桜の章
「雨……」
しとしとと山の木々を濡らす雫を落とす春の空を、珊瑚は見上げた。
「まあ、山の天気は変わりやすいですからな」
いきなり降り出した雨を避けるため、弥勒と二人、近くに見つけた洞窟の中へ駆け込む。
摘んだ薬草を入れた篭を抱え、洞の入り口に立ち、空の様子を窺う珊瑚。
「やまないなあ」
「そのうち、やむでしょう」
「散っちゃうね、桜」
山の桜はここ二、三日が盛りであった。
手持ちの薬草が切れかけていたのは事実であったが、わざわざこの日、珊瑚が薬草摘みをかってでたのは、法師と二人きりで桜を観たかったからでもある。
自分が山へ行くと言えば、黙っていても法師はついてくる。
──せっかく法師さまと桜を楽しみたかったのにな。
ほ、と珊瑚は小さくため息をついた。
「ほらほら。そんな顔をするな。雨が降らずともそろそろ散り出す頃だ。古来より、桜は木花之佐久夜毘売によって短い命を定められている」
弥勒は、珊瑚が抱きしめるようにして抱えている篭を取り上げると、自分のものと一緒に雨がかからない洞窟の奥の地面に置いた。そして、錫杖だけを手に持ち、珊瑚の隣に並ぶ。
「桜を散らせるのも木花之佐久夜毘売なら、風災を鎮め、開花させるのもまた、かの女神」
二人の眼の前には、しっとりと露を含む満開の山桜。
法師は、視界一面を占める、雨にけぶるような美しさを見せる桜の木々を眼を細めて眺めやる。
「さぞ、この桜の花のように美しい女神様なのだろうな」
珊瑚は不満げに隣に立つ法師へとちらりと視線を向けた。
「なんだ?」
「別に」
娘の視線に気づき、にっこりと笑いかける法師から、ぷいと顔を逸らす。
(こういうところが可愛げがないんだろうな、あたし。だけど、さ……)
二人でいるときくらい、わざわざ他の女の人の話をしなくたっていいじゃないか。
おまけにそれは、桜を司る美しい女神。
法師さまの脳裏に描かれた美しい女神の姿と比較されたら、あたしはひどく見劣りするだろう。
再び珊瑚は、今度ははっきりとため息をついた。
「……法師さまなら、やりそうだよね」
「はい?」
「醜い姉姫は舌先三寸で言いくるめて追っ払って、美しい妹姫だけを娶るの」
──法師さまに必要なのは、長い生命を与えてくれる姉姫のほうなのに──
邇邇芸命に妻として迎えることを拒まれた岩長比売のことを言っているのだと気づいた弥勒は、苦笑した。
だが、こんなことにすら拗ねたような口調になる珊瑚の愛らしさには、我知らず頬が緩む。
「何も私は顔の美醜だけでおなごの価値を判断しているわけではありませんよ?」
「でも、どっちかっていうと、綺麗な女の人、好きだよね」
容赦のない珊瑚の辛辣な物言いに、法師は、はは、と乾いた笑いで返した。
「……否定できないのがつらいところですな」
やっぱり、とでも言いたげに法師を見遣る珊瑚は、やや沈んだ表情になると、法師からも桜からも眼を逸らし、落ちてくる雨粒を受ける地面に視線を落とす。
そんな彼女の様子をしばらく見つめていた弥勒は、不意にうつむく珊瑚の顔を覗き込み、悪戯っぽい表情と口調で結論を口にする。
「美しくて、運命に立ち向かえるほど強ければ、問題ないでしょう?」
「え?」
「私が選んだのは、姉妹の女神のどちらでもなく、おまえなのだから」
ぱちぱちとまばたきを繰り返し、きょとんとしていた珊瑚の顔が、瞬く間にさあっと赫く染め上げられていった。
「なんにしても、間に合ってよかったな」
くるくると変化する珊瑚の様子に微笑を湛え、山を彩る桜花を目に映しながら、独り言のように弥勒が言う。
「……?」
「おまえの言う通り、明日には桜は散っているだろう。雨には降られてしまったが、今年の最後の桜を、おまえと二人で観たかった」
「えっ、法師さまも?」
思わず口をついて出てしまったひと言に、眉を上げ、軽く眼を見開く法師を見て、珊瑚は己の失言に気がついた。
ぱっと法師から眼を逸らすと、さらに耳まで染め上げる。頬が熱い。
くすくすと忍び笑いを洩らす弥勒の声が聞こえてくるものだから、文字通り、珊瑚は穴があったら入りたいほどの心境だった。
「なんだ。おまえも私と桜が観たかったのか」
「あっ、あたしは! たまたま薬草の残りが乏しかったから……」
不意に右手が温かい温度に包み込まれ、珊瑚は驚いて顔を上げた。
おそるおそる右側に目を向けると、極上の笑みが珊瑚に向けられていた。
「……法師さま」
弥勒の左手が、珊瑚の右手をしっかりと握りしめている。
「今年の桜は、私が今までに観てきた中で、一番美しい」
もう少し。
もう少しだけでいい。
木花之佐久夜毘売さま、雨をやませないで。
法師さまと二人、花を観る時間を終わらせないで──
雨は、四半刻も経たぬうちにやんでしまった。
しかし、名残惜しげに珊瑚がつながれた手を解こうとしたとき、法師の手が離れかけた珊瑚の手を強く握った。
驚いて振り返る珊瑚に法師は微笑む。
「濡れた山道は滑りやすい。いま少し、このまま、桜を眺めていよう」
まだおまえとここにいたい──と、言外に含ませて。
珊瑚は、一瞬はにかむように桜色の面を伏せたが、素直に法師に従った。もちろん、右手は弥勒に預けたまま。
幸せな春のひとときがそこにあった。
〔了〕
2007.6.11.
(作者未詳)