思い草の章
静かに、だが決して浅くはない口づけを交わした唇が、そっと離れた。
抱き合ったまま、潤んだ瞳を探るように見つめる弥勒の漆黒の瞳から、珊瑚は視線を逸らさなかった。
「もっと、して」
低い声で言い、彼の背を抱きしめた両手にも、そのまま解かずに力を込めた。
「あたしの気持ちが伝わるまで、やめないで」
「珊瑚……」
普段の珊瑚からは考えられないような科白に、法師はやや困惑したように彼女の名をつぶやいた。
「やはり、私が悪いのか」
そんなふうに真摯に問われたら、己は子供じみたわがままを言っているのだろうかと思ってしまう。
けれど、わがままであろうが、子供じみていようが、珊瑚は迸る気持ちを抑えることはできなかった。
「法師さまは、大人だ」
彼女の肩に両手を置き、話をするための適度な距離を取ろうとする彼の背中を再び強く抱きしめ、珊瑚は法衣の胸元に頬を押し付けた。
「法師さまの考え方はいつも大人で、法師さまは何でも知っていて。あたしみたいに感情に振り廻されることもない。でも……」
ともすれば震えそうになる声を、珊瑚が必死に制御しようとしていることに弥勒は気づく。
気を抜けば激流に流されてしまいそうな小舟の舵を取るように。
「時々、解らなくなる。法師さまは、本当にあたしの気持ちを知っているの?」
珊瑚の気持ち?
弥勒は彼女の髪を撫で、なだめるように声を発したが、その声は掠れていた。
「怒っているのか? 私は、ただおまえには幸せになってほしいと」
「法師さまの幸せがあたしの幸せなんだよ? あたしが他の男のところへ嫁にいくことが法師さまの幸せなの? そんな幸せの押し売りなんか、いらない」
一瞬ひるみ、弥勒は言葉をつまらせた。
そして、傍らの太い松の枝のほうへ手を伸ばし、錫杖を立てかけると、改めて両手でしっかりと珊瑚の華奢な肢体を抱いた。
「それはおまえのことが愛しいからで」
「そんな建前が聞きたいんじゃない。もっと単純なことなんだ。法師さまがいなくちゃ、あたしは幸せじゃない。それだけのことなのに」
顔を上へ向けて彼の顔を凝視する珊瑚の瞳は今にも涙がこぼれそうで、彼女にこんな顔をさせているのは己なのかと、弥勒は唇を噛む。
「法師さまが大事にしたいのは本当にあたし自身? 法師さまが考える理想の幸せの中にあたしを閉じ込めて満足したいだけじゃないの?」
「馬鹿な! 滅多なことを言うな。おまえ自身が大切に決まっているだろう!」
途端にぽろぽろとこぼれ出した娘の涙にぎょっとなった。
「さ、珊瑚……」
女を泣かせたことでこれほどの罪悪感を覚えたのは初めてではないだろうか。
「ほ……し、さま……あたし……」
珊瑚は涙を拭おうと彼から身を離そうとしたが、今度は彼のほうがそれを許しはしなかった。
「手を――解かないでくれ。涙なら、私の袈裟で拭いて構いませんから」
「袈裟が汚れちゃう」
それでも、珊瑚は両手を彼の背に廻したまま顔を彼の胸元に埋め、ふっと、小さく安堵したような息を洩らした。
そんな娘を、弥勒は、ある種の驚きをもって見下ろしていた。
己にひたむきな恋情を抱いてくれた娘。
色めいた言動をとると、すぐに真っ赤になる純情にすぎるほどの娘。
そう、たとえば、秋、ススキの陰に隠れて人知れず咲く思い草のように、ひっそりと下を向いて、彼女は秘めた想いに心を乱していた。
そんな己への想いに苦しむ彼女の姿に耐え切れず、自らも秘めていた恋慕を明かし、彼女の心を正面から受け止めた。
そのときから、生涯、珊瑚とともに在りたいと願ってきた。――そのつもりだった。
けれど己は何も理解していなかったのかもしれない。
