橘の章
捻挫した足首がまだ少し痛むけれど、これから珊瑚と二人きりで時間を過ごせるのだと思うと、そんなことは気にもならなかった。
上手く七宝を一人で遊びに行かせて厄介払いをした弥勒は、楓の家の中で、荷を片付ける珊瑚の後ろ姿に目をやった。
「じゃあ、法師さま。あたし、これから出かけるから。留守番頼むね」
「はい?」
それなのに、振り返った彼女がそんなことを言うものだから、弥勒は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「言ってなかったっけ。約束があるんだ」
「出かけるんですか? 今から? 私を置いて?」
「何わがままな子供みたいなこと言ってんの。夕方になれば、楓さまも七宝も帰ってくるよ」
弥勒は一瞬、口をつぐんだ。
楓のこの村に、珊瑚が約束をするほど親しい人物がいるとは思えない。
おまけに彼女は、弥勒を憎からず思っているはずだ。二人きりになれる絶好の機会だというのに。
「いったい誰と」
珊瑚に気取られない程度に、弥勒は眉を険しくした。
「小太郎だよ。前から約束してたんだ。次に村へ戻ってきたときには小太郎につきあうって」
「小太郎?」
「平太のところの」
「……平太?」
弥勒の眉根が寄った。
「法師さま、知らない? 七宝の友達の平太」
七宝の友達というならまだ子供だろう。しかし、小太郎というのは……
珊瑚は穏やかに続けた。
「平太は最近、この村へ移ってきた子なんだ。去年、戦に巻き込まれて、母親が死んだって言ってた」
ということは、父親はやもめか。
七宝くらいの男の子の親ならば、後添いがほしいだろう。
弥勒ははっとした。そいつが珊瑚に目をつけたのだとしたら?
「いけません! 私が許さん」
「法師さまに指図される謂れはないよ」
言葉を失う弥勒に背を向け、珊瑚は草鞋を履いた。
「看病が必要なほどの怪我でもないし、一人で大丈夫だよね。法師さまはゆっくり休養してて」
躊躇のない珊瑚に法師は戸惑う。
これは因果応報というやつなのか。
いつも、さっさと出かけて娘たちに愛嬌を振りまくのは自分で、そんな自分を追いかけるのは珊瑚だった。
そして、常がそんなだから今日くらいは、怪我を理由に珊瑚に自分を独占させてやろうと――つまり自分が珊瑚を独占しようと――思っていたはずなのに。
とんだ計算違いだ。
「あ、熱が。まだ痛みます、珊瑚」
わざとらしく額を押さえてみても、珊瑚は動じてくれなかった。
「痛いのは頭じゃなくて足だろ? そんなに看病してほしかったんなら、犬夜叉がかごめちゃんと行ってしまう前に、ついててほしいって頼めばよかったのに」
「冗談じゃありません! 野郎と二人っきりで顔つき合わせて何が楽しいものですか」
珊瑚はため息をついた。
「あたし、もう行くから」
「私も行く」
「え?」
「私も行くと言っている。無理して歩けないこともない」
珊瑚は驚いた。
怪我を押してまで村の娘たちを集め、手相見でもする気なのかと、柳眉を逆立てて弥勒を睨む。
「駄目! 女、連れ込んだりしないで! この時間はみんな忙しいんだ」
「その忙しい時間帯におまえは小太郎と会うのか?」
「あたしは自分のことはすませたし、夕餉の下ごしらえもした」
「みゃう」
小屋の外で雲母が鳴いた。
「ごめん、雲母、いま行く」
弥勒をひと睨みしてから、珊瑚は足早に外へ出た。
雲母公認の相手なのか――
弥勒は眩暈を覚えた。
* * *
こっそりつけていくのはかなり骨が折れた。
思うように歩けないし、旅において仲間に迷惑をかけるわけにはいかないから、捻挫を悪化させないよう、足に負担をかけないように慎重に歩く。
(何やってんだ、おれは)
異性に不慣れなはずの、あんな初心な娘に振り廻されるなんて。
錫杖で身体を支え、なんとか村外れの木の下まで来た弥勒は、大きく息をついて、そこに腰を下ろした。
珊瑚の姿を見失って、村の中は隅々まで捜し歩いた。
それでも見つからないということは、彼女は小太郎と一緒に村の外に出たことになる。
なげやりな仕草で前髪をかきあげ、ふと、彼は木を見上げた。
黄色い実がなっている。
(橘か)
橘の実は酸っぱくて食用には適さない。
実はなっても食べられないことが、己と珊瑚の仲と重なり、哀しくなる。
ずっとそばにいて、ともに闘い、絆を育ててきたつもりだが、二人の絆が男女のそれとして成り立つことはないのだろうか。
(もし、風穴がなかったとしても、珊瑚はおれのことなど……)
確信していた彼女の想いまで、疑ってしまう。
(どうせ、軽薄な浮気者としか思われてねえだろうしな)
誤解だと言えないところがつらい。
そんなふうに橘の木の下で物思う法師の視界に、不意に林の方角からこちらへやってくる捜し人の姿が映った。
「――珊瑚!」
橘の木の根元に座り込む彼の姿を認め、娘も大きく眼を見張る。
「法師さま!」
すぐに法師のもとまで駆けてきた珊瑚は、気遣わしげに彼の足を見て、彼の顔を見た。
「足、捻挫してるのに何やってんの! 怪我がひどくなったらどうするんだ!」
思わず大声を出した珊瑚の剣幕に、彼女の肩の上にいた小さな猫が、驚いて橘の木に飛びついて幹を駆け上がった。雲母ではない。
「あっ……」
猫の姿を追って枝の上を振り仰いだ珊瑚は、黄色い実に気づいたようだ。
