梨の章

 はらり はらり

 思い出したように葉が落ちる。
 葉の色を緑から黄色味を帯びたものへと様相を変えつつある林の中で、珊瑚はじぃっと落ちてくる葉の数を数えていた。
 口をへの字に結び、思いきり眉根を寄せ、木の根元に座って、時折り落ちてくる黄蘗色の葉を睨みつけている。
 そんな娘の傍らでは、仔狐が懐から取り出した宝物を地面に並べ、ひとつひとつ丁寧に調べていた。
「奇麗じゃのう」
 七宝が木洩れ日にかざしたのは、かごめからもらったビー玉であった。
「のう、珊瑚。珊瑚はどの色が好きじゃ?」
 鮮やかな色を納めた硝子の玉を五つ六つ差し出すも、隣に座る娘は、頬杖をついて、険しい表情で宙を睨んだまま。
 仔狐が大袈裟に洩らしたため息も耳に入らないのか、彼女の思考はかの法師のことで占められていた。
(悔しい。まかれた……)
 この村に到着してすぐ、ちょっとかごめと七宝と話をしているうちに、弥勒の姿が見えなくなっていた。
 犬夜叉によると宿を探しに行ったということだったが、
(ついでに立ち寄った先で、女を口説いているに違いないんだからっ)
 立てた膝を両手できゅっと抱きしめ、苛々と己の膝に顎を埋める。
 一応、彼とは将来を約束している。けれど。
(でも法師さま、これからも浮気するって言ってたし)
 ともに生きようと言ってくれたあれは、その場の方便だったのかと、我ながら狭隘なことを考えてしまう。
 珊瑚はそんな自分がどうしようもなく卑屈に思えて、嫌だった。
「あ、弥勒じゃ」
 不意に聞こえた七宝の声に、はっと顔を上げた。
 紫の袈裟をまとった彼が、彼女の愛猫に先導されて林の小径を歩いてくるのが目に入る。
「こんなところにいたんですか」
 苛立つ気持ちが顔に出て、つい睨んでしまう珊瑚とは対照的に、法師はたおやかに微笑んだ。
 彼が立ち止まると、揺れた錫杖が清かに鳴った。
「二人だけですか?」
「でーとだよ! 七宝とでーとしてたの」
 突っかかる珊瑚を法師は軽く受け流す。
「はいはい。犬夜叉とかごめさまは?」
「あっちもでーとじゃ。たまには二人きりにしてやらんとな」
 七宝はのんびりと玩具やどんぐりを片付けている。
「それで七宝が珊瑚の相手をしてくれてたんですか。ご褒美にこれをあげましょう」
 弥勒が左手に持っていた果実を差し出すと、幼い妖狐は大きく眼を見張った。
「おお、梨ではないか。よい香りじゃ。食べごろじゃな」
「梨ではありませんよ、七宝。ありの実です。“無し”より“有り”のほうがいいでしょう?」
 小さな手を出して嬉しそうに受け取る七宝の様子に、法師は眼を細めた。
 ありの実は梨の忌み言葉である。
 そんな二人を疑わしげに見比べて、珊瑚は大儀そうに立ち上がった。
「法師さま。どうしたのさ、それ?」
「今宵の宿を頼んだ家でいただきまして」
「……女から?」
「はあ、まあ」
 上目遣いで下から睨みつける珊瑚に、法師は頬を掻いて苦笑を返す。
「女からなんだ。どういう女?」
「下働きの娘ですよ。別にやましいことはありませんって」
 屹と睨んでくる娘を、むしろ嬉しそうに軽くいなし、弥勒は七宝の頭を撫でて言った。
「悪いが七宝、犬夜叉とかごめさまに、今宵の宿が決まったと知らせてきてくれんか?」
「解った。行こう、雲母」
 ありの実を大事そうに持った仔狐は、元気よくうなずき、雲母を伴って即座に踵を返した。
「ああ、七宝。大きな梨の木がある家ですから、すぐ判ります」
「解っておる。村で一番大きな家じゃな!」
 追いかけてきた法師の声にさも当然といった口調で応え、七宝は雲母と一緒に林の中を駆けていった。
 その姿を見送ってから、弥勒は鷹揚に珊瑚を振り返る。
「では行きましょう」
「どこへ? 宿を頼んだ家?」
 目の前で堂々と他の女に言い寄る気か? との牽制を含んだ珊瑚の問いに、法師はあっさりと首を横に振った。
「その家の方に聞いたんですが、山の木々が色づいていて、今、ちょうど見頃だそうですよ。一緒に観に行きませんか、珊瑚?」