(結局、どうあがいても、おれは珊瑚には敵わないのだな)
生と死は表裏一体だ。
それを知り、珊瑚はすでに覚悟を決めていたのだから。
「あたしが法師さまを好きな気持ちは、法師さまにも、あたしにも、どうにもできるものじゃない」
ぽつりと珊瑚がつぶやく。
「あのとき、法師さまが子を産んでくれって言ってくれて。あたし、とても幸せだった」
この娘とともに生き、この娘とともに闘う。
そう覚悟したはずなのに。
解っていても、珊瑚には生のみを望んでしまう。
「……おまえとともに在りたいと望みながら、私のほうが恋に惑うようになってしまったか」
弥勒は自嘲気味に唇をゆがめた。
己は本当に珊瑚を幸せにできるのかと。常に不安に苛まれていた。
「あたしはもう、思い悩みはしない」
可憐な娘はきっぱりと言う。
「だから、法師さまも迷わないで。今さらあの言葉を取り消さないで。……あたしのためとか、無理に考えないで」
それは珊瑚なりの、愛する男への精一杯の懇願だったのだろう。
この娘は風穴の呪いを含め、ありのままの己を受け入れてくれている。
純粋な喜びに満ち、弥勒は心が清められる気がした。
「珊瑚。ひとつだけ、言いわけさせてもらえませんか」
問うように目線を上へあげた娘に、法師はやわらかい微笑みを向けた。
「思い悩むのは、おまえを愛するが故なのだと」
黒曜石のような瞳で腕の中の愛しい娘をじっと見つめると、娘はたちまち頬を朱に染め上げた。
弥勒はその反応に安堵する。――ただ、愛しい。
「やだ、もう。子供みたいに泣いちゃって。ごめんね」
今さらながら自分の言ったことが恥ずかしくなったのか、珊瑚は照れくさそうに少しうつむき、手の甲でごしごしと涙を拭った。
「こするのはやめなさい。余計に赤くなる」
「あの……あたし、何を言ったかよく覚えてなくて……」
「松の枝に二人で願掛けをしたいと、そう、おまえは言ったんですよ」
「そのあと。感情に任せてしゃべっちゃって。法師さま、気を悪くしてないかなって」
「気を悪くなど」
だが、不安げに下から見上げてくる彼女の表情は底知れない蠱惑を含んでいるようで、
(煽ってんのか? って、珊瑚に限ってそんなわけねえか)
別の意味で惑わされてしまいそうになる。
「ああ、そうだ。やめないで、と」
「へ?」
「もっとして、と。そうおまえは言っていました」
「えっ?――」
何をと珊瑚が問うより早く、弥勒の両手が珊瑚の頬を包んだ。
「……やっ、あの、ちょっと。さっきもしたし……その、心の準備が」
「無体なことをするわけではありません。おまえの気持ちがどこにあるのかを知るためです」
「何わけの解んないこと言って……っ!」
慌てた珊瑚が法師の両腕を掴むのと、法師の唇に唇をふさがれるのがほぼ同時だった。
「んっ……」
あっという間に唇ともども身体の自由も奪われてしまったが、そうされるのさえ嬉しいと感じるのは、相手が弥勒であるがゆえだ。
二度目の口づけは、最初のものより深く、長く、情熱的だった。
心地好い松韻が二人の間をすり抜けていく。
丁寧に松の枝を結ぶ珊瑚の手に弥勒が己の手を添えて、二人は顔を見合わせ、微笑み合った。
法師さま、何を願った?
私たちの間にたくさん子供が授かるようにと
え……
珊瑚?
……やだ、一緒だ……
彼女をどう愛せばよいのか、これからもいろいろと惑うだろう。
ともに生きることが答えとなればいい。
互いが互いへ抱く想いは、きっと、この常盤草のようにいつまでも色褪せずに在り続ける。
涙の味がする珊瑚の目尻に、弥勒は軽く接吻した。
〔了〕
2009.1.30.
(作者未詳)