夏草の章

「この家だね」
「ああ。思ったほど妖気は強くはないな」
 ある農家の前で珊瑚と一緒に足をとめた弥勒は、その家の玄関から中に向かって声をかけ、出てきた女性に、夢心の代理で妖怪退治に来た旨を告げた。

 弥勒と珊瑚が夫婦となってからしばらくが経つ。
 夢心の寺を訪れるのは、祝言をあげた報告に来て以来だ。
 この日、ご機嫌伺いに酒を持って寺を訪れた愛弟子とその妻を、和尚は相好を崩して歓迎したが、それは自分の代理が来てくれたことに対する歓迎の意だったらしい。
 昨日、近くの村から持ち込まれたという相談を弥勒に押しつけ、酒を受け取り、夢心は悠々と寺の中へ入ってしまった。
 弥勒と珊瑚は顔を見合わせ、苦笑する。二人はついさっき登ってきた長い石段を下り、麓の村に降りて目的の家を訪ねることにした。
 妖気を放つ家はすぐに見つかった。
 だが、これくらいの妖気なら大したことはないと思われる。

「まあ、弥勒さまじゃないかい? 一年ぶりくらいかね。立派になって」
 痩せた中年の女性の親しげな声に、珊瑚は顔をあげて弥勒を見た。
「ご無沙汰しております。怪異があったそうで。お祓いにまいりました」
「何かいるみたいなんだよ。家族はみな、体調がすぐれないし、夏だというのに寒くてたまらないし。これは変だってことになってね。待ってくださいな。今、亭主を呼んでくるよ」
 女性が家の中へ引き返したのを見て、珊瑚は弥勒の顔を見上げた。
「ここ、檀家なの?」
「夢心さまがあのようにいい加減な方ですからね。檀家のようなもの、と言ったほうが」
 すぐにその家の主人がやってきて、そこにいる弥勒と珊瑚を見比べ、病みやつれたような蒼い顔で大儀そうに笑顔を作った。
「これは弥勒さま。修行の旅とやらに行っていたと聞きましたが、お寺に戻られたので?」
「寺に戻ったわけではないのですが、今日は私が夢心さまの代理に」
「お連れ様は……?」
 珊瑚ははっとした。
「妖怪退治屋の珊瑚と申します」
 いつもの癖で生業を名乗ってしまった珊瑚に、弥勒は愛しそうに苦笑した。
「違うでしょう、珊瑚」
 慌てて珊瑚は丁寧に頭を下げて、言い直す。
「法……弥勒さまの妻の珊瑚です。今後、お見知りおき願います」
「弥勒さまの……これはこれは。こちらこそよろしくお願いしますよ。器量よしの嫁御どのですな」
 二人はさっそく妖気を放つ家の床下を調べ、三方を弥勒が破魔札で封じた。
 珊瑚は武器を持ってきていなかったので、その家で鎌を借り、札の効果で追い出されてくる妖怪を待った。
「来たぞ」
 出てきたのは大きな青大将であった。
 札の法力にのたうち、苦しみながら床下から外へと這い出てきた蛇の妖は、瘴気を吐き、そこにいた珊瑚に無造作に牙を剥いた。
 対する珊瑚は、動じることなく、鋭く振るった鎌で蛇の頭を落とす。
 いつの間にか集まっていた見物人から歓声が湧き起こった。
「すげえ!」
「さすが弥勒さまの嫁御じゃ」
 特に子供たちは瞳を輝かせて、二人の妖怪退治の様子を見つめていた。
「この蛇が人間の気を吸って、妖力を得ていたようですな。このまま放っておけば、死者が出たでしょう」
 法師が家人に説明した。
 青大将が完全に事切れてから、恐る恐る、男の子たちが近寄ってきた。
「触っても大丈夫?」
「大丈夫だよ。埋めて、供養しなくちゃね」
 珊瑚の指示で、村の子供たちが山の麓の林に埋めることになった。
 頭を落とした六尺もの蛇を、数人で運んでいく様を見送り、弥勒は依頼主に懐から取り出した薬草を手渡した。
「精気を吸われていたのですから、しばらくこれを煎じて飲んでいれば、じきによくなりますよ」
「あ、ありがとうございます」
 礼を述べるこの家の亭主と女房に弥勒は微笑を向ける。
 子供たちだけで大丈夫と判断し、すぐ戻ってきた珊瑚は、鎌を返してくると言って納屋のほうへ向かった。
 幼い頃の彼を知る村人たちに囲まれ、言葉を交わしていた弥勒は、ふと、珊瑚が納屋の前で立ちつくす姿を目にとめた。
「ちょっと失礼します」
 不思議に思った弥勒が彼女の背後まで近寄ると、納屋の中から話し声が聞こえた。
 若い娘たちがひそひそと噂話に花を咲かせているらしい。
 それだけなら何ということもないが、珊瑚の沈んだ表情を見て、弥勒は娘たちの声に耳を澄ませた。
「……あれって、やっぱり夫婦なの?」
「妖怪退治屋って聞いたわよ。一緒にいると都合がいいだけじゃない?」
「だって、弥勒さまだもの。あの娘は妻のつもりでも、すぐに捨てられるに決まってる」
 やっかみもあるのだろう、珊瑚に対する悪意のある言葉が飛び交っている。
 黙って耐えている妻の肩に手を置き、うつむく彼女の手から、弥勒は鎌を受け取った。そして、躊躇いなく納屋の扉を開けて、中に入った。
「何の内緒話ですか?」
 突然現れた法師に、三人の村娘が息を呑んで彼の顔を見つめた。
 話を聞かれただろうか――三人は互いの顔を探り合っている。
「私の妻がお借りした鎌をお返しします」
 穏やかな口調だが、反論を許さない意志を込めて弥勒は言った。
 微動だにしない娘たちを横目に鎌をもとの位置に戻し、魅惑的な笑みを浮かべて会釈して、彼は納屋をあとにした。

