笹の章
今宵はひときわ、寒さがこたえる。
外でさやさやと音を立てる笹葉のさやぎが、やけに物寂しく響く。
一応、寒行の経験もあるし、一人で旅を続けていた頃は、寒い夜にこのように独り寝をすることも少なくなかったはず。しかし。
「……」
夜具に横たわった弥勒は、薄暗い部屋の中、隣室とこちらを隔てている襖に目をやった。
薬箱の中身やその他の必要なものの補充に、かごめが犬夜叉と一緒に現代に行っているので、今夜は珊瑚と七宝と雲母と、三人と一匹で大きな寺に厄介になっていた。
明日の朝、犬夜叉とかごめはこの寺へ戻ってくることになっている。
弥勒は小さく吐息をつくと、上体を起こした。
寺は広く、気のよい住職は旅の一行に二部屋を用意してくれた。
しかし、七宝も雲母も珊瑚の部屋へ行ってしまったので、しんとしたこの広い部屋に一人きり、というのは、空気の冷たさばかりでなく、精神的にとても寒々しい気分になってしまう。
隣室との境の襖からは、細く灯りが洩れている。
珊瑚はまだ起きているらしい。
弥勒は起き上がり、そっと襖を開けた。
「法師さま。もう寝たんじゃなかったの?」
燈台に明かりを灯し、武具の手入れを行っていた珊瑚が顔を上げて弥勒を見遣る。
弥勒は無言で彼女に与えられた部屋を見廻した。
こちらの部屋も広い。
この広さなら一部屋で充分じゃないか、と弥勒は思う。
「法師さま?」
そのまま踵を返し、自分の部屋に引き返した弥勒は、夜具一式を抱えて再び珊瑚の部屋に戻ってきた。
「何やってんの?」
「私もこちらの部屋で寝ます」
珊瑚は少し眉を上げると、くすりと笑みをこぼした。
「犬夜叉がいないから一人で寂しいんだ」
「違います。こんな霜夜に一人というのは寒くて敵わぬだけだ」
独りきりでいることに、自分はいつの間に違和感を覚えるようになったのだろう。
「おまえこそ、かごめさまがいなくて寂しいんじゃないんですか」
「ん、まあね。でも、こっちの部屋は七宝と雲母が一緒だから」
七宝と雲母が寄り添うように眠っている夜具を少し横へずらし、弥勒は空いた空間に自分の夜具を延べた。ちらと珊瑚を窺うと、燈明の作る火影を頬に受け、穏やかな表情で手入れを終えた武具を片付けている。
光と影に仄白く浮かび上がる美しい横顔をいつまでも見つめていたい誘惑に駆られ、弥勒はことさら悪戯っぽく神妙な声を出した。
「けれど、せっかく二人きりの夜だというのに部屋を分けられて、おまえは寂しくなかったのか?」
「二人きりって……七宝も雲母もいるよ?」
弥勒はすっと珊瑚のそばに座し、彼女の手を取った。
「あちらの二人はすっかり寝入っている。起きているのはおまえと私だけだ」
吐息のようにささやかれ、珊瑚は法師の肩越しに眠りこける七宝と雲母を瞳に映し、視線を法師の顔に戻した。その頬がほんのりと桜色に染まり、顔がうつむく。
にわかに意識しだした珊瑚の様子が愛らしく、弥勒はそっと微笑むと、娘の肩を抱き寄せた。
「寒い夜は人肌が恋しくなるんですよ……?」
一段と甘さを増した法師の声に慌てた珊瑚は、身をよじって手を伸ばし、自分の荷の中から何かを取り出した。
「こっ、これ、かごめちゃんからもらったんだけど。はい、法師さまにもあげる。懐に入れておけば暖かいよ」
と、珊瑚が差し出したものは使い捨てカイロだった。
「温石のようなものですか?」
「ん。そうみたい」
法師はそっとため息を吐いた。
「だが」
珊瑚から受け取ったカイロをわきに置き、
「愛しいおなごの肌に勝るものはない」
珊瑚の身体を引き寄せ、弥勒は彼女を自分の腕の中にすっぽりと収めてしまった。
「あのっ、でもっ! ここには七宝がいるし……」
「七宝がいなければ、一緒に寝てくれるのか?」
「え、そういうことじゃなくてっ……」
あたふたと視線を泳がせた珊瑚は己の置かれた状況に気づき、ますます焦った。
時折、寒風が寺の周囲の笹藪を揺らす音が寒々しく耳につく、静かすぎる夜更け。
消えかかった燈台の灯りだけが頼りの仄暗い部屋で、想いをよせる男に抱きしめられている。
しかも、男の背後には夜具が延べられていて──うるさいほどの鼓動の音に珊瑚の頬の熱はどんどん上がっていった。
「ほ、法師さま。寒いんなら、法師さまが七宝と一緒に寝たらいいよ。あたしはこっちの法師さまの夜具を使うから」
「それではおまえが寒いだろう?」
