咲く花の章
 闘いが終わり、無事、祝言をあげて幾日か経つ。
       晴れて夫婦となった弥勒と珊瑚は、琥珀を伴い、今は無人の退治屋の里を訪れていた。
       荒れ果てた故郷。
       三人で父や仲間たちの墓の草むしりをし、摘んできた花を供えたあと、弥勒がねんごろに経をあげた。
       その声に耳を傾け、珊瑚と琥珀は手を合わせる。姉弟に挟まれてちょこんと座った雲母も神妙にしている。
       あの日から、里のみなのことを忘れたことはない。
       珊瑚は惨劇の日のことを遠い昔のように思い出していた。
       いま、ようやくここに帰ってきたのだと。
       無惨に失われた生命の仇を討って、懐かしい里に戻ってきたのだと。
       珊瑚は、ちらと傍らの弟の様子を窺った。
       彼の生命が助かったのはまさに奇跡だ。
       琥珀が再び生きることが叶い、犬夜叉をはじめとする仲間たち、特に桔梗に対しては感謝してもしきれないほどの恩義を感じている。
       あとは琥珀自身が、罪の意識をどう乗り越えるかということ。
       ゆっくり時間をかけて、彼が負った心の傷を癒やしてやれる環境を作ることができればと、珊瑚は考えていた。
       今宵はこの里に泊まるつもりだ。
       読経が終わると、夕餉の支度をすると言い、雲母を連れて弥勒は席をはずした。
       夕餉の支度といっても携帯食を持参したのでそれほど大変なものではない。姉弟水入らずで話す時間を与えてくれたのだろう。
       父親の墓をしばらく見つめ、珊瑚はその視線を弟へと移した。
       これからはずっと一緒にいられるという喜びを伝えようとしたとき、琥珀が口を開いた。
      「姉上に聞いてほしいことがあるんです」
       改まった様子の彼に、珊瑚は一抹の不安をいだく。
      「おれ、近々、旅に出ようと思ってます」
      「え?」
       その意味を呑みこみかねて、珊瑚は問い返した。
      「旅……って、どうして?」
      「修行の旅に。妖怪退治屋という里の遺志を継いで、おれは退治屋として生きていきたいから」
      「でも、琥珀。楓さまの村にいても、修行はできるんじゃ……」
       琥珀は澄んだ瞳で珊瑚を見た。
      「もう決めたことだから」
      「でも……! 琥珀、おまえ、一度もあたしにそんなこと……」
      「いま言ってる」
      「それはそうかもしれないけど、そんないきなり――」
       弥勒と琥珀と、てっきり三人で暮らせると思っていた。珊瑚は微かな動揺を隠せない。
      「琥珀、あたしや法師さまに遠慮してる? もしそうだったら」
      「そうじゃない。法師さまは……義兄上は、おれの気持ちを汲んでくれました」
      「えっ……?」
       いつの間に二人でそんな話を……と、珊瑚は複雑な表情を浮かべた。
       姉婿である弥勒にそんな相談を彼がすることを、珊瑚は、琥珀が男として弥勒を信頼しているのだと嬉しい反面、血のつながった自分より義理の仲である弥勒に先に相談事を持ちかけたことを、少しばかり寂しく思った。
      「義兄上は理解してくれた。おれは本気です。姉上にも、おれの気持ち、解ってほしい」
       真摯な様子の琥珀にも、そのときの珊瑚は、混乱して曖昧にうなずくことしかできなかった。
       里の夜は静寂に浸されている。
       比較的傷みが少ない建物の中で三人と一匹で夕餉をすませ、琥珀が眠りに就いたのを見届けてから、珊瑚はそっと外へ出た。
       墓が並ぶ場所まで歩いていき、空を仰ぐと、満天の星が輝いていた。
       父の墓前に座り込んで、ぼんやり墓を眺めていると、ふと慕わしい気配が彼女の背後を訪れた。
      「外に長くいると、身体を冷やしますよ」
       おもむろに振り返り、珊瑚はじっと彼の顔を見つめた。
      「どうした?」
       やさしく問いかけ、弥勒は珊瑚の隣に腰を下ろした。
       星明かりで互いの表情は読み取れる。
       弥勒は問うように珊瑚の視線を見つめ返した。
      「眠れませんか?」
      「……法師さま、今日ここに来る前から知ってたんだね。琥珀があたしたちのもとから離れようとしていることを」
       どこか責めるような響きが含まれていることに、弥勒の口許に微笑が浮かんだ。
      「琥珀はおまえに反対されることを恐れていた。だから、先に私に打ち明けたんですよ」
       心の中を読まれたような気がして、珊瑚は視線を下に落とした。
      「自分ひとりの力で、己の道を歩んでいきたいのでしょう」
      「あたしがそばにいたら、あの子を甘やかすっていう意味?」
      「近くにいると、つい、いろいろおまえに頼ってしまいそうだと、そんなふうに琥珀は言っていました。心の弱さを克服するには、おまえから離れたほうがいいだろうと」
       しばしの間、沈黙が降り、弥勒はいたわるように数日前に妻となったばかりの娘を肩を抱き寄せた。