「実がなってる」
「あれは橘ですから食べられませんよ」
「知ってるよ。でも、橘の葉は常緑だから、確か、とこしえの象徴なんだよね」
とこしえの象徴という言葉を発したとき、やや声音が低くなり、ちらと法師のほうを見た珊瑚の眼差しがわずかに瞬いたようだ。
それを弥勒は見逃さなかった。
いつまでも変わらず、己と一緒にいたいという意味だと解釈するのは、自惚れが過ぎるだろうか。
だが、自分がここまでやってきたわけを思い出し、弥勒は苦い声を出した。
「逢い引きは楽しかったですか?」
「何のこと?」
「小太郎どのと逢い引きだったんでしょう?」
「……どの?」
一瞬、きょとんとした珊瑚は、すぐにくすりと口許を綻ばせた。
その様が弥勒の癇に障った。
「雲母も一緒だよ」
みう、と珊瑚の足許で猫又が愛らしく鳴く。
「雲母がいたところで、二人きりと大して変わらないじゃないですか」
不満げにつぶやく法師を見て、珊瑚はどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
そして、橘の木を見上げ、おもむろに声を上げる。
「小太郎、降りておいで!」
「にゃあ」
珊瑚の呼びかけに、白地に茶色のぶちの仔猫が、そろそろと用心深く樹上から降りてきた。
その小さな体躯を抱き取って、珊瑚は弥勒に差し出した。
「紹介するね、法師さま。平太んとこの小太郎」
「え……あ?」
呆気に取られて弥勒は珊瑚と仔猫を見比べた。
「小太郎って……これか?」
「“これ”はないだろ? 猫は気高い生き物なんだよ。ね、雲母」
珊瑚の視線を受けて、雲母がみゃあと応えた。
小太郎を弥勒の膝の上に乗せ、珊瑚は彼の隣に腰を下ろす。
「だが、小太郎と約束って……いったい猫と何してたんです」
「平太に頼まれたんだ。小太郎を雲母みたいな猫又にしてほしいんだって」
「猫又に?」
弥勒はちょこんと己の膝に乗って毛づくろいをする仔猫を見つめた。
「百年くらい経たないと無理じゃないでしょうか」
「あたしもそう言ったんだけどね。平太がどうしてもって言うから。仕方ないから、躾だけでもしてやろうと思って」
「なるほどな」
気がそがれたようにつぶやく法師のほうを、珊瑚はちらちら窺った。
「で、あの、法師さま? あたしのこと、その……」
心配してくれたの?
そう言おうとしたとき、村のほうから小さな男の子が駆けてきた。
「珊瑚姉ちゃーん」
「平太」
橘の木の下で話し込む法師と娘のそばまでやってきた男の子は、七宝くらいの年頃だろう、法師の膝の仔猫に声をかけた。
「小太郎、いい子にしてたか?」
だが、ちらと法師のほうを一瞥した少年の眼つきに弥勒はぴんときた。
珊瑚に惚れているのはこいつだ。――否、この年齢では憧れといったほうがいいだろう。
法師の膝にいた小太郎が平太に飛びついた。
「よしよし、小太郎。ありがとう、珊瑚姉ちゃん。これからうちにおいでよ。一緒に夕餉を食べようよ」
「あたしは法師さまの世話をしなきゃならないからさ。遠慮しとくよ」
猫と同等に扱われたような気もするが、ある意味、夫に対して言うような、珊瑚のその言葉が嬉しかったことは否定できない。
「ふーん」
つまらなそうに、平太は横目で法師を睨み、抱いている小太郎を撫でた。
「じゃあ、七宝に、明日遊びに行くって伝えて」
「ああ。解った」
平太は珊瑚に手を振って、村のほうへと帰っていった。それを見送ってから、珊瑚は少し恥ずかしげに弥勒を顧みた。
「あたしたちも帰ろう? 法師さま、立てる?」
「ああ」
何というか、一気に疲れが襲ってきて、弥勒がふらりと立ち上がろうとすると、控えめに身を寄せてきた珊瑚が彼の動きを手伝ってくれた。
ふと気づくと、いつの間にか橘の木の陰に小太郎を抱いた平太がいる。
こっそり法師と珊瑚の様子を窺っているようだ。
「あっ」
法師がわざとよろめくと、慌てて珊瑚が全身で彼を支えた。
どさくさに紛れて彼女の華奢な肢体を軽く抱きしめれば、衣を通して、彼女が身を強張らせたのが判った。
「きっ雲母、変化してくれる? 法師さまは歩けないんだ」
真っ赤になって、うわずった声で彼女は言う。
「すまない、珊瑚」
「そっ、そんな! もとはと言えば、あたしが法師さまを放って外へ出たのが悪いんだし」
切なげな瞳でじっと見つめれば、おどおどと、それでも嬉しさを隠しきれない珊瑚の心情は明らかで、猫を抱いた少年は法師を睨みつけて去っていった。
ふと見れば、変化した雲母が呆れたように法師を眺めていた。
(まいったな)
苦笑して、法師は珊瑚から身を離そうとした。
すると、目が合った娘は、一瞬、名残惜しそうな様子を見せた。法師がおやというような顔をすると、彼女は急いで言葉で誤魔化した。
「あ、あたしに掴まっていいんだよ。足、早く治さなきゃいけないから、遠慮しないで」
「では、お言葉に甘えて」
あまり体重をかけないように、かつ、愛しい娘との密着を堪能し、弥勒は珊瑚の肩に腕を廻して雲母までの短い距離を楽しんだ。
(とこしえ、か)
永遠などという気の遠くなる時間を求めているわけではない。けれど、互いに望むものが同じであれば、それが可能な限り長く続けばいいと思う。
ともにいたい。
ただ、それだけの願いだから。
〔了〕
2010.12.8.
(坂上郎女)