「あたしは平気っ」
思わず声が上擦る珊瑚は困惑顔で首を振るが、法師は全く意に介さず、彼女を強引に床まで引っ張っていった。
「独り寝は寒いし、かといって、おまえを一人にするわけにはいかん。いっそのこと、ここはみんなで寝てしまいましょう」
「え?」
「七宝を間に挟めば問題ないでしょう? なに、ただ暖を取るだけと思えばいい」
珊瑚に反論の隙を与えず、弥勒は彼女を夜具の中に押し込んだ。
「や、あの、法師さま……」
「ああ、別に七宝と雲母がいても構いませんよ。おまえと床をひとつにできるのなら、それくらい気にしません」
「あたし、まだいいって言ってないんだけど」
七宝と雲母を真ん中に、珊瑚と向かい合うように弥勒はするりと寝床に滑り込んだ。
目が合い、にっこりと微笑みかけられ、羞恥を覚えた珊瑚が法師に背を向けようとすると、夜具の中で軽く腕を押さえられた。
「こういうのも、たまにはいいでしょう?」
弥勒と向かい合って床に入っている恥ずかしさから、珊瑚は頬を染め、七宝をぎゅっと抱きしめる。
七宝と雲母がいるものの、使っている夜具は一組なのだから、法師との距離はとんでもなく近い。
こんな近くに法師さまの顔があって果たして眠れるのだろうか、と思うが、反論するタイミングを完全に失ってしまい、仕方なく、珊瑚は眼を閉じた。
腕に抱いている七宝と雲母が暖かくて心地好い。
その心地好さに身を任せ、うつらうつらとしていると、腕に添えられていた法師の手が、そっと珊瑚の背中に廻された。
暖かくて、安心する──
珊瑚はそのまますうっと眠りに落ちた。
「く、苦しい」
闇の中、突如、むくっと起き上がったのは小さな仔狐だった。
「こんな窮屈な場所では寝てられん」
寝ぼけまなこで室内を見廻すと、闇にぼんやりと浮かび上がる隣の夜具が目に映る。
「おお。あっちの寝床は空いておる」
弥勒と珊瑚の間からするりと身を起こすと、寒さに身がぶるっと震えた。
「寒いのう……」
手探りで雲母を掴まえると、暖かい猫又を抱いて、七宝は空いている夜具の中にもぐりこんだ。
「ふう。これでゆっくり眠れる」
むにゃむにゃ言いながら、仔狐はすぐに深い眠りについた。
翌朝。
ぱたぱたと軽い足音が近づいてきたかと思うと、縁に面した障子が、ばっと開けられた。
「ただいまー! 早かったでしょう?」
と、そこまで言って、かごめは硬直した。
「どうした?」
後ろからやってきた犬夜叉が、かごめの様子に怪訝な表情を見せ、ひょいと部屋の中を覗き込んだが、こちらもすぐに固まってしまった。
部屋の中には二組の夜具。
片方には雲母を抱いた七宝がくうくうと寝息をたてていて。
そしてもう片方には、しっかりと珊瑚を抱きしめて眠っている弥勒と、そんな弥勒の胸に顔を押し付けるように寄り添って眠る珊瑚の姿。
目を二人に向けたまま、恐る恐るかごめは口を開いた。
「……弥勒さまと珊瑚ちゃんって、すでにそういう関係だったの?」
顔が赫くなるのを自覚しながら小さく問うと、やはり赫い顔をした犬夜叉がぶっきらぼうに視線を逸らした。
「おれに訊くな。知るわけねえだろ」
「起こさないほうが……いいわよね……?」
「お、おう。今起こしたら、弥勒に恨まれる」
かごめはそっと七宝と雲母を抱き上げると、気まずさを隠しきれない犬夜叉とともに、そろりと障子を閉め、そそくさと二人が眠る部屋をあとにした。
法師の眼が薄く開かれる。
かごめの足音で眼を覚ましていた弥勒は、己の腕の中で仔猫のようにあどけなく眠る娘に視線をやった。
「どうやら、誤解されてしまったようだな」
小さく苦笑する。
就寝前、七宝と雲母で隔てられていた珊瑚との距離はなくなり、娘は彼の胸に顔を埋めるようにぴったりと身を寄せている。
そんな様に自然と微笑みが浮かび、彼は彼女の髪をやさしく撫でた。
「……久しぶりにぐっすり寝たような気がする」
珊瑚が眼を覚ましたとき、こんな体勢でいたらどんな反応を返されることか。想像すると苦笑を禁じえないが、まだこの温もりを手放したくはなかった。
「ん……」
小さく身じろいだ珊瑚が、甘えるように法師の袈裟の胸元に頬をすりよせた。
珊瑚が眼を覚まさない程度に、弥勒は彼女の背に廻した腕に力を込める。
障子の向こうからは黎明の光。
物寂しげな笹の葉音は、もう聴こえない。
〔了〕
2007.12.9.
(防人の歌)