      「私で何か力になれたらと思っていたのですが、琥珀はすでに覚悟を決めているようです」
       珊瑚は、夫である青年の肩に、そっと頭をもたれさせた。
      「あの子も男の子なんだね」
       昔を懐かしむように、珊瑚は言う。
       やさしすぎて、退治屋には向かないかもしれないと思っていた弟。
       初陣で、回復できないかもしれないほど大きな心の傷を負ってしまった弟。
       珊瑚は父の墓を映していた瞳を空へと向けて、満天の星空を見た。
      「法師さま。……あたしは、退治屋の里の長の長子で、だけど、嫡男は琥珀で……」
       ゆっくりと言葉を紡ぐ珊瑚の声に、弥勒は黙って耳を傾けた。
      「里長を継ぐべきなのは、本来は男の琥珀だけど、性格の面では琥珀は退治屋には向いていないのかもしれないと……あたしのほうが里長を継ぐべきかもって、そんなふうに感じてた」
       弥勒は、見たこともない珊瑚の父は、そのことについてどう考えていたのだろうと思った。
      「だけど、苛酷な闘いの中で、いつの間にか成長したんだね。琥珀を手許に置いておきたいっていうのは、あたしのわがままだ」
      「琥珀が一人前の退治屋になれば、いつかおまえのもとに戻ってくるでしょう」
       珊瑚は首を横に振った。
      「いつまでも昔のままでいられるはずがない。琥珀があたしのもとから旅立っても、それは当然のことなのかもしれない」
      「珊瑚、結論を急がずともいいんですよ」
      「ううん。むしろ喜ばなくちゃ。里がこんな姿になって、それでも里のみんなの心は琥珀が受け継いでいくのだから」
       たった一日で全てを失ってしまった珊瑚の傷ついた心を、弥勒は誰よりも理解しているつもりだった。
       それゆえの、かけがえのない弟への想いも。
       必要以上に姉弟の絆へと踏み込むことはさけ、彼はただ、珊瑚の想いを受け止める。
      「でも、法師さま。法師さまは、いつまでもあたしのそばにいてね」
       珊瑚の肩を抱く弥勒の手に力が込められた。
      「もちろん。何があっても私はおまえのそばにいますよ」
      「一生?」
      「一生。もし、おまえさえよければ来世においても」
       小さく微笑んで、珊瑚は弥勒の頬に接吻した。
       何があっても、互いへのこの想いが変わることはない。
       何度でも常しえを誓うことができる。
      「さあ、そろそろ屋内へ戻りましょう。琥珀を心配させますよ」
      「うん」
       弥勒に促され、珊瑚は素直に立ち上がった。
       ひっそりとした故郷。
       里は死んでしまったように見えるが、あの惨劇から生き残った琥珀に、その遺志は受け継がれていく。
       守ってやらなければと思っていた弟がひとまわり大きく成長したことに、珊瑚は感慨深かった。
       ふと空を仰ぐと、流れ星が光ったのが瞳に映った。
       巣立つ弟の姿を垣間見たようで、珊瑚はきゅっと唇を噛む。
      「珊瑚?」
       いつまでも動かない珊瑚に法師が気遣わしげに声をかけた。
       はっとした珊瑚は夫に駆け寄り、彼の腕を抱きしめるようにして掴んだ。
      「不安ですか?」
       弥勒には珊瑚の心情などお見通しらしい。
       だから珊瑚はつい、強がってしまう。
      「平気。琥珀が旅に出るときには、きっと笑顔で見送ってやれると思う」
      「哀しいときは泣いてもいいと思いますよ」
      「大丈夫。あたしには法師さまがいるもの」
       珊瑚は抱きしめている弥勒の腕にいっそう身を寄せ、肩に頭をもたせかけた。
      「そんなにしがみつかずとも、私はどこへも行きませんよ」
      「うん。信じてる。でも、琥珀からまっさきに相談を受けるほど、いつの間に法師さまと琥珀は親しくなったの?」
      「妬けますか?」
      「ちょっと妬けるかも」
       くすりと笑い、からかうように、弥勒は珊瑚の髪に頬をすり寄せた。
      「男同士のほうが話しやすいこともあるものです」
       弥勒と珊瑚が寄り添って建物のほうへ歩いていくと、入口に雲母が座って待っていた。
      「雲母」
       夫の腕から離れ、愛くるしい猫又に駆け寄る珊瑚に、弥勒は愛しさを込めた視線を送る。
      「さあ、今日はもう休みましょう」
       雲母を抱き上げた珊瑚の背に、そっと手を添えた。その手から、珊瑚はやさしい気遣いを感じた。
       昔のようなあたたかい家庭が再び築けるだろうと確信した。
       隣にいる、このひとと。
      (いつまでも一緒にいてね、法師さま)
       二つの影は寄り添うように、建物の中へと入っていった。
       空には、里を覆いつくすように、気の遠くなるほどの星々が瞬いている。
       その空を、またひとつ、星が流れた。
〔了〕
2010.3.5.
(作者未詳)