 二人はすぐに村を辞去した。
 布施の野菜を持たされ、夢心の寺に向かって帰る道すがら、弥勒は、足取りの重い珊瑚を気遣うようにちらちら眺める。
「嫌な思いをさせてすみません。……私のせいだな」
「法師さま、あの村の娘たちとも親しいんだ」
「子供の頃、何度も托鉢に来ていましたから。昔馴染みといいますか。でも、それだけの間柄です」
 それでも不安げな珊瑚を安心させるように、弥勒は冗談めかして言葉を続けた。
「みな、私が妻を迎えたことが気に入らないだけですよ」
「法師さまってば、女はみんな自分に憧れているとでも思ってんの?」
 ふふっと小さく珊瑚は笑う。
 悪戯っぽい彼の口調に、どこかほっとしている自分がいた。
「そうであれば嬉しいが、今は珊瑚一人が私を好きでいてくれればそれで満足ですよ」
「調子いいんだから」
 遠雷が聞こえた。
 ふと、弥勒が空を見上げた。
「一雨来そうだな。急ぎましょう、珊瑚」
 瞬く間に空が暗くなった。
 両側に丈高い草が生い茂る道を足早に進み、二人は道端のお堂の中へ駆け込んだ。
 間一髪の差で、ざあっという音とともに辺りを夕立が包み込む。
 二人はしばし無言で激しい雨を見つめていた。
 もらった野菜の束を足許に置き、弥勒は隣に立つ珊瑚を顧みた。
「今日のことはもう気にするな」
「……うん。解ってる」
「私たちは早く子を儲けましょう」
 珊瑚は怪訝そうに弥勒を見た。
「なんで?」
「それが、私がおまえに夢中だという証明になるでしょう?」
 見つめられ、ふと恥ずかしそうに瞳を伏せる珊瑚の髪を、弥勒の手が軽く撫でた。
「本当に、おまえは私には過ぎた妻ですよ」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、過ぎた妻じゃなくて、法師さまに相応しい妻にあたしはなりたい」
 大真面目にそう思っているらしい珊瑚の様子に、弥勒はちょっと微笑んだ。
「私はおまえに相応しい男ですか?」
「法師さまは、あたしには勿体ないくらいだよ」
 言ってから気づいて、口を押さえた。
 弥勒はなぶるように珊瑚の額髪を指に絡めて、くすりと笑った。
「まあ、似合いなんだろうと思いますよ。そういうところも含めて」
「……そう、かな」
「そうです」
 そのまま額髪を払って妻の頬に掌をあて、おもむろに身をかがめようとした法師の傍らを珊瑚はするりと抜けた。
「夕立やんだよ、法師さま」
 激しい雨はいつの間にかやみ、雲の合間から陽が射している。
 タイミングを逃した法師は、ため息をひとつ。
 珊瑚に続いてお堂から外へ出ると、周囲の夏草が雨を含んで瑞々しい色に染められていた。
「さ、早く帰って、酒盛りの準備だ」
「酒盛り?」
「夢心さまと三人で。嫌なことは忘れて、ぱーっとさ」
「おまえ、そんなところは私に似なくていいですよ」
 野菜を持ち上げ、珊瑚を促し、弥勒は濡れた土道を歩き出した。
「ま、どちらにせよ、私の酒には付き合ってもらいますが」
「望むところだよ」
 雨のあとの風が涼しい。
 重苦しい気持ちが少し楽になっていることに気づき、空が代わりに泣いてくれたのだと珊瑚は思った。
 水たまりが空を映し、道を横切る蛙がいくつもの波紋を作った。
 夏空の下、仲睦まじく歩む二人の姿が次第に小さく遠ざかっていった。

〔了〕

2010.8.12.

人言【ひとごと】は夏野の草の繁くとも 妹と我れとし携はり寝ば
(作者未詳)