* * *

 少し山道を登ると、麓より黄葉が濃く、鮮やかだった。
「この辺りは梨の木が多いですな」
「法師さま、“無し”は嫌いなんじゃなかったの?」
 足をとめた弥勒の背後で、まだ彼の浮気を疑っている珊瑚が皮肉めいた口調を投げ掛けたが、そんな珊瑚を顧みた弥勒は、愛しそうにふっと笑んだだけだった。
「私は、この呪いのせいで」
 と、右手の掌に視線を落とす。
「以前は、何かを所有することが怖かった」
 静かな弥勒の声音にはっとして、珊瑚はちくりとした胸の痛みに口をつぐむ。
「しかし、無いより有るほうがいいと思うものが多くなりましてね。こんなふうに考えるようになったのは、犬夜叉たちと出会ってからだな」
 珊瑚は法師から眼を逸らした。
 視界にあるのは、美しくも鮮やかな秋の彩り。
「信頼できる仲間。気が置けない友。守るべきもの。大切な人。家族」
 弥勒の瞳がふと流れ、珊瑚を映した。
「愛しい――“妻”」
 珊瑚の胸がとくりと鳴った。
 弥勒の視線は黄色く色づいた梨の葉に注がれる。
「なし……か。これらの梨の木に花が咲く頃には、おまえと私はどうしているだろう」
 まだ奈落を追い続けているのか。
 すでに風穴の限界を迎えているか。
 それとも――
 思いの丈を込めて珊瑚を見つめる。
 この娘を妻に迎え、自らの家庭を築こうとしているだろうか。
 それを望んでいいのだろうか。
「珊瑚、おまえは? どう思う?」
 熱い視線に染められるように頬を熱くし、少しうつむいた娘は、己の鼓動を抑え、ゆっくりと黄色い樹上を振り仰いだ。
「この木に花が咲く頃、あたしは……」
 珊瑚の瞳が最愛の人の姿を求めた。
 彼女が好きな、仄かに微笑を揺らせた表情で、彼は彼女を見つめていた。
「きっと、法師さまとともにいる。法師さまの隣にいて、それで――
 春の花も、夏の空も、秋の山も、冬の雪も。
 あなたがいれば、それだけで満ち足りた日々になる。
 巡る季節をずっと法師さまと一緒に過ごす未来が叶ったら……
「法師さま」
「なんです?」
「綺麗、だね……」
 法師さまと一緒だから、綺麗。
 眼に映る全てのものが美しく、愛おしい。
 弥勒とともに見た今日という日の黄葉は、いつまでも珊瑚の心に残るだろう。
「七宝に」
「うん?」
 淡い微笑を浮かべる珊瑚の背後に忍び寄り、弥勒は彼女をやわらかく抱きしめた。
 一瞬、驚いて身を強張らせた娘は、だが、すぐに力を抜き、自分を抱く法師の腕に手をかけた。
「黄色が好きって……戻ったら、黄色のビー玉が好きって七宝に言わなきゃ」
 彼の手を取り、そっと口づける。
 弥勒は軽く眼を見開いたが、何も言わず、抱きしめている珊瑚の髪に口づけを返した。

 いくつ季節が巡っても、変わらずそばにいてほしい。
 そんな願いを込めて。

〔了〕

2008.10.8.

もみち葉のにほひは繁し 然れども 妻梨の木を手折りかざさむ
(作者未詳)