだけです。よく解っているでしょう? 冗談でも、誰でもよかったなどとは言わないでください」
「そうだね、ごめん」
 幸福に満たされて珊瑚はうなずく。
「おまえが愛しくて愛しくて、だから、おまえに私の子を産んでほしかったんですよ」
「……うん。あたしも、法師さまの子が欲しかった。だから、幸せ」
「私の子が欲しかった、それだけか?」
 彼女からさらに言葉を引き出そうとする弥勒は楽しげで、雰囲気につられ、珊瑚は思い切って言葉を続けた。
「法師さまがとても愛しいから。愛しくてたまらなくて、だから……」
 赤子に湯を使わせる弥勒の手と、もう一人の赤子の身体を拭く珊瑚の手が、ゆるゆると遅くなり、そして止まった。
 ほんのりと色づいた珊瑚の頬がはっとするほど美しくて、弥勒は彼女から目が離せなかった。そんな弥勒の視線に捕らわれて、珊瑚も彼の眼をじっと見つめる。
 甘く胸がときめき、頬が熱を持って、するといきなり、裏口の戸がこんこんと叩かれた。
 二人そろってそちらへ目をやれば、いつの間にそこにいたのだろう、犬夜叉と七宝の姿に、弥勒と珊瑚は大きく眼を見張った。
「犬夜叉──! 七宝も……」
 犬夜叉は、見てはいけないものを見たような、何ともいえない複雑な表情で少し伏し目がちにしていたが、やがて、ため息とともに口を開いた。
「おめえら、いつもそんなことやってんのか?」
 呆れたような犬夜叉の言葉に、弥勒は怪訝な表情を返す。
「赤子の肌は弱いですから。毎日沐浴させているんですよ」
「いや、そうじゃなくて。珊瑚が美しいとか法師さまが愛しいとか」
 げんなりとため息をつく彼を見て、弥勒と珊瑚は顔を見合わせる。たちまちのうちに珊瑚が耳まで赫くなった。
「やだっ、聞いてたの? 来てたんなら声をかけてくれれば……」
 彼女は熱を持った顔を隠すように犬夜叉たちに背を向けて、手早く赤子に衣を着せ始めた。
「七宝が、赤ん坊を見たいからついてきてくれと言うので来てみれば」
「な? 犬夜叉。一人では割り込めん雰囲気じゃろう?」
 仔狐は犬夜叉の衣を引いて訴える。
 弥勒と珊瑚は意外そうに七宝を見た。
「何故です? いつでも歓迎しますよ。赤子たちの沐浴を終えたら、茹で栗などあるので、一緒に食べましょう」
「そうだよ、七宝。この子たちも喜ぶ。焼き栗のほうがいい? すぐ焼けるよ」
 半妖の少年はちらと仔狐を見下ろした。
「よかったな、七宝。思う存分、惚気られてこい」
 幾分、居心地悪そうに踵を返そうとする犬夜叉を、法師の声が引きとめた。
「犬夜叉も遠慮せず。いい酒がありますよ」
「い、いや、おれは今日はいい。またな」
 やはりどこか気まずそうに、片手を軽く振って、犬夜叉は裏口から身を引いた。
「おらを見捨てる気かー!」
 赤子が気になる七宝だったが、どうも、一人ではここにいたたまれないらしい。瞬く間に犬夜叉を追いかけて、駆けていってしまった。
「なんだったんでしょう?」
「さあ?」
 顔を見合わせて首を傾ける弥勒と珊瑚は、事態を呑み込めていないようだ。
 二人は気を取り直して、湯から二人目の子を上げ、身体を拭いて、衣を着せた。
「法師さまがいてくれると、ほんと助かる」
「明日は仕事が入っていたな。おまえ一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫。子供たちと家を守るのがあたしの仕事だもの」
 そんな珊瑚が愛おしくて、彼女になら安心して家も子供も任せられると信頼しているが、つい、そばにいて守ってやりたくなる。
「本当はおまえと子供たちのそばにずっとついていたいのですが」
「うん。あたしも本心は法師さまにそばにいてほしい」
 はにかんだようにつぶやく妻の言葉にさらに愛しさが増す。
 甘い会話を飽きずに繰り返しながら、弥勒と珊瑚は沐浴に使った物を手際よく片付けていった。
 赤子たちは眼を覚ましていたが、機嫌よく微笑んでいるようだ。
「こちらの子が私似で、そちらの子が珊瑚似だな」
「違うよ、さっきは反対の子を指して言ってた」
「え、合ってますよ。こちらが……いや、二人ともそっくりだ。どちらも珊瑚に似ているな」
 弥勒と珊瑚は顔を見合わせ、やわらかに微笑を交わした。
 二人の手が、それぞれ一人ずつ、赤子たちの衣を整える。
 そろいの衣には、撫子の花の模様が染め抜かれていた。

〔了〕

2011.10.29.

うるはしみ 我が思ふ君は なでしこが 花になそへて見れど飽かぬかも
(大伴家持)